☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

久遠のいのちの自覚  谷口雅春 先生

2019-01-26 22:10:20 | 今日の光明法語

真理を潜在意識の底の底まで知ることの大切さ

皆さん、お早うございます。
今日は 『 真理の吟唱 』 をテキストにして お話しすることに致します。
実は 毎朝 私は、祖先をお祀(まつ)りしてある霊前に 家族一緒に坐(すわ)りまして、
この 『 真理の吟唱 』 という本を、一節ずつ朗読することにしているのであります。

というのは、キリストは 「 汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん 」 と
言われたように、われわれは、真理を知ることによって 一切の不幸、束縛、不自由から
解放されて、自由になるからであります。

で 真理を知るといっても、単に 現在意識の表面の心で “ それ ” を知っただけでは
本当に力にならないのでありまして、われわれの潜在意識の底の底まで真理を知ったときに、
“ それ ”が現実の世界を支配する大いなる力となる、というわけなのであります。

それで、毎日、真理の言葉を繰り返すということが大切なことであると われわれは信じているのです。
それで 家族一緒に 霊前で この真理の言葉を一節ずつ読む、そうすることによって、
われわれの潜在意識の底の底まで深く真理を印象づけたい、というわけなのであります。 ・・・・・

『 幸福への出発 』 第 六00回 放送分
『 理想世界 』誌 昭和56年12月号 ( 24~25頁 )



神の生命と智慧と愛とを讃嘆する祈り  谷口雅春 先生

2019-01-24 11:52:10 | 今日の光明法語
この世界は神の生命と智慧と愛とが表現せられたる世界であるのである。
それは神の生命によって支えられ生長し発展し進歩し行(ゆ)く世界である。
その形相(けいそう)及び組織は 神の智慧によって構図(こうず)せられているのであるから、
到(いた)る処(ところ)に美が展開して行(い)くのである。

神の愛は、万物の生みの親として、すべてのものをいつくしみ給うのである。
神の愛は、発展し行(ゆ)くすべてのものを互いに相扶(あいたす)け生かし合うように結びつけ
つなぎ合(あわ)せて、この世界に愛の理想境(りそうきょう)をつくり給うのである。

もし神の愛がなければ、此の世界は全てが てんでんばらばらになって、調和も平和も得られない
のである。智慧が計画した組織も構図も美も、愛がなければ それが長く保たれ持続することは
できないのである。すべてのものを調和した関係に於いて、美しき姿に於いて、発展し
生育(せいいく)し実(み)を結ぶのは、神の愛によってである。

山に生(お)い茂(しげ)る樹木、野に生い茂る草、草の間(ま)にすだく虫、
山野(さんや)に飛び交(か)う大小の鳥、家畜その他の生き物 ―
数(かぞ)うれば限りがないが、すべては神の生命と智慧と愛とを表現しているのである。
わたし達はその姿を見(み)、その声を聴(き)くごとに、茲(ここ)に神がいますと
感動せずにはいられないのである。

まだ巣立(すだ)ちの出来ない雛鳥(ひなどり)に餌(えさ)をはこんで口移(くちうつ
)しに食べさせている親鳥を見るとき、私もそれと同じように、まだ体の不自由な赤ん坊だった
ときに、両親から はぐくまれて育って来た わたし達であることを憶(おも)い出すのである。

親鳥の愛も、人間の両親の愛も、すべては神の愛の表現であるのである。神の愛なくば
吾々(われわれ)は、今日(こんにち)この地上に生きていることが出来なかったに
相違(そうい)ないのである。

わたし達の両親は、神の愛がわたし達を護(まも)り育てるために 仮りに人間の姿をして
地上に顕現せられた神の化身(けしん)であるのである。それだから、神さまは、
「 神に感謝しても父母に感謝し得(え)ない者は神の心にかなわぬ 」 と仰せられているのである。


古語に 「 孝は 百行(ひゃこう)の基(もとい)」 と言われているのは、神の愛の展開として、
親が子を愛する愛情ほど、神の愛が最も完全にあらわれているものはないから
それに報(むく)いる心になるとき、あらゆる善徳(ぜんとく)が完成するのである。

形の美しさは 神の智慧から生まれて来るものであるが、心の美しさは神の愛から生まれて来る
のである。智慧のないところに形の美しさは無く、愛のないところに心の美しさはないので、
智慧と愛とは生命がこの内包(ないほう)する美を展開するための車の両輪(りょうりん)とも
言うべきものである。

わたし達は、すべての存在を見るとき、そこに生きている神の生命を感じて感謝しなければならないし、
そこに表現されている美を讃嘆しなければならないし、更にそれらのものが神の愛によって護られ、
互いに調和ある姿に結び合わされている真実を見て、今更(いまさら)の如(ごと)く神の愛の
行(ゆ)き届いた御護(おまも)りに合掌せずにはいられないのである。神さま、有りがとうございます。

『 光の泉 』昭和50年12月号 「 日々読誦毎月真理経 」(24~25頁)



不滅の “ 生き如来 ” を自覚する祈り  谷口雅春 先生

2019-01-23 22:06:56 | 今日の光明法語
釈尊は涅槃経に於いて「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と説き給うた。
一切衆生とは一切の衆(もろもろ)の生(せい)ある者のことである。

すべての生きとし生ける者は、悉(ことごと)く仏性を内に有しているということである。
仏性とは“仏(ほとけ)”即ち 如来の本性(ほんせい)である。すべての生(せい)ある者は
内に如来の本性を具有(ぐゆう)するのである。

特に生ある者のうち最も発達したる人間に於いては、その仏性を単に内に具有するだけではなく、
生(い)ける如来として 今ここに顕現しているのが人間なのである。
謂(い)わば人間は “ 生き如来 ” であるのである。

人間は“生き如来”であるから、決して病むことなく、老いる事なく、
金剛不壊の霊身(れいしん)であるのである。
自己を肉体と称する物質身(ぶっしつしん)として見るのは、五官の感覚によって、
便宜上、縦(たて)横(よこ)厚みの三次元空間面上に翻訳して視(み)ているだけのことであって、
翻訳文は原文とよく似ているけれども、原文の全相(ぜんそう)を伝えるものではないのである。

翻訳文は原稿紙の上に書かれている。しかし原著者の文章は、本来原稿紙の上にあったのではなく、
原著者の心の中にあった霊的理念が、文字というもので綴(つづ)られたものであり、
その時、既に心の中にあった霊的理念が完全に表現せられず、文字という三次元空間面上に
投げ出されて、その時に、霊的理念が文字の表現力の範囲内に押し込まれて限定されたものと
なっているのである。

これは霊的理念が現象界にあらわれる際におこる自己限定を、文章に喩(たと)えて説いたもので
あるが、仏性といい、如来(にょらい)という霊的実在者が人身(じんしん)というものに顕現する
時にも同様のことが起(おこ)るのである。

二千数百年前、肉身(にくしん)の釈迦牟尼如来を見たところの弟子たちは、
本当は釈迦牟尼如来そのものを見(み)奉(たてまつ)ったのではなかったのである。
彼ら弟子たちは、食物を食(しょく)し成長し やがて老衰し涅槃(ねはん)に入(い)る
肉身に翻訳された釈尊を見たのである。

純陀(じゅんだ)はせめて肉体の釈尊が生きて い給う間に、自分の作った食物を
一箸(ひとはし)でも食べて頂(いただ)く光栄を得(え)たいと、心づくしの御料理を
釈尊に奉持(ほうじ)して献(ささ)げている。

その時に釈尊は 「 自分は仏身(ぶっしん)であり金剛身であり、非雑食身(ひぞうじきしん)であって、
未(いま)だ曾(かつ)て一度も物質の食物はたべたことはないのだ 」 と仰(おお)せられて
折角(せっかく)奉持(ほうじ)した食物をお契(あが)りにならないのである。

非雑食身(ひぞうじきしん)というのは 「 雑(いろいろ)の食物を捏(こ)ねあげて
出来ている身(み)ではない 」 という意味である。
つまり 生まれ、物質の食物を食(しょく)して成長し、老衰して死滅する自分ではないということである。

純陀(じゅんだ)は純情な青年僧であったらしいが、実在の釈尊を見奉(みたてまつ)ることが
出来なかった。肉体という三次元空間面に翻訳されたお姿を見ていたのであった。

釈尊は法華経の“ 如来寿量品 ”に於いても、 「 われ常に此処にありて滅せず 」 と仰(おお)せられ
「 自分は五百塵点 阿僧祇劫(あそうぎこう)以前の まだその以前より不滅に存在する霊的実在で
あるのに、汝(なんじ)らは如来の実相を見ずして 滅(めつ)ありと見る 」 という意味を
説かれているのである。

わたしたちは肉身に翻訳された釈尊を見た純陀(じゅんだ)のようには、自分自身の実相を、
食物を捏(こ)ね上げて作った肉体だと見てはならないので、すべての人間は釈尊と同じく
「 われ常に此処にありて滅せず 」 であるのである。

その 「 常・此処の世界 」 とは何処(どこ)であるか、それはイエスがいみじくも 「 神の国は
汝の内にあり 」 と指摘したところの 「 内在の世界 」 であり、三次元空間面上に翻訳し出され
ない以前の無次元の世界であり、われら人間すべて此の 「 常・此処の世界 」 にありて
死することなき不滅の存在なのである。この真理を知らせ給いし神に感謝いたします。

『 光の泉 』昭和51年9月号 「 日々読誦毎月真理経 」(18~19頁)





万教帰一して百福招来の祈り  谷口雅春 先生

2019-01-22 22:12:06 | 今日の光明法語
人間の実相は肉体ではなく、神の生命の自己顕現であるから霊的実在である。
それゆえ物質界の法則や、時間・空間の現象世界の枠内に縛られることなく
自由自在神通無礙(じんずうむげ)の存在であるのである。

時間・空間の中に生命が生きているのではなく、時間・空間を自己の心の掌中に把握していて、
これを握れば一点となり、これを展(ひら)けば無窮(むきゅう)となる神通無礙の存在が
人間の実相である。

本来神通自在にして何物の制約にも縛られない、常に解(ほど)けたる状態であるのが
人間の実相であるから、“人間の実相の霊(たましい)”をホトケ(解け)と称(い)うのである。

『 涅槃経(ねはんぎょう)』には 「 解脱(げだつ)をもって仏となす 」 と説かれているのは
そのためである。本来、仏であり、如来(にょらい)であり、解脱であるところの人間は、
完全に自分の生活を自己統御し得(え)、環境や、境遇に縛られることなく、完全に自己の
生活を支配し、自分の運命を自分で自分の欲するごとく創造することが出来るのである。

仏教的に謂(い)えば、人間の実相は仏陀(ぶつだ)であり、如来であるが、
日本民族古来の伝統的信仰によれば、人間の実相はミコトなのである。

日本古代の民族は、神々を皆ミコト称し、自己をも亦(また)、ミコトと称したが、
漢字が渡来してから後(のち)は、“命(いのち)”という字を当て嵌(は)めて、“命(みこと”と
読ませたり、自己が神の生命(いのち)の顕現として最高の尊貴(そんき)のものであるという
自覚から“尊(そん)”という漢字を当て嵌めて“尊(みこと)”と読ませたりしたのである。

ミコトの語源は御言(みこと)であり、神のミコトバ われに宿りて、人間となっていることを
意味するのである。直観的に古来の日本民族は、この真理を知っていたので、別に哲学的論理を
追うこともなく、自己を“何某(なにがし)の命(みこと)”と自然におのずから呼び、
彼を亦(また)、“何某(なにがし)の命(みこと)”と尊称して互いに拝み合ったのである。

はからずも、それがキリスト教の深い信仰をもつ人の自覚と一致することになっているのである。
すなわち、新約聖書の『ヨハネ伝』には、神の言(ことば)が宿りて人間の生命(いのち)となったと
いう日本民族古来の自覚と全く一致することが書かれているのである。

すなわち録(しる)して曰(いわ)く。
「 太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、
言(ことば)は神なりき、この言(ことば)は太初(はじめ)に神とともに在(あ)り、
万(よろず)の物これに由(よ)りて成(な)り、成りたる物(もの)一(ひと)つとして
之(これ)に由(よ)らで成りたるはなし。之(これ)に生命(いのち)あり、
この生命(いのち)は人の光なりき 」と。

しかし悲しいかな、多くの人々はこの自己に宿る“ 神の光 ” を自覚することなく、
迷いによって暗黒の世界をさ迷(まよ)っているのである。

併(しか)し此処(ここ)に人間生命の実相が神の光そのものであると説く教えがあらわれたのである。
それが生長の家と謂(い)う広大(こうだい)な慈門(じもん)であって、人類の魂の光の泉である。

諸宗(しょしゅう)を排斥することなく、諸宗の神髄(しんずい)を礼拝(らいはい)して
万教(ばんきょう)一(ひと)つに帰(き)する真理を説(と)く。

誰(たれ)よりも早く、この教えに来(きた)る者は、それだけ早く平和と調和の祝福を
授(さず)かり、人生百般(ひゃっぱん)の幸(さいわ)いを受けるのである。

『 光の泉 』昭和53年4月号 「 日々読誦毎月真理経 」(18~19頁)




三種の神想観  谷口雅春先生

2019-01-07 22:47:38 | 今日の光明法語
新生篇 幸福への真理

魂の進歩は、日(ひ)に日(ひ)に与えられた其(そ)の儘(まま)を
素直に全心(まこと)をもって行(ぎょう)じて行(ゆ)くところにある。

神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、行ずる意志力を招(よ)び出(い)だし、
その行じ得(え)させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向って行じているのでは
却って逆効果を呈することになる。

そこで神想観によって その行じる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、
『 神の叡智 流れ入りて、常住坐臥 吾れを導き給う 』 と観ずる神想観である。

実行の意志力を強めるところの神想観は
『 神の力 われに流れ入りて 吾れに実行の勇気を与え給う 』 と観ずるところの神想観である。

『 全てなくてならぬものを与えたまいて有難うございます 』 と繰返し念ずるのが、
感謝の神想観である。

吾等は 日常 この三種の神想観を 怠ってはならないのである。

叡智なき行は崩れる。行なき叡智は崩れる。行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ 感謝を実行に表現すること、
それは愛を 隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力(りき)みもない。
唯(ただ)有難いばかりである。

『 信の力 』 ( 381 ~ 383頁 ) 谷口雅春先生  光明思想普及会  昭和16年3月1日 発行

※ 著書の構成は、忠道篇、無我篇、承詔篇、新生篇 の四部構成となっております。






則天去私 様 ありがとうございます

2019-01-07 22:41:06 | 今日の光明法語
ブログ 則天去私( 全文 http://tecnopla1011.blog.jp/archives/78015899.html ) において
< 昭和27年9月15日発行では 同じ著書の名前で 谷口雅春 著、栗原得二 編輯 となっています。 >
とのことであり、とても有り難いご教示をいただき、感謝を申し上げます。
ありがとうございます。

昨年10月から11月にかけて実家に帰省した際に、 『 人間性の解剖 』 、 『 信の力 』 等を
実家の倉庫から探し出して持ち帰り、帰京しました。

その後、 『 「 生長の家 」 創始者 谷口雅春先生を学ぶ 』 2月号が届き、栗原晴子さんの
インタビュー記事の中で、夫が 栗原得二さんで、その写真が掲載されておりましたので、
偶然とは不思議なもので、 『 人間性の解剖 』 の中の自序文を思い出しました。

栗原得二さんが どのような方なのか、文章を通していささかでも知って頂ければとの思いから
投稿させていただきました。

本の構成は、序は、徳久克己先生が書かれており、自序は、栗原得二さんになっております。

谷口雅春先生は、昭和23年6月から昭和26年8月に公職追放が解除になるまでの3年あまりの間、
執筆が制限される状況下にありました。

従って、本書発行の昭和24年2月1日には、谷口雅春先生は、自由に執筆が出来ない時期にあたり、
本書は、占領下の実態を知る上でも貴重なものと思われます。

                  合掌 再拝




『 人間性の解剖 』  栗原 得二 著  自 序

2019-01-04 23:42:07 | 今日の光明法語

< 私は人間を解剖して、その奥にひそむ所の暗黒なるリビドーを突きつめあげた
あげく、その奥にもっと聖き所の神秘なるものがあることを発見したのである。>

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『 人間性の解剖 』  栗原 得二 著 ( 昭和24年2月1日発行 ) 日本教文社

( 本カバー 推薦文 )

医学博士 徳久克己氏 曰(いわ)く

余(よ)の共同研究者たる栗原氏が 深い信仰と該博(がいはく)な分析の
知識・経験とを以て 徹底的に人間性の奥底を解剖し、真の幸福が奈辺に
有(あ)るかを説く。余(よ)は 確信を以て本書を推薦したい。

自 序

此書は驚くべき人間の心の秘密の書である。
この書は人間を知ろうとするものの必読の書である。
この書は人間性の深刻なる研究である。

フロイドがその驚くべき天才をもって、美しく見えるところの人間の仮面を
剥(は)いで、その奥にどんなに深刻なる‘あるもの’があるかを剔抉(てっけつ)した。

人間性を研究せんとする者はその深淵の泥沼のような醜くさの奥から
人性の研究をはじめねばならない。そうでないと次のような深刻な問題は
解決がつかないのである。

何故良妻があるのに良人は放蕩するか。人間は何故嫁と姑とは争わねばならないか。
何故一人の貞淑な妻に満足しないで、却って容貌や、品位や、美しさの劣っている
ような娼婦型女性に魅せられねばならないか。

何故互に愛していながら父親や母親と子供との間に葛藤が展開され、
何故、ある娘は婚期がおそいか。何故ある息子は放蕩をするか、金銭を盗むか。

何故人間は太宰治のように自殺を計りたくなるか。何故人間は病気となるか。
何故人間は不幸災難にかかるか。

誰でも知らなければならないことで、滅多に書物には書いていない人間性の
秘密がある。この秘密は、近頃流行する性問題の書を読んでも、
肉体的なエロテチシズムばかり書いてあって、その奥にある人間の深い本性などは
書いていない。本書はこれらの問題を解決せんとして書かれたものである。

更に又、本書は人生の価値創造に最も根本的な土台となるものを
人間性の奥から掴み出して来ようとしたものである。

人生の価値は、人間が自己の中に建設した所の理想の高さだけのものである。
もし人間が人格の理想を失ってしまうならば、それは人生の破壊であり、
地獄への墜落である。

終戦以来、人間の解放が性的自由の解放にまで及んで来た時、ややもすれば、
人間の内的理想は崩れようとするのである。

人格の理想の建設こそ吾々の住む人生の真の意味に於ける建設であるのである。
しかし、性の解放は人格の理想と衝突しないであろうか。
性の自由奔放こそ、本当に人格の解放であるであろうか。

ここに吾々は深く沈思して自己内在の世界に目を向けなければならない時期に
到達していることを感ずる。

青年はいと高き世界に憧憬しながら、性欲の悪魔的誘惑によって、それとは逆な
世界に墜落しようとしているのである。それを調和せしむる道はないであろうか。

私はこの書に於て、恋愛と性欲と結婚との問題を取り扱い、
それを精神分析の光に照らして、人間とは如何なるものであるかということを
知ることによって、一度もっとも見苦しき面を通過することによって、
光の世界を指示せんとしたのである。

フロイドの精神分析は如何なる文化も、文明も、如何なる高尚と見える精神作用も
悪くリビドー(性本能)の昇華であるというのである。これは一面に於ては正しい。

私は本書の最初の部分にこの面から人間なるものを、その奥底の内臓の
もっとも見苦しい所までも解剖したのである。しかし解剖するだけでは
救いがない。フロイド的分析には救いがないのである。

その解剖された暗黒面を通して輝いてくるところの光、解剖されたる肉と肉とが
縫い合わせられて癒着して健全なる肉体とならしめるところの不思議な力は
どこから来るか、それは既に性本能の世界ではないのである。

私は人間を解剖して、その奥にひそむ所の暗黒なるリビドーを突きつめあげた
あげく、その奥にもっと聖き所の神秘なるものがあることを発見したのである。
性欲と恋愛とは人生のもっとも大いなる問題である。
この問題を解決することによって、あらゆる人生の不幸、病気、家庭の不調和が
癒されんことを念願するのである。

1948年12月17日
著 者 識

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谷口雅春先生は、 『 私はこうして祈る ー 人と時と場合に応じた祈り ー 』 はしがきに
栗原得二氏について書かれております。