フィリピンりぱぶりっく狂笑国

フィリピンらしく
フィリピンでも
フィリピンだから

当時を思いだした

2024-03-01 | フィリピン

2002年当時、毎月日本とフィリピンを行き来していた。年間20回くらいは往復していたと思う。

韓国、台湾から買春が締め出されたのと、研修制度が日の目を診始めたころの話である。

2002年の半ば頃、マニラ市のマラテに事務所を構えた。研修生の送り出し機関のコンサルタントを始めた頃である。

マンダルーヨンにある送り出し機関と契約を結んだ。JITSCOへ面接の機会を作ってあげた会社の社長に気にいっていただき、

事務所開設でもご尽力をいただいた。

毎日面接の方法や、システムの構築に終れて、時間の余裕もなく働いていた頃である。

コンサル契約したフィリピンの送り出し機関の社長は、不似合いな女性と母ならず事務所へ来ることが多かった。

社長は、自らマンダルーヨンで研修生送りだし機関を経営していた。当時のエストラーダ大統領と政府のコネを利用し送り出し機関を複数開設、

お妾さんがその送り出し機関の社長に就任させていた。コネで何でもできた頃である。

社長は暇があれば、お妾さんを変えながら我々の事務所を訪れることが多かった。

我々の事務所は散々とした汚い事務所。足の踏み場もないとはまさにそのとおりの事務所であった。とある日、あまりの

汚さに、これでは食事も満足にできない。健康にも悪い。掃除のできる小間使いをおけば。との話になった。

可愛い適任者がいるから面接しますか。との問い合わせに二つ返事をした。

18歳と記載された履歴書を持った、ちょっと小柄な容姿の良い2名を連れてきた。

住み込み雇用はできないので、2名の女性に通勤でも良いか尋ねてみた。

月2回のサラリーを支払っていただければ通勤で構わない。ただし昼食を無料にしてください。料理は彼女達がする。との条件で早々にお願いした。

勤務時間30分前には出勤してきて、とにかくきれい好きな二人でまたたく間に事務所内は清潔になった。

一人の女性は、とにかく料理が上手で、毎日2食の外食費で月額にして相当の費用が浮いた。

買い物も自分たちでしてくれ、精算も本当にフィリピン人なのと言うほど1ペソの狂いもなく何事もなく順調に進んでいた。

事務所はマンションを賃貸したので、キッチン、シャワー、ベッドルームがあった。家具付きを賃貸したので調理用具から冷蔵庫まで設備されていた。

当時のサラリーは1日250ペソで、住み込みで食事代を出せば小間使いは月額3000ペソ程度で使えた時代であった。

通勤勤務ということで、半月2,500ペソの給料が提示された。働きぶりから非常に助かった。

彼女達は、朝10時に出勤後、かわるがわるマーケットへ料理の材料を買いに出かけた。

フィリピン人にしては珍しく、何事もテキパキと早くこなしてくれていた。

一人は事務所の掃除そしてお客様へ麦茶やコーヒーを出してくれ、もう一人の女性は料理をしてくれた。

昼職を共にし、ベッドルームの清掃までこなし、洗濯は近くのランドリーへだしてくれるなど、とにかく文句のつけようのない働きぶりだった。

慣れ始めてきた頃、午後2時くらいになると二人は居眠りをすることが多くなってきた。

10時から午後4時迄働いていただいた。

送り出し機関の社長も、訪れる度に、とても清潔できれいな事務所。ゆっくりお茶も飲める。そして滞在時間も長くなった。

山のように積った灰皿は、3本も使えばピカピカで自分の事務所とは思えないかわりように苦笑していた。

 

何事も問題なく順調に進んでいた。2名が入社して10カ月くらい経過した頃、料理の上手な女性がバタンガス州の自宅で問題が起き一旦帰宅したい。

との申し出があった。もう一方の女性も結構料理はできたので、そうそうに帰宅させた。

仕事も軌道に乗り出し、新たな展開を迎えようとした2003年の9月後半だった。

遊び友達の韓国人とマカティで飲み歩き、勢いでLA Caféのパスタで〆帰宅することになった。

二階のカウンター席でビールを飲み、パスタを食べていた。

見慣れた2名の女性を見た。ありゃ!事務所で働いている女性、そして問題が起きたと言って帰宅した女性達だ。

見つからないように姿を隠し、様子を見た。

2名の女性は年頃60過ぎの日本人と出て行った。

出ていったのを見届け、近くの女性を席に呼び、今出て行った女性を指名したい。といってみた。

席についた女性曰く、とにかく売れっ子らしく、今日一緒に出掛けた日本人のお気に入りで難しいとのこと。

女性の話から想像するには、すなわち、事務所へ面接に来た当時から、夕方7時くらいに店へ来て遅くても9時くらいには客と出て行っていたようである。

我々は、呑み賃の安いLA Caféへ出かけてくる頻度は結構回数が多かったが、顔を合わせなかったのは我々は深夜だったからのようである。

つまり、事務所の女性は売春婦だった。

席についた女性に話を聞いた。

帰宅したおネーチャン、どうやら日本人の老人に囲われていて、日本人が来比した際、マンションで一緒に生活をしていたようで、

自宅の問題とはそういったことであったようだ。

年齢を調べた。2名とも事務所へ来た当時は16歳。雇用上の問題はないのか、世話していただいた社長へ相談をした。

強制労働をさせているわけでもなく、賃金もしっかり支払っている。問題があれば社長のコネクションでどうでもなるので心配ないとの返事を得た。

日本人に囲われている女性から退職届が出された。職業柄そこそこの収入があるのと、日本人がこない間は置屋で売春婦をしながら、

客がつかない日はLA Caféで稼いでいたらしく金回りは良さそうであった。

もうひとりの勤務していた女性は、非常に懐いでくれて、フィリピンのシングルマザーの一人娘で、母親がカタンドアネスで売春婦をしながら育てられたせいか

人扱いが慣れていたのと、小さい時から一人で生活をしてきたらしくよく気が利いた良い子であった。

父の日だったと思う。女性からプレゼントをいただいた。机の上に置物があった。その包み紙に親愛なるパパへ。と記されていた。

なぜなのか理由を聞いてみた。お父さんの顔を見たことがない。ぜひ私のお父さんになってください。とのことだった。

思っていただけるのは勝手だが、お父さんとだけ呼ぶように伝えた。

 

2003年の後半、なぜか女性が太っているように見えた。

義務教育が終わっていないということで、サンアンドレスにある学校に転学扱いで、夜間学習え転入させ勉強を続けさせた。

ストレスで疲れているのだと思っていた。勤務時間も学校があるのでさらに短くしてあげた。

結局、贔屓されていた日本の老人の子を妊っていた。

日本人の老人の家で世話をして、その足で学校へゆき、帰宅後老人の寝た頃を見計らい置屋で売春をしていたようである。

年齢も18歳になり、子供ができた。可愛い男の子だった。せっかく学校へ通学させたのだが、結果は中退せざるを得なくなった。

とにかくよく働いてくれた。子供ができたのと育児と日本人の世話で睡眠不足なのか、居眠りする姿を見ることが多くなった。

事務所の仕事は1日3時間だけにしていただいた。

その後、事務所をマカティに移すのを機に、女性は退職を申し出てきた。

何と日本人の老人同伴で申し出てきた。真面目な仕事をしている。という安心感を与えるためのようにも思えた。

マカティへ移った後も、マニラに住む友人とほぼ毎晩のように飲み惚けていた。

新事務所は掃除までしてくれる良い事務員に恵まれ順調に進んでいた。

2004年になって、友人を連れ添ってブルゴスのスペイン料理を食べに出掛けた。タンシチューの美味しい店で月に2、3度は利用した店である。

その後、必ずブルゴスのバーで酒を飲み、ヘベレケでマカティ市内のカラオケで飲みまくっていた。

新しいコンサルタント先が増え、お客様にも恵まれ、結構な金が入っていたこともあり、遊びほけていた。

飲み先をブルゴスのバーに変えてから界隈を徘徊するポン引きと仲良くなった。日本から来るお客の夜の接待相手を任せられる実直なポン引きと出会った。

毎月、少なくとも、4、5人のお客様が来た。来比されれば、空港へ迎えに行った時から「小指の思い出」がほとんどであった。

多くの日本人のお客は、背はあまり高くなく、多少痩せ気味でグラマーが大好きである。

4泊5日の予定で来比する。なぜか仕事とは全く関係ないお連れが必ずついてきた。毎回様々なつれが多かった。

当時、航空運賃は成田―マニラ往復で安い場合5万円くらいで、日本国内旅行より安く、我々が契約した安いホテルであれば1泊6000円程度、

シャングリラマカティでも150ドル程度で利用できた。

なぜ安いホテルか。5スターの場合、お連れの売春婦の身分証明署提出等が結構煩く、簡単に連れ込めるホテル希望が多かった。

つまりは、お客様の名を借りた買春ツアーである。

ポン引き曰く、私どもの客をアテンドするだけで月間かなりの金額になると喜んでいた。

ポン引きはマカティにある置屋へ案内するケースが多くなった。

LA Caféの売春婦は生活苦で売春している割合も多く、質が悪く、思いもよらぬトラブルで深夜呼び出されることも多々。

そしてマカティからマニラへは大渋滞ですごい時間を擁していたころである。

置屋の売春婦は、胴元がある程度しっかりしているので、まず泥棒が少ない。即帰宅も少なく4、5時間くらい居た様子であった。

自分で売春婦を選んでおいて気に食わなければ騒ぎまくる。我儘な日本人が多かく、面倒くさくなることが多かった。

仕事に関連する客であれば、何とか我慢もできるが、買春目的でついてきただけでお客面されることが非常に多かった。

取引先の客の顔を立て、振る舞っているものの、日本人買春ツアー客は面倒だった。

客数が増えるにつき、遊び先をケソンボリバードのヌードシアターへ移った。

大きなステージがあり、まといもののない女性が、絶えず20人くらいステージ上で腰をクネクネさせながら踊っている。

唯一身につけているものは番号カード。客席の後方には、雛壇と呼ばれるステージに女性がコビを振りながら客を待つ。

ガラス越しに売春婦を選びそのまま帰宅。あるいは、シアターの二階に必ずVIPルームがあり、その部屋で大流行の女体盛りも楽しめた。

大きなVIPルームで全員裸の売春婦と乱行パーティーが始まる。おおよそ2時間大騒ぎであった。

どういうわけか、ケソン市のシアター遊びをする日本人は数が少なく、ほとんどが華僑の金持ちの遊び場でもあった。

遊びがエスカレートすると、なぜか日本人は遊び慣れていないせいか、上から目線となる。

女性上位の国であることを全く理解できず、必ずもめごとが起こる。相手は売春婦であるが、ある程度プライドもある。

一気に下に見て横暴なことをする田舎者日本人が多かった。

買春ツアーを終え、いざ帰国。チェックインを終えイミグレーションへ消えて行った時、至極のリラックス空間であった。

 

この当時のマニラは日本はアメリカに次ぐ第2位の入国者の多い時期。

台湾での買春の灯が閉ざされ、マビーニ、マラテ界隈にはウジョウジョと日本人のジジィ殿、親父殿が孫の手を引くかのように徘徊していた時代である。

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