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バウテスタ通りの名所

2024-02-25 | フィリピン

置屋 CASINO

マニラ首都圏でタクシーに乗車、Babae(女)といえば、たとえ場所や道路を知らなくともマカティ市バウテスタ通りにある置屋へ連れていってもらえた。

バウテスタ通りとカジノ通りのバランガイ パカナンへ入る交差点の角にある、薄汚れた白い壁の一般住宅を装った置屋。

交差点の角に「BAUTISTA BRGY.PAKANAN」と書いてあり何の看板も上がっていない。

入り口近くの路上、もしくは置屋の向かい側に、見張り兼案内をする男性が周りの様子を見ながら車が到着すると左右確認の後、駆け足でしかも満面の笑顔で寄ってくる。

ドアーの入り口付近に、垣根がありドアーを開けても外部からみえないようにしてある。

二重ドアーになっていて、待合室のような狭い部屋にはピンクの照明が漏れている。

客が入ると店内はいきなりピンクの照明が灯、クーラーのスイッチが入りノイズ音と同時にベルの音がけたたましく鳴り響く。

やり手爺に料金概要の説明を受けた後、ドアーをあけると、リビングルームが広がり、壁際にひな壇のような売春婦が座る席が

設けられ、いかがわしい洋服で着飾った女性陣がずらりと並び始める。

やり手爺の、掛け合いが始まる。大きな声で「スマイル」と発し、飯の種が来たにも関わらず何故ツンツンしてるんだ。

の罵声とも言える声が部屋中に響き渡る。

当時、日本人買春客が多いようで、日本語も多少通じた。

50人くらいの女性が並び買春客の物色が始まる。

一人の客に全売春婦の目線が集中する。

多くの売春婦は客に向かって頷きながら媚を振る。

私がこの店で一番よ。だから私を選んで。と話しかけているようにも見えた。

早く選んでください。次があるのだから。とそっけない顔をしている者。

近づけば、私はサービスが最高。早く私を選んでと声を掛けてくる者。

英語はベーシック程度を話す売春婦がほとんどであり、多少の会話ができればなんとかなった。

選び終えると売春婦は早々に退出が始まる。

料金を支払い屋外へ出るとタクシーの運ちゃんから車に乗るよう促される。

ドライバーは駆け足で置屋の裏方向へ行き、私服に着替えた売春婦を連れてくる。

マラテ界隈のポン引きタクシードライバーリトから聞いた話では、売春婦を迎えに行くのは口実で、手数料を取りに行っていた。

この置屋は、売春婦を選ぶだけの店で、バーファインなどは一切なかった。

 

この近辺には、他に2軒の置屋があった。

もう一軒は、バウテスタ通りへ入るアヤレーノ通りの交差点の角の置屋。鉄の門で、小さなドアを手で叩くと、

突然、別の場所から人が現れ、ドアーが開けられ家の中へ入っていく。

この置屋には20名くらいの売春婦が住み込んでいて、その多くがブラカン州出身の女性が多かった。

バウテスタ通りからベンディア通りを越して緩いカーブの先にあった三軒目の置屋。

街の外れにあった無名の置屋は年齢が18歳から20歳くらいの女子大生アルバイトと称する売春婦、

ビコールやセブ出身の売春婦が30名ほどいた。

地方出身の大学生が生活費や遊興費欲しさに稼いでいた場所。授業料稼ぎのため看護婦学校の生徒がいた記憶がある。

置屋の売春婦は、エルミタやパサイの民家の、やさぐれた置屋やバーとは違い、本物かどうかわからないが、

なぜか性病検診書を持っていた。

客に検査した日を伝えるくらいなので多少信憑性はあったかもしれない。

ポン引きやタクシー運転手に連れられてきた場合、値引きは絶対にしない。

個人で出向いた場合、粘れば3,000ペソ位まで値引きに応じてくれた。   

当時、見るからに20歳代後半ばから30歳前後が多かったのだが、店内で年齢をたずねると、全員が二十歳と言い出し手を挙げ大爆笑。

そして、なぜか全売春婦が口にするのは処女といい出し、後のセリフが今日は。で大笑いしていた。

三軒の置屋の共通点はじっくりと吟味できて、自分から女性陣の前へ移動して顔見もできた。

どの店も買春料金は談合しているように同一金額であった。

金曜日、土曜日の午後8時を回った頃は、どの店も売春婦の数が少なく、薄汚れた白い壁の置屋は、大型バスが横付けするほど繁盛していた。

ほとんど朝までのコースで連れ出す。中には、途中で腹ごしらえをしてホテルやモーテルへ行く客もいた。

オーバーナイトで連れ出し、客は朝までいてくれるものと思い込んでいるのだが、ほとんどは3時間くらいで子供が病気、

家族が急用などと言って帰宅する。

帰宅時に売春婦は、住み込みにもかかわらず、家が遠い。との理由でタクシー代を要求する場合が多かった。

当時は、マニラ市内から置屋までのタクシー代金が40から50ペソ。買春客はそうとも知らず、帰宅時に買春婦に言われるままに

300から500ペソのタクシー代を渡していた。

金額に驚いた様子をみせると、タクシー代金が半額以下になるなど滑稽なことも多かった。

もちろん、携帯電話などがなく、売春婦が部屋の電話で置屋へ連絡、送迎バイクを読んでいた。

 

近所の商店はじめ民家の人々は、この角の家が置屋であることを知っている。

住民曰く、マカティ市警が存続する限りこの置屋は摘発されない。と言っていた。警察官が管理している売春宿とも言われていた。

この置屋に住み込みで働く売春婦は、そのほとんどがシングルマザー。生活費を稼ぐ。遊興費を稼ぐ。学費の補充をする。

親が自分の娘を売る。あるいは借金の抵当で稼ぎに出された売春婦もいた。

そこそこの売春婦がいたが、多くが地方から出てきた女性がほとんどで、何気なく暗い一面を持っていた。

 

政権が変わり、アヤレーノ通りの交差点の角の置屋の灯が最初に消えた。

ベンディア通りを越して緩いカーブの先にあった置屋は、一般住宅地へ移転後、細々と営業している。

バウテスタ通りとカジノ通り交差点の置屋は、おそらく40年以上経った現在でも営業をしている。

 

ポン引きドライバー リトの証言

当時の売春婦の実入りは買春額の4分の一程度。置屋へ連れていったドライバーに1000ペソの報奨金が支払われたそうである。

管理料としてお馴染み機関へ一人一回500ペソの寺銭が支払われていたそうである。

 

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