弱法師(よろぼし)
彼は俊徳丸―――弱法師と呼ばれるうら若い男。讒言によって家を追われ、今は盲目となってさすらい、人に憐れみを乞う境涯にある。この能は、その陰惨な生活を底流としながらも、不幸もそれを奪うことのできなかった梅の香のような詩心が、天王寺のざわめきの中に、くっきりとした一種の爽やかさで浮かびあがってくる。
子を追い失ったことを後悔する父(ワキ)の、天王寺での施行(善根のために人に物をほどこすこと)。従者(アイ狂言)がその満願の日であることを寺内に告げる。俊徳丸(シテ)は杖にすがって出、今生から中有の闇に沈む苦しみを訴えつつ仏法最初の天王寺にやってくる。散りかかる梅の花も共に、俊徳の袖は施行を受ける。そして語られる天王寺の縁起。弱法師とは一群の芸能者の通称であり、縁起を語りつつ喜捨をうけていたと考えることもできよう。春分の入日。日没に浄土を観想する日想観をきっかけに、彼の心には、かつて見た難波の風物がありありとよみがえる。光の世界への魂の飛躍。興奮のあまり狂い、行き来の人にゆきあたって倒れ、現実世界の無惨へとひき戻される。
父子の再会。しかし、橋ガカリを退いていく俊徳の背には、なお孤愁が色濃い。
(『能百十番』平凡社)
3代将軍の後、100年の間、政(まつりごと)を司った執権の北条氏。しかし第14代の世に至り、家臣にすぎなかった長崎円喜(フランキー堺)、高資(西岡徳馬)に権力が集中し過ぎたために御家人のストレスが昂じ、鎌倉幕府は歪(いびつ)な形になってしまいました。
歪さ加減を第7回まで追った『太平記』ですが、ここらで「どげんかせんといかん!」と立ち上がった幕府の2つの力が第8回の焦点です。
赤橋守時(勝野洋)が結集しようとする反長崎派。
そして、北条高時(片岡鶴太郎)。この人もこの人なりに円喜にはストレスを感じていて、面倒なことは「ずーっと考えてくれた」その「恩人」を、ええっ、暗殺?!
爽快な守時とは垂直方向に反対な、彼の内面のどろどろが見応え充分ですわ、ほんと。
*
夜。
足利高氏(真田広之)は約束の浜へ向かいました。藤夜叉(宮沢りえ)はいません。代わりに一色右馬介(大地康雄)が馬で追ってきて、どこへ行くのか、訊ねました。
(高 氏)「藤夜叉に逢いに参る」
(右馬介)「逢うてどうなされます」
(高 氏)「一緒に京(みやこ)へは行けぬ、北条の姫君を娶る。そう申すのじゃ。・・・それで文句あるまい。さりとて、子はわしの子ぞ。なんとしても引きとりたい。母子ともに手もとに置きたい」
藤夜叉があれほど嫌がった側室に迎える、というのが高氏の覚悟でした。両手に花、いいとこ獲りかよ!とちょっと呆れましたが、筋も本音も通したい彼としては精一杯だったのでしょう。
ところが、彼女の方は昨夜のうちに旅装束で鎌倉を出奔。ましらの石(柳葉敏郎)の手引きで伊賀の「キリオ」という花夜叉(樋口可南子)の里に隠れてしまいました。
それを(行き先は伏せた)右馬介に知らされ、手をついて側室の件を頼むつもりだった高氏は驚愕。だーっと馬を走らせた挙句、海を見つめて崩れ落ち、
(高氏)「藤夜叉・・・わしを・・・置いて行きおった」
身分違いの男↑女↓の悲恋は、女の方が泣く泣く去ったりするものだと思っていましたが、武家の貴公子が、大河ドラマのヒーローが白拍子に捨てられ、砂にまみれて嗚咽を堪えている。すごい描写です。
(石)「ほんとにいいんだな。自分で決めたことだぞ」
小舟に揺られる藤夜叉は、逢っても同じことだもの・・・と時を置いて高氏を忘れようとしていました。身を離せば心も離れるのではないか、と。涙ぐみながら。
(貞氏)「伊賀と申せば河内の国と近いな。伊賀には楠木正成とその一党が出没しておる、とかねてから聞き及ぶ・・・楠木党は目が離せん。そちは伊賀へ参れ」
足利貞氏(緒形拳)は右馬介からすべてを聞いており、彼を伊賀へ出張させることにしました。楠木党は「正中の変」においては沈黙していたので、貞氏が彼らをマークしたのはもっと前、ということになります。
ところで「キリオ」がどこなのか、調べようとしたのですがよくわかりません。楠木党と申楽(花夜叉一座)が絡んできたので、淀川水系から手繰って霧生(きりゅう)か、とも思うのですが。どうでしょう。
一月後。赤橋守時亭。
登子(沢口靖子)が生家から足利家に輿入れしました。
(使者)「申し上ぐる! 赤橋家より庭火を持参仕り候、庭火に候!」
赤橋家の庭竈(にわかまど)の火が足利家へ移され、吉例により3日3晩灯される。家来衆が平伏する屋形に登子が上がります。高氏とともに装束は紅白。祝言の間に置かれた屏風は白、酒瓶は素焼、折敷も角切りの白木。
こういう考証のちら見せも大河ドラマの醍醐味で、ああ、クリーンな素(白・赤)だな、祓いだな、とわかります。
舅姑はかわいい嫁にご満悦ですが、直義(高嶋政伸)は・・・この小舅はもう鬼千匹。
仲人の金沢貞顕(児玉清)はにこにこして、
(貞顕)「常葉の影に、花の錦を加えたるとはこのことぞかし。幾千代、おめでとう存じ上げまする」
とにかくめでたいけど、どういう意味なんだろう。そういえば、この2人は『古今六帖』がとり持った仲でした。
- “見渡せば柳桜をこきまぜて、みやこぞ春の錦なりける”(素性法師)
現在、京都市内を流れる鴨川沿いには柳と桜が交互に植えられています。鴨川といえばあれです、「水無月祓」。
春の芽生えを扱き交ぜて、夏を越え、秋には稲穂を実らせたい。足利と北条、幕府の行く末に立ち込める暗雲を払う「救いの神」になれるのか、登子。
寝所にて。
(高氏)「この高氏が・・・仮に北条家に弓を引き、そなたの兄をも敵とせねばならぬ日があったなら、そなた、その時はなんとするか」
(登子)「いつの日か・・・まことそのようなお心組みが、高氏さまにおありなのでござりますか」
(高氏)「あるとしたら」
嫁御との妻合いで、なんてことを。彼を見上げた登子は実に切ない表情をしますが・・・運命を受け容れます。従容とした風情が高氏の胸を詰まらせました。
(登子)「あるとしてもないとしても、その日が来るとしても来ないとしても、登子の身には同じことに思われまする。高氏さまのご一生が、そのまま・・・登子の一生となるばかりのこと。・・・でも、辛うござりまする」
慕うがゆえに別れた藤夜叉と寄り添う登子。比べてどちらが、とは云えないほど彼女達は潔い。煩悩があり過ぎる高氏にはもったいない。
(高氏)「そなた、蹴鞠は好きか」
高氏はいきなり直義を呼びつけ、庭で蹴鞠を始めます。宴でヤケ食いし、お好み焼きを製造しそうなほどべろんべろんに酔っ払った弟が義姉に気づいて毒を吐くんですが、高氏は、ワイフに足利スタイルを見せてやるぜ、ありやっ!と声を掛けて鞠をポーンと蹴り上げ・・・おお、滞空時間が長い。なかなか落ちてきません。
高氏、大納言化。
そうか・・・「鞠=煩悩」だったのですね。
名人が無心で蹴った鞠が、空高く、雲の彼方に消えて見えなくなった。無心は煩悩のない状態ではない。己を惑わす煩悩と、ただひたすらにとり組む。煩悩そのものを見つめる。そのものになることが無心。いつか、それが見えなくなった時は・・・。
これが高氏の究め方なんです。たぶん、一生の。
なんだかんだ云いつつ、蹴鞠に熱中する兄弟を見つめる登子に清子(藤村志保)が近づいて、高氏を、よろしゅう・・・と頼みました。いいシーンだよなぁ。
家人も御曹司の奇行に慣れているのか、黙って見守っています。
様子をうかがっていた貞氏は、ふ、と笑んで踵を返す・・・と左手が切燈台に触れて倒れました。
炎がじりじりと置き畳を焦がす。
なんだ、どうしたんだ、パパが脂汗をだらだら流してずるずると・・・ぎゃー、なにかの発作のようです。
早すぎるだろ! 死んじゃやだ。
(続く)