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南北朝(日本)時代と漫画家・車田正美先生の作品を瞑想する部屋。

【大河ドラマ】『風林火山』-天地(龍虎)の問答-

2007年08月28日 19時45分35秒 | 大河ドラマ『風林火山』(2007年)

長尾景虎(Gackt)が登場したのは第24回『越後の龍』。

(景虎)「この心の空しさを正義の憤怒で満たしたまえ、われに力を与えたまえ」

うわ、こんなに早く教えてもらっていいのかなあ。ちら見せどころか、そのものずばり、景虎の生きるモチベーションが大公開。
まず、空しさがある。
その「隙」を埋めるために不義を糺し、正義を通すという理想がある。
では、心の隙はなぜ生まれたのか。
武田晴信(市川亀治郎)のそれは父親との相克でした。
景虎は、仏門から出てきた時にはもうあれなので不明。しかし彼の隙は相当に大きく、深いことが察せられます。

欲については、大河ドラマ『功名が辻』(2006年)でも「功名(幸せ)と引き換えに負う不幸せ」として描かれました。
葛笠村の貧困に表されるように、人は霞を食べて生きてゆけない。今日、食べるものがなければ死ぬ。乱捕りで死ぬ。多くの不幸がそこにある。
晴信の国策は「俗世の豊かさ」を得るためのものです。彼は「俗人」(※01)が好きで、彼らに明日を生きる希望をもたらします。
※01:景虎の言(第33回『勘助捕らわる』)。

景虎はどうか。

(景虎)「父を追い落とし、妹が嫁いだ諏訪家を滅ぼし、あまつさえその姫を側妻にしたと聞きおよぶ。そのうえでまだ他国の血を貪ることを止めぬ。あれではいずれ、天罰が下ろう。国も滅びよう」
(勘助)「恐れながら・・・人を慈しんだこともなく、いかにして領民を治めましょうや」
(景虎)「人は人を治められぬ! それは欲のもたれ合い、まやかしの力じゃ。人を救えるは神仏のみじゃ」

景虎は己も含めて人に絶望している。
神仏の代行者として臨む越後統一は俗世の救済、挫ければ、聖なる加護を受ける資格を失った、と潔く認める心積もりでしょう。さらに「帝(みかど)の親政」という国体の復古にまで想いを馳せているようです。

天の景虎か、地の晴信か。
2人はまだ相見えていません。が、その徹底した二律背反は宿命的で、折り合いなど到底つかぬように思えます。
と、ここで、琵琶島城主・宇佐美定満(緒形拳)が両者の接点を提起しました。長くなりますが、第32回『越後潜入』からさらに引用。

(定満)「人の欲を否としてはなりませぬ。欲を嫌うこと、それもまた欲に囚われた考えにござりまする。御仏の教えとは、さような欲の囚われからも解き放つものにござりましょう。すべては、あるがままに。俗世を否としてはなりませぬ。武田晴信にも俗世の理は、あるのではござりませぬか」

このおっさん、すごい。こんなにわかりやすく欲の構造を解説するとは。
つまり、学べ、と云っているのですね。天から地の、地から天の理を学び、均衡を探れ、そこに真理がある、と。天地の間に立つから人は「人間」なのだ、と。
さて、すごいおっさんを軍師にして越後統一を果たした景虎に、あわや処刑されそうになる山本勘助(内野聖陽)。
彼の「遺言」はすばらしかった(第33回『勘助捕らわる』)。

(勘助)「それがし、神仏に救われたことなどござりませぬ。それがしは人を好んでござりまする。人の醜さ、狡さ、弱さ、儚さ、憎しみ、迷い、偽り、空しい欲深さも好んでござりまする」
(景虎)「救いようがない」
(勘助)「救われてござりまする! それがしはさような者に救われてまいりました」

今までに関わった人々が脳裡に去来するような渾身の反駁。
彼は知らず、人の中に神仏を見出しています。見出せるということは、自分の中にもそれが在るということです。なんという悟り。感動した。

ちなみに景虎と晴信、どちらの上司の下でなら働き甲斐があるでしょうか。
なぎらはどちらの部下としても働けそうな気がします。でも、それぞれ異なるストレスを感じそうだ。

(景虎社長の場合)
「ひいぃ、それじゃみんなドン引きですよぉ」

(晴信社長の場合)
「そんなことをしてバチがあたりませんかぁ」

帰依するとすれば不動明王ですけれどね。


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