人間の実相は肉体ではなく、神の生命の自己顕現であるから霊的実在である。
それゆえ物質界の法則や、時間・空間の現象世界の枠内に縛られることなく
自由自在神通無礙(じんずうむげ)の存在であるのである。
時間・空間の中に生命が生きているのではなく、時間・空間を自己の心の掌中に把握していて、
これを握れば一点となり、これを展(ひら)けば無窮(むきゅう)となる神通無礙の存在が
人間の実相である。
本来神通自在にして何物の制約にも縛られない、常に解(ほど)けたる状態であるのが
人間の実相であるから、“人間の実相の霊(たましい)”をホトケ(解け)と称(い)うのである。
『 涅槃経(ねはんぎょう)』には 「 解脱(げだつ)をもって仏となす 」 と説かれているのは
そのためである。本来、仏であり、如来(にょらい)であり、解脱であるところの人間は、
完全に自分の生活を自己統御し得(え)、環境や、境遇に縛られることなく、完全に自己の
生活を支配し、自分の運命を自分で自分の欲するごとく創造することが出来るのである。
仏教的に謂(い)えば、人間の実相は仏陀(ぶつだ)であり、如来であるが、
日本民族古来の伝統的信仰によれば、人間の実相はミコトなのである。
日本古代の民族は、神々を皆ミコト称し、自己をも亦(また)、ミコトと称したが、
漢字が渡来してから後(のち)は、“命(いのち)”という字を当て嵌(は)めて、“命(みこと”と
読ませたり、自己が神の生命(いのち)の顕現として最高の尊貴(そんき)のものであるという
自覚から“尊(そん)”という漢字を当て嵌めて“尊(みこと)”と読ませたりしたのである。
ミコトの語源は御言(みこと)であり、神のミコトバ われに宿りて、人間となっていることを
意味するのである。直観的に古来の日本民族は、この真理を知っていたので、別に哲学的論理を
追うこともなく、自己を“何某(なにがし)の命(みこと)”と自然におのずから呼び、
彼を亦(また)、“何某(なにがし)の命(みこと)”と尊称して互いに拝み合ったのである。
はからずも、それがキリスト教の深い信仰をもつ人の自覚と一致することになっているのである。
すなわち、新約聖書の『ヨハネ伝』には、神の言(ことば)が宿りて人間の生命(いのち)となったと
いう日本民族古来の自覚と全く一致することが書かれているのである。
すなわち録(しる)して曰(いわ)く。
「 太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、
言(ことば)は神なりき、この言(ことば)は太初(はじめ)に神とともに在(あ)り、
万(よろず)の物これに由(よ)りて成(な)り、成りたる物(もの)一(ひと)つとして
之(これ)に由(よ)らで成りたるはなし。之(これ)に生命(いのち)あり、
この生命(いのち)は人の光なりき 」と。
しかし悲しいかな、多くの人々はこの自己に宿る“ 神の光 ” を自覚することなく、
迷いによって暗黒の世界をさ迷(まよ)っているのである。
併(しか)し此処(ここ)に人間生命の実相が神の光そのものであると説く教えがあらわれたのである。
それが生長の家と謂(い)う広大(こうだい)な慈門(じもん)であって、人類の魂の光の泉である。
諸宗(しょしゅう)を排斥することなく、諸宗の神髄(しんずい)を礼拝(らいはい)して
万教(ばんきょう)一(ひと)つに帰(き)する真理を説(と)く。
誰(たれ)よりも早く、この教えに来(きた)る者は、それだけ早く平和と調和の祝福を
授(さず)かり、人生百般(ひゃっぱん)の幸(さいわ)いを受けるのである。
『 光の泉 』昭和53年4月号 「 日々読誦毎月真理経 」(18~19頁)
それゆえ物質界の法則や、時間・空間の現象世界の枠内に縛られることなく
自由自在神通無礙(じんずうむげ)の存在であるのである。
時間・空間の中に生命が生きているのではなく、時間・空間を自己の心の掌中に把握していて、
これを握れば一点となり、これを展(ひら)けば無窮(むきゅう)となる神通無礙の存在が
人間の実相である。
本来神通自在にして何物の制約にも縛られない、常に解(ほど)けたる状態であるのが
人間の実相であるから、“人間の実相の霊(たましい)”をホトケ(解け)と称(い)うのである。
『 涅槃経(ねはんぎょう)』には 「 解脱(げだつ)をもって仏となす 」 と説かれているのは
そのためである。本来、仏であり、如来(にょらい)であり、解脱であるところの人間は、
完全に自分の生活を自己統御し得(え)、環境や、境遇に縛られることなく、完全に自己の
生活を支配し、自分の運命を自分で自分の欲するごとく創造することが出来るのである。
仏教的に謂(い)えば、人間の実相は仏陀(ぶつだ)であり、如来であるが、
日本民族古来の伝統的信仰によれば、人間の実相はミコトなのである。
日本古代の民族は、神々を皆ミコト称し、自己をも亦(また)、ミコトと称したが、
漢字が渡来してから後(のち)は、“命(いのち)”という字を当て嵌(は)めて、“命(みこと”と
読ませたり、自己が神の生命(いのち)の顕現として最高の尊貴(そんき)のものであるという
自覚から“尊(そん)”という漢字を当て嵌めて“尊(みこと)”と読ませたりしたのである。
ミコトの語源は御言(みこと)であり、神のミコトバ われに宿りて、人間となっていることを
意味するのである。直観的に古来の日本民族は、この真理を知っていたので、別に哲学的論理を
追うこともなく、自己を“何某(なにがし)の命(みこと)”と自然におのずから呼び、
彼を亦(また)、“何某(なにがし)の命(みこと)”と尊称して互いに拝み合ったのである。
はからずも、それがキリスト教の深い信仰をもつ人の自覚と一致することになっているのである。
すなわち、新約聖書の『ヨハネ伝』には、神の言(ことば)が宿りて人間の生命(いのち)となったと
いう日本民族古来の自覚と全く一致することが書かれているのである。
すなわち録(しる)して曰(いわ)く。
「 太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、
言(ことば)は神なりき、この言(ことば)は太初(はじめ)に神とともに在(あ)り、
万(よろず)の物これに由(よ)りて成(な)り、成りたる物(もの)一(ひと)つとして
之(これ)に由(よ)らで成りたるはなし。之(これ)に生命(いのち)あり、
この生命(いのち)は人の光なりき 」と。
しかし悲しいかな、多くの人々はこの自己に宿る“ 神の光 ” を自覚することなく、
迷いによって暗黒の世界をさ迷(まよ)っているのである。
併(しか)し此処(ここ)に人間生命の実相が神の光そのものであると説く教えがあらわれたのである。
それが生長の家と謂(い)う広大(こうだい)な慈門(じもん)であって、人類の魂の光の泉である。
諸宗(しょしゅう)を排斥することなく、諸宗の神髄(しんずい)を礼拝(らいはい)して
万教(ばんきょう)一(ひと)つに帰(き)する真理を説(と)く。
誰(たれ)よりも早く、この教えに来(きた)る者は、それだけ早く平和と調和の祝福を
授(さず)かり、人生百般(ひゃっぱん)の幸(さいわ)いを受けるのである。
『 光の泉 』昭和53年4月号 「 日々読誦毎月真理経 」(18~19頁)