☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

自己に当てはまる生活設計がある

2014-06-30 21:37:14 | 今日の光明法語

一つの写真機械でも

その写真機械にぴったりあてはまるような使い方によって

優秀なる作画が出来るように、


諸君がもし自分の身体を、一個の写真機械よりも愛して使いたいと思うならば、

自分の肉体に 如何なる睡眠法が、食事法が、仕事の順序配列が、如何なる休養方法が、

如何なる生活様式が もっとも適当するかということは

数年ならずして自分自身に会得することができる筈(はず)である。


ゲーテは その体質虚弱であったが、

八十歳迄 長生きして大作を成しとげたのは、

其の生活法によってである。



『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 二十五日の法語  谷口雅春先生




自己の性能をよく知ること

2014-06-30 00:25:18 | 今日の光明法語

強烈な鍛錬に堪(た)え得るような体質もあるし、

又 できるだけいたわって、余り強烈なことをせずに、

静かな精神的仕事ならば 何時間働いても体にさわらないような体質もあるのである。


食物等の問題も、栄養学の上からして、大体一般的なことは云えるけれども、

甲に対する適当なる食物が 乙に対してどうしても適しないような場合もある。


食物に於てのみならず、

すべて生活設計に於て、

その人の肉体にぴったりあてはまる所の生活方法があるのである。

それを巧(たく)みに使いこなせば 多くの仕事が出来るのである。



『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 二十四日の法語  谷口雅春先生




自己の肉体の性能を知って使わなければならぬ

2014-06-26 00:11:52 | 今日の光明法語

一個の写真機械でも

その性能を完全に知って、

その写真機のもっているすべての能力を

完全に駆使するためには、

滅多矢鱈(めったやたら)に写してみるだけでは足りないのである。


同じ名前のカメラでも

すべて一つ一つに

それ自身の癖とか片寄りとかというものがあって、

それを巧(たく)みに使いこなせば、

その癖が美点となり、

そのカメラならでは撮影し得ないような立派な作画を

得ることができるのである。


それと同じく人間には、同じ人間であっても、

その体質には色々あり、

甲の人に適するものが、必ずしも乙の人に適しないこともある。



『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 二十三日の法語  谷口雅春先生





秩序によって生命は具象化する

2014-06-25 04:18:37 | 今日の光明法語

すべての生命は 秩序によって発現するのである。


肉体の構成組織に秩序がくずれて来たのが、

病気であり頽廃(たいはい)である。


されば 秩序ある生活を送るということは、

すでに それが生命の完全なる発現に要する条件の一つを整えることになるのである。


吾々は 健康の科学的法則を知らなければならない。


科学の研究は 宇宙を支配している法則が

秩序整然一糸(いっし)みだれざるものであることを示しているのである。


法則を無視するのが生長の家ではない。


法則を今まで知り得たる以上に発見して

それを守るのが生長の家である。


第一 吾々は自己の肉体が如何なる生活に適するかということを知らなければならない。



『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 二十二日の法語  谷口雅春先生




自己の煩悩を克服する者が真の勇者である

2014-06-24 00:04:41 | 今日の光明法語

奴隷は主人になることはできぬ。

いわんや神の子たる資格はない。


まず 「 自己 」 の煩悩を克服するもののみが

真の勇者であり、勝利者である。


この世に於て、なすあらんと欲する者は、

その目標を定めて 吾 必ず これをなさんと決意せよ。


而してその目標に到達せんがための邪魔物になるすべてのものを

勇敢に切りすてねばならないのである。


まず第一にその目標到達の障礙物になるものは、

健康の法則にそむく所の凡ゆる不規則なる生活である。




『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 二十一日の法語  谷口雅春先生




五官の奴隷になってはならぬ

2014-06-13 21:31:26 | 今日の光明法語

一体、人生を 「 享楽(きょうらく)する 」 とは

如何なることであるか。


真に神から与えられたる天分を享(う)け楽しみ、

それを伸ばして行く喜びこそ

本当に 「 人生を享楽する 」 ことである。


徒(いたずら)に官能の喜びに魅惑され

自分の天分を遂行し得べきエネルギーを浪費してしまうのは、

人生を享楽することではなく、人生を浪費することである。


それは人間が五官を支配するのではなくして、

五官の奴隷になることである。


いやしくもこの世界に於て、群をぬいて、

神の子の完全なる姿を実現せんとするものは、

五官の奴隷になってはならぬ。



『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 二十日の法語  谷口雅春先生




肉体は生命の乗馬

2014-06-08 20:29:42 | 今日の光明法語

吾々は 如何に豊かに天賦の才能があろうとも、

その天賦の才能の、表出口である所の肉体が、

完全に内部の生命力を表現し得るような調和した場合にない場合には、


天賦の才能も徒(いたずら)に表現することを得ずして、

その人は 無駄に一生を徒費(とひ)してしまわねばならないのである。


どんな立派な騎手も、その馬が衰えたり、駄馬になってしまっては

競争に優勝することは出来ないのである。


霊魂は騎手であり、

肉体は それに乗って人生を走るところの 「 馬 」 である。


競馬の騎手はどんなにその乗馬を大切にするか。

人間が 「 乗馬 」 ほどにも肉体を大切にしないのは驚いたことである。




『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 十九日の法語  谷口雅春先生




自分の運命は自分が造る

2014-06-06 20:12:13 | 今日の光明法語

自分の運命が向上しないのは、

自分の与える分量が少ないからである。


すべて自分の運命は

自分自身で作るのである。


吾々の生命を悪鬼のように吸血し、黴菌のように浸蝕し、活力を涸渇せしめ、

仕事の能率を低下せしめ、有為の人材をして無力化してしまうのは、

仕事を一所懸命に行う所の克苦精励によってではないのである。


吾々の活力を奪い、精力を衰耗せしめ、

人生観が真暗がりになるほど神経を衰弱せしめるものは、

健康の法則にそむいたる日常生活に於ける誤れる習慣である。



『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 十八日の法語  谷口雅春先生



憐(あわ)れなる人々を見よ

2014-06-05 12:48:09 | 今日の光明法語

大抵の人たちは 休日を

直(ただ)ちに 「 心身を休める日 」 として用いないで、

心身を一そう疲労さす日として用いるのである。


そして時には 真夜中迄、午前二時三時までぶっ通しで享楽する。

その享楽が落ちついた心の平和を得る種類のものでないので、

エネルギーが精神力の方からも浪費される。


そしてその興奮のために、さて午前一時二時頃から寝ようと思っても

寝つくことができない。寝床に輾転反側して遂に朝に至る。

体はぐったり疲れている。


次の日の能率が上がらないのは当然である。

そしてそれらの人達は 自分の精神力の低下、能率の不足を、

与える仕事量の少なさを省みないで他を呪う。




『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 十七日の法語  谷口雅春先生




休日を生命力の浪費に使うな

2014-06-03 03:30:00 | 今日の光明法語

彼らは肉体がつかれているために、

何等(なんら)仕事に対して熱情を示さない。


休日の翌日、半日で ともかくも仕事ができるように回復するのは上等で、

一日かかってまだ疲労が回復しないのもある。


なぜこれらの社員は 日曜に休養を得た筈(はず)であるのに、

疲れているのであろうか。


彼等は休養を得る積(つも)りで

出来るだけ楽しもうとするのである。


そして夜遅く迄 精力を尽して

快楽を貪るのである。


そして凡ゆる種類の享楽に憂(う)き身(み)を窶(やつ)し、

時には、いかがわしい所へ通って精力を浪費する。


彼らはそれをレクレーションと思い違え、

「 人生を享楽(きょうらく)した 」 と考えて、

その享楽のために

如何に尊い生命力を犠牲にした事に気がつかない。



『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 十六日の法語  谷口雅春先生




休日の翌日の勤務状態は大抵悪い

2014-06-01 20:09:15 | 今日の光明法語

ニューヨークのある最大の会社の重役が話した所によると

その社員の疲労状態は特に月曜の出勤に甚だしかったとマーデンは書いている。


大抵の社員は休日の翌朝出勤すると、

まだ出勤したばかりであるのに

既に長期間の激務に従事した後であるかの如くすでに疲れており、

できるだけ早く自宅へ帰って休みたいような様子に見えるのである。


そして全く仕事が手につかない。

ともかく仕事ができるような体と精神状態とになるには

少なくとも半日以上はかかるし、

その半日間は全く仕事に無関心で、懶(なま)けてしまって、

何のために出勤しているのかわからないほどなのが多いと云う。



『 生長の家 』 誌 昭和二十四年三月号

「 完全なる生活設計 」 十五日の法語  谷口雅春先生