project-REN

南北朝(日本)時代と漫画家・車田正美先生の作品を瞑想する部屋。

【太平記】-第2回『芽生え』-(1)

2009年05月17日 14時24分38秒 | 大河ドラマ『太平記』(1991年)

将軍:第9代・守邦親王

執権(将軍補佐)(※01):第14代・北条高時
||                     |
|└―評定衆(※02)          内管領(※04):長崎円喜

└――連署(執権補佐)(※03):金沢貞顕―(縁戚)―足利貞氏―┬―上杉清子
                        |                 |
                        貞将             高氏、直義

※01:はじめは鎌倉幕府における政所別当の中の一名をさしたが、北条氏が代々世襲するようになると、将軍にかわって幕政の実権を掌握する職名となった。初代執権は北条時政で、以後北条氏による執権政治体制が確立する。
※02:鎌倉・室町幕府の職名。1225年(嘉禄1)3代執権北条泰時が創設。執権とともに評定所で裁判・政務などを合議した。人員は15名程度。有力御家人や北条一門から選出。幕府の最高機関であった。室町幕府もこの制を受け継いだが、応仁の乱後は衰退。
※03:鎌倉幕府の役職名の一つ。執権を補佐し、下知状、御教書に執権とともに署名した。
※04:鎌倉幕府執権の北条氏宗家の得宗家の家政機関得宗公文所を管領した。得宗被官の御内方の頭人。本来私的な存在であったが、北条氏権力の確立により、幕政にも大きな影響力をもち、侍所の頭人を兼ねた。時宗・貞時の代の平頼綱を初見とする(『中世史用語事典』新人物往来社)。

とまあ、これが鎌倉の状況。
北条一族(庶流)も長崎円喜(フランキー堺)には腹据えかねている・・・とグチった金沢貞顕(児玉清)はそれなりにエラい人。ほんとは評定衆に加わりたいのに内管領さまへの付け届けが足りず、加われないんだそうで。
この熾烈な権力闘争の中で、足利高氏(真田広之)はどう生きる。誰と、なにと戦う。

*

鎌倉。足利屋敷。
家来衆と太刀の稽古をしていた足利直義(高嶋政伸)が、高氏が犬合わせで執権の曲(くせ)犬をけしかけられ、笑い者にされた一件を知りました。
兄上が!
ピーっと100℃に達した直義は木刀を右腿でバキッと折り、

(直義)「おのれ、北条のヤツばら!」

デカい声と足音で、母上!母上!と亭内を歩くうちに一色右馬介(大地康雄)を発見。ロックオンされた右馬介は、あ、あっちへ行こう、と逃げます。が、直義はターゲットを追いかけて、おまえがついていながら、なぜ犬を斬り捨てなかった、執権殿に臆したか!
兄想いのいいやつなんですが、斬れるものならとっくに斬ってるし、高氏に口止めされたので右馬介に罪はありません。そこへ清子(藤村志保)がやって来ました。

(清子)「その儀については、たった今執権殿の代人が見え、犬役人の手落ちにておいたわしき次第になりしこと、お許しあれ、と丁重なるお詫びがありました」

犬役人のせいにすり替わっている。しかし、先に下手に出られたので、高氏の負傷も「さしたるものではない」ことにして、それにしちゃケツに歯型が残るような見事な咬まれっぷりでしたけど、コトはくるくると円く収められてしまいました。

赤橋守時亭。
当の本人は直義の憤りを無駄にして、赤橋登子(沢口靖子)となにやら芽生え中。これが萌え、というやつですか。

(登子)「今日は兄、守時が留守をしておりますゆえ、御用の向きは代わって承りまする」

怪しい。お兄ちゃんは居留守か、わざと「御用」を作って出かけたような気がします。用向きはこの写本、写本・・・と声も手もとも上ずった高氏が、やっと『古今和歌集 六帖』を返すと、

(登子)「古今六帖でございますね」
(高氏)「古今六帖、でございます」

そこで登子は、あ、とマニュアルコピーミスに気づきました。

  • “忘らるる時しなければ春の田を、返す返すぞ人は恋しき”(貫之)

この歌は正しくは“春の田の、”ではないか、と云い、亡き父もそう申しておりました、いかが思われましたか、と彼女は高氏に見解を求めました。そんなもの、ただのお使いの高氏にあるはずがありません。これは母がレンタルしたもので、自分は読んでません、と素直に白状しました。これで、登子の彼に対する好感度はアップしたらしい。

(高氏)「ああ・・・これは恋の歌だな」
(登子)「はい、恋の歌です」

歌と、恋という言葉をうっかり反芻し、2人でどツボにハマって俯いてしまうのですが、

(高氏)「この本、今一度お貸し願えませぬか。それがしも読んでみとうござる」

借りれば、また会えるし。
高氏には、気になる相手と体験を共有したい、人を知りたい、という強い心があるようです。基本的に人が好きなんですね、この人は。それから、京で育った清子に聞かされた「御所」や「天子さま」のこと・・・京への憧れも持っています。

赤橋家は第2代執権・北条義時の3男、長時を始祖とする名家で、代々の足利家も北条一門から姫を正室に迎えて安定を図りました。しかし、父の貞氏にとっては「無理な縁」でしかなかった嫁とりが、高氏にはそうでなくなった。
将軍御座所で格子番を勤めながら、宍戸知家(六平直政)は、

(知家)「御辺はあれだな、やはり足利の御曹司だな。昨日の犬合わせを見てつくづくそう思うたわ。あれほど酷い目に遭わされれば、並みの者なら刀を抜く。執権殿の犬を斬る! ところが御辺はじぃっと耐えている。あれで執権殿は上機嫌よ。さすが足利殿は代々の世渡り上手。ああでなければ敵わん、と皆申しておった。これで北条方より嫁御でもいただけば、御辺は当分安泰じゃのう」

恋と立場の板挟み。まな板の上の恋。格子の上げ下げの手が止まった高氏に、

(知家)「そういうそれがしも、小国の守護の嫡子よ。御辺と同じ目に遭えば、同じことをいたすだろう。お互い、美しゅうはないのう・・・つまらん世の中じゃ!」

美しい登子は教養があり、上品で、その心も美しかった。だが、彼女は北条(平氏)の姫。源氏の嫡流であるがゆえに足利家は美しからぬ振舞いに耐えて生き延びている。それは美しいことなのか。
犬合わせと、ぎこちなくも微笑ましい“見合い”で描かれた、動乱へ向かう時代の申し子「足利高氏」の心と立場は、大事件を経てさらに引き裂かれます。

ある日、極楽寺坂(※05)から「時宗(※06)のやから」が鎌倉に入ってきました。木戸で制止されても誰一人止まらない。若宮大路で馬を引いて歩く高氏がその場にばったり出くわしました。
※05:鎌倉の七切通しといわれるものは、西南の極楽寺坂の切通しから時計回りに、大仏坂・化粧(けわい)坂。亀ヶ谷(やつ)坂・巨福呂(こぶくろ)坂・朝比奈坂・名越(なごえ)坂の七つである(『図説 鎌倉歴史散歩』河出書房新社)。
※06:本尊は阿弥陀如来。宗祖・一遍上人以来、相模国とは関係が深い。清浄光寺(神奈川県藤沢市)は後醍醐天皇の肖像画を所蔵している。

御輿のように担がれた時宗の聖(小池栄)に、末法の世からの救いを求める人々が殺到します。へえ、という感じでおもしろそうに眺める高氏と、聖の視線が合いました。
ところが、長崎円喜の一行もそこまで迫っており、なんとしても押し戻さないと警固の武士にとばっちりが及ぶので、止める方も必死です。僧の肩から降りた聖は、

(聖)「こは天下の大道ぞかし。われらはただ人に念仏を勧むるばかりなり。他意はなし」

これが高氏の心に響いた。↑のエピソードは1282(弘安5)年3月1日、第8代執権・北条時宗と一遍が北の巨福呂坂の木戸でやり合った一件とそっくりで、

「執権の御前でこのような狼藉をするとは何事か。お前が人々を引き連れているのは、ただ世間的な名誉がほしいからだけであろう」
一遍は答える。
「私には名誉などは一切必要がない。ただ人々に念仏を勧めるだけである」
これに対して武士は返答もしないで杖で二度ばかり一遍を打った。しかし一遍は痛がる様子も見せず、
「私は念仏を勧めることを命としている。それを、このように禁止されたら、一体どこへ行けばよいのか。ここで命を終えよう」
と言い切った。

『図説 鎌倉歴史散歩』(河出書房新社)

静々と、堂々と歩き始めた聖。権力と信仰と、どちらが勝つのか。高氏も人々も息を呑んで見守る中、ついに下人が刀を抜き、最後尾の僧の背を左肩から袈裟懸けに斬りました。

斬った!

悲鳴が上がり、それでも合掌して歩こうとする僧に二ノ太刀を浴びせた下人は、崩れ落ちる僧を支えた尼をも串刺しにしました。
これで高氏がキレた。凄まじくキレた。
僧と尼を斬った下人に飛びかかり、ガッデム!と喚いて多勢の下人衆と大乱闘。投げ飛ばされても、馬乗りになって刀の柄頭でめちゃくちゃに相手の顔を殴りつける高氏は完全にイっちゃってます。謎のイケメン山伏も棒で参戦し、もうK察を呼べ!というかそのK察が収拾つかなくなってるんですが、

(家臣)「それなるは足利家の若殿なるぞ、退けい!」

長崎家家臣(長谷川弘)がやっと止めてくれました。

(家臣)「足利讃岐守殿のご嫡子、治部大輔殿とお見受け申す。知らぬこととは申せ、先払いの者が粗相つかまつった。お許しくだされ」

悪い。悪いです。あの鯰(なまず)顔にバレた。

(円喜)「讃岐守殿も、良いお世継ぎをお持ちよのう」

嫌味たっぷりのせりふを吐いた円喜の考えていることは明らかで、高氏の、足利家の運命やいかに。

(続く)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。