フィリピンりぱぶりっく狂笑国

フィリピンらしく
フィリピンでも
フィリピンだから

かーちゃあん海外出張だよ

2024-02-29 | フィリピン

なぜにフィリピン

1965年に日本と国交正常化した韓国。

1970年代に日本人がツアーと称し「妓生(キーセン)観光」買春旅行が始まった。

韓国で、日本には農協と云う国があると噂されたころで、日本人売春ツアーご一行様を世界の農協と揶揄されたころの話です。

「朴正熙(パク・チョンヒ)政権は73年から売春婦に許可証を与えホテルの出入りを自由にし、営業することができるようにした。

また、朴政権は旅行会社を通じて『キーセン観光』を海外に宣伝しただけでなく、文教部長官は73年6月に売春を女性たちの愛国的行為を奨励する」

とまで発言した頃である。

日本人を相手にした「妓生観光」が盛んに行われていた頃、町の男たちは玩月洞の売春婦たちが通ると「チョッパリ(日本人の蔑称)」と

遊んでいると揶揄していた。

ソウル明洞(ミョンドン)の近くでも日本人相手の売春業者が大繁盛した。

済州道(チェジュド)も70~80年代、日本人を相手にした妓生観光が活発だった。

俗称「ダチ」と呼ばれるこの女性たちは斡旋元から連絡を受けてホテルで売春をした。

日本からわずかな時間でいける韓国。

会社員、工員はじめ10人くらいのグループで成田空港はじめ、各国際空港には背広をまとった紳士が日増しに増えていった。

僅か2時間30分程度の飛行時間で日本では叶わない若いダチの待っている韓国へ到着。

大ハッスルして遊び日本へ戻り、現実になって仕事をしているころ、なぜか手紙が。しかも国際郵便が届き、中を見れば、時代遅れの候文、

そしてダチと一緒に撮影した写真が届く。

途端に、仲間内と会議が開かれる。

届いた写真を見て居た堪れず旅行計画会議。そして日程が決まり「かーちゃんまた海外出張だよ」

多くのにわか遊び人は、「カーチャンにバレたらただ事ではすまねー」で会社の住所の書いてある名刺をご丁寧に置いてきたのだと思います。

仕事になんとかがつくほど真面目な旦那様。最近金使いが荒くなってきて、年に3、4回海外出張が多くなってきた。

旦那様の会社は海外に支店や工場があったのかな?と疑問視されるようになってきた。

出張に出かければお土産は「キムチ」だけ。たまにワイシャツに口紅がついている?。

その遊びも佳境を迎える時がきました。

89年にソウル市警が、妓生パーティー営業が疑われる有名料亭を対象に、一斉捜査(売春行為防止法違反)を行った。

ソウルで旅行会社の会長、料亭のマダム(女主人)、組織暴力団などが「円稼ぎ」売春を斡旋して拘束されることが急増した。

日本から僅かな時間で行ける国。金曜日に出かけて日曜日の夜帰国。おそらく、当時、初めての海外旅行はハワイか韓国だったかもしれない。

「日本人たちが韓国に『現地妻』を多く置いていた時代、しわだらけのジジィ殿が『かわいいね、かわいいね』と年若い韓国の娘たちに貢いでいた時代である。

しかし、取締りが強化され、新たな買春ツアー地台湾へ向かう日本人が多くなった。

1980年代に、日本人男性が海外買春ツアーを組んで押し寄せていた台湾が、「売春合法化」に舵を切った。

台湾の立法院(国会に相当)は売春について規定している社会秩序保護法の改正案を可決し、即日施行。

これにより、自治体が希望すれば「売春特区」(正式名称は「性工作専区」)を設けることができるようになった。

いわゆる赤線地帯の復活である。

もともと台湾では、日本統治下の公娼制度を受け継ぎ、戦後も台北の「華西街」などの巨大赤線地帯が繁栄、

全土で数千人ともいわれる公娼が働いていた時代である。

俗に言われた「酒家」遊びで、ホテルの個室宴会場へ売春婦を呼び、生バンドの台湾音楽や日本の歌謡曲を聴きながら、

料理を嗜み酒を売春婦と呑み交わしいちゃついていた時代である。

断る時には売春婦へ100台湾ドルを渡していたのである。

韓国と比較、売春婦の質もよく感じで物事が通じてしまうのも大挙押し寄せた要因でもあった。

羽田空港から韓国と大して変わらずに行ける台湾。

空港型都心まで韓国の暴走バスとは違い、安心できたのも台湾。

酒屋遊びの後、林森北路のお粥やさん、なぜか当時、山東の芋粥屋にお馴染み日本人がキョロキョロしながらいた。

おなじみのコースは遼寧街夜市で海鮮を食べる。看板娘の計算の速さ、しかも暗算。食事後、マングースと蛇の格闘を

眺め、お馴染みコピー商品市場でロレックス、カーチャンへのお土産はビトン。

ジャーキーの有名店「快車肉乾」から買い込んで日本へ帰国。羽田で没収。税関担当者へ、口をまるでヒョットコのように

尖らせ文句を言っていた時代でもある。

ところが、元人権派弁護士の陳水扁(のちの台湾総統)が1994年に台北市長に就任し、台北市の浄化運動を展開。

2001年に台北市の赤線地帯は消滅した。

韓国・台湾へ買春観光をしていた日本人が、新たに求めたのがフィリピン共和国である。

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