この季節になると、特に思い出すのは、
物心ついた時から側に居た猫のこと。
死んでしまったのは、丁度20年前の今ぐらいの季節だった。
20年も前だというのに、なんでこんなに鮮明に思い出すんだろう?
ほんと自分でも不思議だ。
それくらい自分にとって、とってもとっても大事な存在だった。
名前は「チャコ」
祖母は「チャぺ」と呼び、私は「にゃおちゃん」と呼んでいた。
木登りも得意で、高いところまで登っていた。
にゃおちゃんは、歳をとってからも自由に外出している猫だったが、毎日家には帰ってきていた。毎日私が帰ってくるのを、外の階段で待っていてくれた。
寒い季節は一緒の布団で眠った。
そんなにゃおがちゃんが、丸三日間家に帰って来なかった。
そんな事は初めてだったし、その時にゃおちゃんは14~15才だったから、家族は「猫は死期が近づくと姿を消すから・・・」と言っていた。
でも私は信じたくなくて、帰ってきて欲しくて、深夜まで外でにゃおちゃんの帰りを待っていた。
そしたら願いが通じたのか、4日目の昼に、にゃおちゃんは帰ってきた。
私は嬉しくて嬉しくて、泣きながら喜んだ。
「もうどこにも行くな」と語りかけた。
だけど、その夜にまたにゃおちゃんは出かけて、そしてそれっきり、いくら待っても帰って来なかった。
また待っていたら帰ってきてくれるんじゃないかと、深夜まで外で待っていた。
膝を抱えて、泣きながら、祈りながら見上げた空には、大きな月がかかっていたのをはっきりと覚えている。
けれども願いむなしく1週間後、近所の家の作業小屋で、にゃおちゃんが死んでいるのが発見された。
まるで自分の半身を失ったような悲しみと喪失感だった。
愛しい者を永遠に失った、その言いようの無い悲しみが、今でも鮮明に思い出される。
普段はその悲しみはもう心の奥底にあって、思い出だすことも少なくなった。
でもこの時期だけは無性に思い出す。
在りし日のにゃおちゃんの姿を。
あれから20年もたち、自分の中で思い出が美化されている部分もあると思う。
だけど今思っても、にゃおちゃんと自分の絆は確かな物だったと信じている。
一度戻って来てくれたのは、私の祈りが通じたからだとも信じている。
にゃおちゃんは、
思春期の不安定な自分を支えてくれた、かけがえの無い存在だった。
この先も、忘れえぬ思いとなって一生自分の中に残ると思う。
小さくとも、言葉を持たなくとも、この子達は愛情をもって接すれば愛情でもって返してくれる。
私たちの素晴しいパートナーになり得るんですよね。
昨日から動物愛護週間。
だからというわけではないけれど、改めて認識しました。
物心ついた時から側に居た猫のこと。
死んでしまったのは、丁度20年前の今ぐらいの季節だった。
20年も前だというのに、なんでこんなに鮮明に思い出すんだろう?
ほんと自分でも不思議だ。
それくらい自分にとって、とってもとっても大事な存在だった。
名前は「チャコ」
祖母は「チャぺ」と呼び、私は「にゃおちゃん」と呼んでいた。
木登りも得意で、高いところまで登っていた。
にゃおちゃんは、歳をとってからも自由に外出している猫だったが、毎日家には帰ってきていた。毎日私が帰ってくるのを、外の階段で待っていてくれた。
寒い季節は一緒の布団で眠った。
そんなにゃおがちゃんが、丸三日間家に帰って来なかった。
そんな事は初めてだったし、その時にゃおちゃんは14~15才だったから、家族は「猫は死期が近づくと姿を消すから・・・」と言っていた。
でも私は信じたくなくて、帰ってきて欲しくて、深夜まで外でにゃおちゃんの帰りを待っていた。
そしたら願いが通じたのか、4日目の昼に、にゃおちゃんは帰ってきた。
私は嬉しくて嬉しくて、泣きながら喜んだ。
「もうどこにも行くな」と語りかけた。
だけど、その夜にまたにゃおちゃんは出かけて、そしてそれっきり、いくら待っても帰って来なかった。
また待っていたら帰ってきてくれるんじゃないかと、深夜まで外で待っていた。
膝を抱えて、泣きながら、祈りながら見上げた空には、大きな月がかかっていたのをはっきりと覚えている。
けれども願いむなしく1週間後、近所の家の作業小屋で、にゃおちゃんが死んでいるのが発見された。
まるで自分の半身を失ったような悲しみと喪失感だった。
愛しい者を永遠に失った、その言いようの無い悲しみが、今でも鮮明に思い出される。
普段はその悲しみはもう心の奥底にあって、思い出だすことも少なくなった。
でもこの時期だけは無性に思い出す。
在りし日のにゃおちゃんの姿を。
あれから20年もたち、自分の中で思い出が美化されている部分もあると思う。
だけど今思っても、にゃおちゃんと自分の絆は確かな物だったと信じている。
一度戻って来てくれたのは、私の祈りが通じたからだとも信じている。
にゃおちゃんは、
思春期の不安定な自分を支えてくれた、かけがえの無い存在だった。
この先も、忘れえぬ思いとなって一生自分の中に残ると思う。
小さくとも、言葉を持たなくとも、この子達は愛情をもって接すれば愛情でもって返してくれる。
私たちの素晴しいパートナーになり得るんですよね。
昨日から動物愛護週間。
だからというわけではないけれど、改めて認識しました。