☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

無限のアイディアを得る神想観メディテーション 2

2015-05-28 15:14:25 | 今日の光明法語

【 経営の偉才・市村清氏の事例にみる “ 心の法則 “ の応用 】

例えば、市村清さんの場合がそうです。リコーの創業者社長だった市村清さんについては
何度かお話ししたのでご存知の方も多いとは思いますが、あの方は、若い頃に結核であったのです。
それが、 『 生命の實相 』 を読んで、 《 人間・神の子 》 の自覚を得て病気が治ってしまったのです。
それ以来、生長の家の神想観のやり方で祈られて、無数のアイディアを神様から受けて、
二十何社かになる会社をお創りになって、自らが社長や重役になっておられた、大実業家なのです。

ところが、晩年にちょっと躓(つまず)かれたのです。そして折からの金融の逼迫(ひっぱく)で
“ どうしようか ” と思っている最中に、今度は、吹原事件という政界の大物を巻き込んだ大詐欺
事件に引っかかってしまったのです。市村さんは五億円の約束手形を書いただけなのですが、
不運というか、その詐欺にかかっちゃったのです。

金融に困っている最中に、そういう大事件に巻き込まれちゃったものですから、
もう二進(にっち)も三進(さっち)もいかない。眠られない。で、到頭(とうとう)不眠症に
なってしまったのです。それで睡眠薬を服(の)んではみるけれども、一粒では駄目。二粒、三粒と
量を殖やしていくに従って胃が段々悪くなってきたのです。それも、もうこれ以上睡眠薬 服んだら、
躰(からだ)を潰(つぶ)してしまうという段階にまで陥ったのです。

それで今度は いろいろのアルコール類を取っかえ、引っかえ、睡眠薬の替りに飲(や)っていたら、
事態は悪化の一方をたどるばかりでますます胃は悪くなるという事態になってきたのです。

その一方で、金融は逼迫してきます。
そうなると世間は非情なもので、 “ もうリコーは不渡りを出すぞ ” というような噂まで出て
きたのです。実際その時には、いよいよ そういう事態になったら破滅だ、というところまで
リコーは追い詰められていたのです。


【 無限のアイディアを受くるには 神様放送局にチャンネルを合わせよ 】

その時の奥さんが何とも偉かったのです。奥さんは夫の市村清さんに、
「 貴方(あなた)、あんたみたいに人のために、人のためにと人のために今まで尽して来た人が、
そんなに行き詰まってしまって破産してしまうなんていうようなことはないですよ。
この世界は、原因結果の法則が支配している世界。善いことをした人は、善いことが
必ず還(かえ)ってきます。
貴方は人から恩を受けたら、それを数倍にして返した人です。もし貴方が行き詰まってしまったと
いうようなことがあれば、神も仏も、因縁因果の法則もないじゃないですか 」
というような意味の言葉を言われたのです。

その機に 「 ハッ 」 と市村清さんは眼が覚めた。あんまりに現象界の金詰まりに引っかかっちゃって、
‘ 神様を忘れとった ’ ということに気づいたんですよ。
そして 『 生命の實相 』 をもう一遍読み直そう、という気持になると同時に、更に神想観をして
祈ろうという気持におなりになったのです。で、神想観をして祈る、ということを始められたのです。
そしたら、神様から善いアイディアが続々と降って来たのです。
それで、リコーは奇蹟的に復活したのであります。


つづく・・・



無限のアイディアを得る神想観メディテーション 1

2015-05-27 18:01:57 | 今日の光明法語


「 無限のアイディアを得る神想観メディテーション 」

谷 口 雅 春 先 生

『 精神科学 』誌 昭和五十六年二月号  


お早うございます。

今回も、テキストの『 人生の秘訣365章 』のつづきです。九十六頁をお開き下さい。
「 “ 希望 ” はこれを妨げない限り 法則が成就する 」 と、こう書いてありますが、
ここから始めます。


【 希望は人為的に妨げぬ限り実現する 】

ここに “ 希望する ” っていうことが書かれてありますが、希望するということは
どういうことか、どうして “ 希望 ” っていうものが出てくるのかというと、
それは、希望は成就するという前提が、われわれの潜在意識すなわち奥底の心の中にあるからで
あります。
‘ 希望するものは必ず実現する ’ という前提があって、それを潜在意識が知っているから
なのであります。

ですから、 “ 自分が希望するものは 神がそれを希望し給うのである ” という、
そういう深い信念をまず持つことが必要なんであります。

それには “ 必ずこの希望は成就するのである、間違いないのである! ” という、
その確信を深めるために、希望する事柄を紙に書いて貼りつけるといいですねえ。
そして、それを毎日見て 「 すでに実現しました。有難うございます 」 と感謝することが
必要なわけなんです。

そうしておけば、現象をあらわすところの “ 現象顕現の法則 ” が働いて自然に周囲が
そういうように動き出すわけです。周囲ばかりじゃなく、自分の行動も動き出すのです。

そういう状態になった時に、その ‘ 動き出す ’ ってことを妨げたら駄目なんです。
また 「 祈れば、それは必ず成就するんだ 」 と言っても、ただ祈るだけで何もしないで
動き出さないでいたらいけないのです。
動き出すと言っても、これは自然に内部から催して来る動きなのです、自分の内部から・・・・・・。

例えば、このまえお話ししたと思いますが、 「 神様!どういう問題が出ますか教えて下さい 」 と
祈って百科辞典をパッと開いたら “ 文化 ” という文字が出てきたという話がありましたねぇ。
それを “ そんなこと馬鹿らしい ” “ 百科辞典 開くなんて面倒臭い ” とか
“ そんなことは迷信だ ” と考えて、そういうことを自然としたくなって催して来ても、
それを止めちゃったら、出てこなくなるのです。

だから、祈った後は、自然に動き出すことを行動化 して実行する、ということが ―
希望を実現するための方法である、というわけなんであります。


つづく・・・


神想観についての心得書き 3

2015-05-26 07:31:31 | 今日の光明法語


( 五 ) かく精神を集中して念ずる所の言葉は大体次の通りである―

「 吾が本体は、太陽よりも尚一そう光輝燦然(こうきさんぜん)として輝き、雪よりも尚一層清浄であり、
エーテルよりも尚一そう精妙であり、これがわが中(うち)に宿る霊であって、それが本当の自分である 」

セオソフィーのように斯(こ)う云うような意味を念ずると、一層自己が「 肉体 」ではなく
「 霊化されたもの 」と云う自覚を得るに便(ベン)であります。併(しか)し、此(こ)の通りの言葉と
云うように、そんな型に はまった念じ方でなければならぬと云うんじゃないのです。

これを参考に、また『 私はこうして祈る 』の本にある祈り方をするとか、兎(と)も角(かく)、
無意味な呪文を唱えるようなことにしないで、意識の中に意味がハッキリあれば良いのです。

符号的な形式的な思念に流れないで、本当に想念を起しての言葉が必要なのです。
「 如意宝珠観 」や「 観普賢菩薩行法 」などは『 詳説 神想観 』の本に詳しくやり方が説明してあります。


( 六 ) その次の言葉に精神を集中するのもよい―

「 神は今 吾を見つめてい給うのである 」

これも同様に、言葉を念ずる時 はっきりとその意味を思い浮べながら繰返すのであって、
その想念がふらふらしてはならないのです。


( 七 ) 最後に次の意味の言葉を繰返して精神統一するのである―

「 吾々は永遠の世界に住んでいる。吾が魂の中には言葉に言い表すことのできない、平和がみちみちて
いるのである。今ここにすべてのものを新たならしめる所の力がある。
今、自分は神と一体であるが故にその力は吾が中(うち)に生き動いているのである 」

以上はセオソフィーの行う精神統一の一端を紹介して、神想観を行うときの参考に供したので
ありますが、アメリカの帰一協会“ ユニティー ”に於いても それぞれ多少異なる所の神想観
(meditation)の思念があるのですが、それらは大体何(いず)れもその原理は同一であります。

そしてその根本は、この実相世界の完全さと実在する「 本当の自分 」の完全さを、いかにアリアリと
心に描いて、それに波長を合わせ現実界に実現するかと云うことで、それが神想観の根本でありまして、
応用や変化は無数にありますが、あまり色々やらないで、最初は基本的な神想観をミッチリ実修する
ことがよいのであります。

神想観を自分だけやると悪霊につかれるおそれがあると言って 恐れてやらぬ人がありますが
それは意識にハッキリと、神の霊の流れ入る有様を描き、念ずる言葉にハッキリ精神を集中しないで
意識を朦朧(もうろう)とさせたりするからであります。
又、神想観の始めに 「 招神歌(かみよびうた)」 をとなえて「 守護の天使 」を呼び出しておけば、
そんな恐れはありません。

また本部で允可(いんか)していない先生に、神想観を指導してもらうと馮霊(ひょうれい)に
つかれる危険があると云うのは、その指導者が往々にして人体磁気を修行者に送り
所謂(いわゆ)るマグネタイズして恰(あたか)も催眠状態にならしめることがあるからです。
こんな場合は、指導者につくよりも、『 詳説 神想観 』に説明してある通り、御自分だけで
実修なさるが宜(よろ)しい。


〈 了 〉




神想観についての心得書き 2

2015-05-26 07:17:49 | 今日の光明法語


( 三 ) 自分の肉体、感情体、及び精神体のすべてが自分の脳髄をアンテナとして
宇宙霊の流れ入る所の流入口となり、わが想念によって全身心が浄められ、
それによって支配されると感ずる

「 感情体 」 と云うのは、「 幽体 」のことであります。それから「 精神体 」と云うのも、
やっぱり“ 想念の体 ”であって“ 幽体の表面 ”の方であります。
“ 感情体 ”の方がもう一つその奥の方に在るのであります。
我々の体(たい)は、大別すると肉体、エーテル体、幽体、霊体の綜合体(そうごうたい)で、
その中心に本体と云う実相の、「 現象以前の本体 」があるので、各々の体は 本体の周辺に層を成して
いると考えてよろしい。

もっと細(こまか)く分ければ いくらでも分類できますけれども、“ 感情体 ”及び“ 精神体 ”と
云うのは“ 幽体 ”のそれぞれの層であります。そして肉体は現実的な感覚を司ります。
その肉体と幽体との接着(つなぎ)のハタラキをするのが“ エーテル体 ”であります。

その“ 幽体 ”は眠っているときなどに幽界に出遊することがあります。
また、眼が覚めているときでも、多少一寸横へ寄ってズレている事がある。
つまり肉体とピッタリ重なり合わないで、一寸(ちょっと)‘ だぶって ’いるように見える。
そう云う所から、それを英語でダブル(double)と言います。
肉体と二重写しのようになって見えるので、「 複体(ふくたい)」と日本語で名称づける場合も
あるのであります。

神想観の時には、この肉体および感情体並びに精神体が、自分の脳髄をアンテナとして、
自分の全体に宇宙霊を流れ入らしめるように感ずるがよい。
そうして宇宙霊によって自分の全存在が浄(きよ)められるように感ずるとよろしい。


( 四 ) 意志の力により、ある一定の言葉を心に念じて それに精神を集中する

生長の家では、「 神の無限の生かす力 流れ入る流れ入る・・・」 と云う語(ことば)が
基本的な神想観に於ける念ずる言葉でありますが、それをじーっと念じて
意識朦朧(もうろう)としたり、無念にならないで 意識をはっきりとその言葉の意味に集中するのです。

その時に唱える言葉を呪文みたいに無意味に繰返して無念無想になってしまって、何らかの霊に
憑依(ひょうい)されるようなことになると、一種の呪術(じゅじゅつ)(まじない)になってしまって
本当の神想観ではなくなってしまうのです。
同じ念ずる語(ことば)を毎日繰返していると、それが習慣的になって、唱えていることばの意味を
本当に想念しないことになるとかえって効果が無いのであります。

その言葉の意味を通して 真に神を想(おも)うところに効果が有るのです。
また、あんまり習慣的に同じ言葉を唱えていると、心に余裕が出来てその言葉を心の一方で
唱え乍(なが)ら、こころの他方では他の事を考えたりします。

「 ああ今晩家へ帰って何を御馳走(ごちそう)こしらえようか 」なんて他方で思い乍ら、
一方で「 神の無限の生かす力 流れ入る流れ入る・・・」と念じているという事になるのですから、
そこで、そういう事になってくると別の言葉で念ずるようにするのです。

そうして、最初念じた言葉よりも、もっと深い意味を含んだ複雑な言葉を念じます。
「 如意宝珠観(にょいほうじゅかん) 」 であるとか、「 四無量心(しむりょうしん)の神想観 」で
あるとか、「 観普賢菩薩行法(かんふげんぼさつぎょうほう)」 であるとか云う もっと複雑な念じ方の
神想観をやって、複雑な相(すがた)を眼の裏に描いて観ずるようにします。

その念ずる時に、例えば 「 流れ入る・・・ 」 と念ずれば、ある光体が流れ入るような有様を
眼の裏に描いて、目を閉じているけれども その奥に在(あ)る「 心の眼 」で、じーっと それを
見詰める気持ちになると、意識がハッキリしながら精神が統一し易いのであります。

時には 次のように清浄化され精妙化され霊化されたる自分を念ずるのもよいのであります。



つづく・・・



神想観についての心得書き 1

2015-05-18 16:37:42 | 今日の光明法語

「 神想観についての心得書き 」

谷 口 雅 春 先 生

『 光の泉 』 昭和三十五年十二月号  


セオソフィー(霊智学(れいちがく)と訳す)と云(い)うブラバッキー夫人と云うヒマラヤに
住んでおった非常に霊能のある人が始めた宗教があります。
それとの医学的の関係を書いた本を私が最近(昭和三十四年)『 靈智醫学(れいちいがく)と治病 』と
云う翻訳書で出しましたけれども、あのセオソフィーの一派の教祖さんでアメリカに居りま
したアリス・A・ベーリー夫人と云うのがあります。この人は一昨年死にましたけれども、
この人は大変霊能の高い人でした。

それがこの“ 精神集中のために、必要なる練習の仕方としてあげた所の方法 ”は、
これが神想観の時にも非常に参考になるので、紹介いたします。
神想観の時にも斯(こ)う云うような気持でおやりになるが良いと思うのであります。
それで次に引用したわけであります。


( 一 ) 肉体を安らかに どこにも凝(こ)りのないように統制する

「 凝りがない 」と云うことは、「 だらしない 」と云うことではありません。
生長の家では、一番正しい坐り方にあることが、どこにも凝りのない姿勢であるとして、
尻を後方に引き、前方にある膝(ひざ)と尻とで背骨を載せる三角の台たらしめ、
其(そ)の上にちゃんと柱である背骨が立って、重心が一定の処(ところ)へ落ち着いて
一番楽で長時間疲れない姿勢と云うのが、あの生長の家の神想観の正しい姿勢であります。

普通西洋人はあの坐り方が出来ないものでありますから、椅子にかけて凭(もた)れても
良いですけれども、日本人は『 詳説神想観 』に説明してあるようにして坐る方がよろしい。
坐禅の姿勢などは、大体あれと同じ姿勢で尻を後方に引いて背骨を立てる姿勢でありますけれども、
坐禅は印度(いんど)に発達した坐り方であります。

印度はあんまり温かいから坐っている内に居眠りを催すことがある。
だから居眠っても、坐禅の結跏趺坐(けっかふざ)というあの太股(ふともも)の上へ足先を挙げて
組み合わし三角の座にする姿勢でいると、ひっくり返らないのであります。
それですから、あの結跏趺坐の坐り方をします。しかし婦人があの姿勢をしていると熱帯国では
蛇が往々婦人の要所に侵入して膣(ちつ)をつきやぶることがあるので、半跏趺坐(はんかふざ)と
言って一方の片先だけを太股の上にあげ、他方の足の踵(かかと)をもって要所をふさいで坐ると
されています。日本的な神想観の坐り方は万全の坐り方で、どの点からも隙(すき)がありません。


( 二 ) リズミカルな規則正しい呼吸をできるだけ静かにゆっくり行なう

これは呼吸だけの調整でありますが、神想観では念ずる言葉と呼吸とをちゃんと調和 して、
息を吸う時には、「 神の生命(いのち)流れ入る 」 と念じ、その息を吐くときには、
徐々に吐くために腹部に力を入れて張り出 し 「 満たされている 」 感じを誘導 し
「 神の生命に満たされ、生かされている 」 と念じます。


つづく・・・



悟りと神想観 3

2015-05-16 15:17:21 | 今日の光明法語

【 悟りの行的把握について 】


併(しか)し、二十年も坐禅しとっても分からん者が、神想観をしたら‘はい’分ったという

ような例もありますが 別に私は神想観と坐禅との優劣を言っているのではない、機を異(こと)に

するに随(したが)って縁が異(ことな)るのであります。

とも角も、神想観でも坐禅でも覚(さと)れんこともない。どちらでも覚れるけれども、

それで最後ということじゃないのであって、白隠(はくいん)禅師でも 「 大悟(だいご)十八回、

小悟(しょうご)は数知れず 」 と言っておられます。


大悟徹底したと思っても、まだまだそれは、ひとつの段階であって、今度こそ大悟徹底したと思っても、

まだそれもひとつの段階で十八回も大悟したと言われておりますがね、だからもうこれでお終(しま)いだ

と思ったら無限生長じゃないのであります。ですから、まだまだ吾々は修行をしなければならない。


知的にまず把握し、それから感情的にも把握し、それから今度は行(ぎょう)的に

把握しなければならない。さっきおっしゃったところの愛行が真理の行的把握です。

人に本当に愛を与えた時に本当に生き甲斐の自覚というものが感じられ、

そして「 我れ神の子である 」というよろこびが実感として起って来るというのが、真理の行的把握ですね。


行動というものは、ただ単に感情というものでもなければ、知的に知るというだけでもない、

もっと具体的に全体ですね。だから 「行動化して悟る 」 ということになれば、

尚(なお)一層高い程度に悟って来たということになるわけであります。

それでそのやっぱりその真理の書物を読んで そして同時に神想観をして、それによって全生命が

感情的に情感的に悟って、その悟りから起(た)ち上って、そして人を救うという実際運動を

行じてこそ、そこに本当に永続的な覚(さと)りのよろこびというようなものが得られて来るのです。


ただ坐禅とか神想観だけをして自分が悟っても、それはある意味からいうと、

ひとつの利己主義であるとも言えます。自分だけ悟ってなかなかいい気持であっても、

陶然(とうぜん)として坐禅に酔い、神想観を修して神(かん)ながらのよろこびの感情が

湧く程度までなって来てもですね、それは、‘自分が’たのしいのであって、人を救うという

境地には ならないのでありますから、その境地でとどまったらいけないのであります。



【 ひとりよがりの愛行では駄目です 】


しかし人を救ったら、それだけでいいかとこう考えますと、やっぱり救っただけじゃいかんのであります。

自分は人を救ったつもりで、かえって人を害しているようなことが随分(ずいぶん)たくさんあるのです。

いいことしたつもりで人に迷惑をかけとる人は随分たくさんある。

それは何(ど)ういう処(ところ)から起るかというと自分の「我(が)」の考えの愛行から起るのです。


「 我 」の考えの愛行で あの人に親切にしてあげたいと思って深切するけれども、

間違いの深切している。そしてその人の発達をさまたげることが随分ある。

一時その人はお金でも貰(もら)って助かることもあるかもしれんけれども、

そのためにかえって自分が努力することを忘れることもある。

また或る時は人に忠告をしたらあの人は良くなるだろうと思って欠点を指摘すると、

かえって其の人は欠点の暗示を受けて 「 もうわしはこんなに欠点があるから駄目だ 」という具合に

堕落する場合もあります。


そういうようにただ 「 愛行 」をするというだけではひとりよがりになります。

「 私は人を助けているんだ 」と思っとったらあにはからんや ちっとも助けていないで

却(かえ)って害を与えているかもしれない。

そこでやっぱり神想観をして、そして神に融合一致して、其処(そこ)から出て来る神様の

智慧(ちえ)によって、愛行を実践してゆくということにしなければならない。

ですから、やっぱり真理の書物を読み、神想観をし、そこから愛行を実践するという風に、

この三つを常に一緒に具体的に実行するということによって、神に対する悟りがだんだん深まって

来るということになるわけであります。まあ此の問題はこれ位にしておきましょう。



          〈 了 〉



悟りと神想観 2

2015-05-16 14:50:44 | 今日の光明法語

【 神想観について 】


司 会  神想観をするにはやっぱり姿勢が正しいということが必要であると言われておりますが、

心さえ整えば寝ころんでいてもよいのではありませんか。


谷 口  姿勢のあり方は、神想観のときに説明していますし、『 生命の實相 』観行篇に

ありますから重ねて此処(ここ)では申しませんが、ちょっと位足が痛いからというのでごまかして

いるといかんのであります。

やっぱり体の姿勢というものが、「 心の姿勢 」というものに互いに影響を与えます。

ちょっと姿勢が違うとラジオセットでもバリコンというところ、ダイアルを廻すあの奥の方にあって

外からは見えんけれども、金属円盤が重ねてある装置がある。あれが、ちょっと位置が変わるだけで

波長が変わるんです。

それで神想観する時には本当に正しい姿勢をもって神想観するということが必要なわけです。

そして神想観してもある人は早く覚(さと)れるしある人は早く覚れない。これはその人の霊魂の

発達の程度だから、仕方がない。

人間の霊魂は、皆 神の霊魂が宿っているんだけれども、皆 出発の時期が違うんですから、

スタートが違うんですね。その人の魂の発達が遅れていると言って低級なという意味で遅れて

いるのではなくて、その霊魂が神から生み出された最初の出発時期が違うんです。


何遍でも生まれ更(かわ)って修行している霊魂もあれば、まだ回数少なくしかこの世に出て

いない霊魂もあるのです。そういう霊魂は他の人が早く覚れても、自分はまだ覚りが遅いというのは、

これは止むを得ないことなんですよ。

しかしこれは最後のギリギリの悟りだなどというものは、それはなかなか誰にも得られない。

最後の一番最高完全な悟りというものが得られないのは、この世界は 「 無限生長の世界 」と

説かれているのでもわかります。

無限生長ということは 幾(いく)ら生長してもまだまだ前途遼遠(ぜんとりょうえん)に生長すると

いう意味であります。

だから、若(も)し、「 もうわしは悟った。これで最後の悟りだ。自分は一番偉いんだ 」と

思ったならば それは一番偉いんではなくて、それは途中で天狗になったというわけであります。

だから悟りにもいろいろな段階があるわけですよ。だけども、ともかくこの自分の本性(ほんしょう)が

神であるということを、本を読んだり、話をきいたりして、知的にでもそれがうなずけるというのは、

既に神なる実相がそこまで現われて来ているからであります。


だからこそ、有神論に反感を覚(おぼ)えずに、

「 成程(なるほど)そうだ。神はある筈(はず)だ。自分のいのちは神から来ているんだ、理論的に

うなずける。」

と、こういう感じが起って来るのです。既に実相がそこまで現われているから、

それを肯定することが出来るのです。

ところが 「 そんな馬鹿なことがあるか。神なんて説くものは みな迷信だ 」 とそういう風に

感ずる人があるとすると、そういう人は まだ実相があらわれていないのです。

そういう人が随分たくさんあるのです。大学教授みたいな学者でも神の存在をみとめられないような人は

実相がまだそこまで現われていないからであります。だから霊的にいうと低いんだということに

なるわけです。


神の存在を知的に理解して分っても、それはある程度 実相が現われて悟っているという

わけなんだけれども、無論 最後の悟りの境地ではない。

そういう人がだんだん神想観もやり、本も読みやっているうちには 「 我(われ)は神の子である 」と

いう自覚を得てですね、本当に何というべきか、法悦というべきか、歓喜勇躍というような状態に

なるときが来るんです。


しかしそれでも、尚(なお)それが最後の境地というわけじゃないんです。

それは最後の境地じゃないんだけれども、そういう状態になって、感情的に、情感的に、

そういう自覚が得られるのは それは知的に把握したよりももう一段深く把握した一層高い心境で、

実相がその程度まで来たということであります。


そういう深い境地は中々文字や言葉ではあらわせぬ。それで禅宗などでは言詮不及(ごんせんふきゅう)

とか不立文字(ふりゅうもんじ)とか言って、文字や言葉では悟りというものを説くことが出来ない、

文字を立てることをしないと言って、音のない声を聞けという訳で 「 隻手(せきしゅ)の声を聞け 」

などとも言いますし 「 まあ坐れ。坐ったら分かるんだ 」 とも言う。


道元禅師も只管打坐(しかんだざ) ー ひたすら坐れと被仰(おっしゃ)いました。



つづく・・・


悟りと神想観 1

2015-05-16 12:23:05 | 今日の光明法語

本稿は『 理想世界 』誌、昭和三十二年十月号に掲載された「 青年哲学講座 」で、

谷口雅春先生が神想観に関連した質問に答えたものです。


谷 口 雅 春  先 生


【 断食修行について 】


司 会  断食修行というものと、霊能の発達とか、悟りとかというものの関係を、

もう少し詳(くわし)くお教え下さいませんか。


谷 口  断食その他肉体を苦しめる修行が霊的方面の発達に寄与するというのは、

肉体の否定、物質の否定というものが、生活の上に実際に行われるから霊的覚(さと)りと

いうものが得られ易(やす)くなるのであります。

このことは実際の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の生活行蹟からみて、そういえるわけなんです。

肉欲をサンザ満足させながら霊能が発達するということはあり得ません。

今でも山へこもって断食をしたり、水行をしたり滝に打たれたりする人もあり、

それによって何らかの覚(さと)りに到達するというような人もあります。

私も断食したことがあるけれども、私は断食したから覚ったというわけでもないけれども、

ある覚りが得やすくなるということは事実です。


しかし皆さんに断食をせよというのではありません。生長の家は 「 苦行は悟りの因(たね)にあらず 」

というので、徒(いたず)らに肉体を苦しめるということが修行にいいのだとはいわれないんだが、

物質を否定する上からいうと、肉体というものを余り楽しませていると、

肉体的欲望という方へ心の天秤(てんびん)が重くおりて来て霊的比重の方が軽んぜられて来るという

ことになりますから、霊的悟りというものは得がたくなるのです。



更にもうひとつ断食修行の弊害というものは、断食すると肉体的精神が減衰するのと逆に、

霊的感受能力というものが過敏になります。

その結果、低級霊もいろいろかかって来ることになり、その場合に正しい指導者がいなかったり、

或(ある)いは修行者自身に正しい強力な守護神がいない場合には、迷ってる霊に だまされる事が

あるんです。

これは釈迦が悟りをひらく最後の直前に悪魔波旬(はじゅん)があらわれたり、

イエスが神の子の自覚を得る直前にサタンがあらわれたりしている。

それを釈迦やキリストはその悪霊の誘惑に負けないで、それが正しい神でないことを知って

「 去れ 」 と退(しりぞ)けているのです。


山に籠(こも)り断食などをしていると、山に浮浪(ふろう)しているような野天狗(のてんぐ)とか

いうようなつまらない種類の霊魂にひっかかったりして、其(そ)の結果、ちょっと位の第六感が

働いて霊眼がひらいて霊の姿や霊界の一部が見えたり、

或いは天言通(てんげんつう)を得たとか言って、「 神様の言葉 」を自分でしゃべるとかというような

境地になる人もあります。


けれども、それは霊的感受力が鋭敏になった結果、一種の霊媒状態になったのであって、

自分の実相が神であるという 実相の神性を覚ったという状態ではないから、

その霊の示すところにだまされて脱線する危険性が非常にあるのであります。

ですから、山へこもって断食水行をするとかいうようなことはしない方がいいのであります。

神は普遍者でありますから、山へ行く必要はない。


悟るためには やっぱり神想観をするのが一番いいのであります。

夜 神想観をする時にはむしろ電灯をとぼしておく方が良いのであります。

それは明るくして神想観をする方が、迷っている霊の霊波というものは

( つまり波長の弱い霊波というものは )光線によってその霊的波動が粉砕されるのは、

恰度(ちょうど)、中波のラジオ波が昼間の太陽の光線で破砕されて遠距離通信が出来ないのと

同じ道理であります。


ところが暗いところで神想観すれば、弱い霊的波動でも粉砕されないから、

低級の霊でも吾々に働きかけることが出来、神想観が純粋に出来ない場合、

低い霊が吾々を欺(あざむ)いて、神様めかしく吾々に働きかけることがあるのです。

低い階級の霊の波動を光に粉砕せしめて人間に働きかけにくい様にするために、

暗がりの中で神想観をするよりも、明るい昼間 又は 夜なら電灯をとぼして神想観をする方がよいので

あります。



つづく・・・



5月の祈り  天之御中主神の御光、宇宙に満ちみちぬ

2015-05-10 10:56:34 | 今日の光明法語
 
生長の家創始者  谷 口  雅 春  大 聖 師


〈 正坐・合掌・瞑目して招神歌を朗誦又は黙誦する。次の如く念ずる 〉


 我れ今五官の世界を去って実相の世界に入る。


 今此処、実相世界である。


 天之御中主神、宇宙に満ちたまう。

 天之御中主神、宇宙に満ちたまう。


 神、光あれと言いたまいければ光あらわれぬ。


 天之御中主神の御光、宇宙に満ちみちぬ。

 宇宙浄化の神、住吉大神顕れましぬ。


 住吉大神、宇宙を浄め給う。  〈数回繰返す〉


 天照大御神、光うるわしく六合悉く御光によりて照り輝けり。

                〈数回念ずる〉

 天照大御神の神霊、人格として顕現したまいて

  歴代の天皇となり給う。

 今、今上陛下となりて天照大御神の神霊、

  全世界を照したまう。


 住吉大神、宇宙を浄め給うて

 迷いの暗雲ことごとく吹き祓いたまう。


 天皇の大御光、天地にあまねく照りわたる。 
     
 〈数回繰返し念ずる〉

 天皇の御光のうちに、すべての生きとし生けるものを

 生かし給ういのちあり。  〈数回繰返し念ずる〉



 われら人類ことごとく天皇の御いのちに生かされてあり。

 有りがとうございます。


 〈数回念じて、また最初の言葉から順次念ずる〉



       『理想世界』誌  昭和45年5月号 より



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祈りがきかれないと言う人に 5

2015-05-07 22:33:11 | 今日の光明法語

【 罪悪意識による自己処罰その他 】


かくて高級霊の人類光明化運動に協力すると言う誓いを立てても、尚、病気が治らないとか、
不幸が去らないとか言う場合には、高級霊が、信者の「 過去の業の波動 」を破摧して下さっても、
あとから、あとからと、自分の心で不幸を起していることもあり得るのである。


それは、罪の観念(罪悪意識)による自己破壊の潜在意識や、他を憎んだり恨んだりする攻撃精神が、
自分に撥ね返って来て、自分を毀傷することがあるからである。
或いは同情を求める心で自分を不幸に陥れていることもある。だから、祈りがきかれない場合には、
自己反省してみて、罪の観念によって自己処罰しようとしていないかをたしかめ、罪を自浄するよう、
実相を観ずる修行をすることが必要である。
( 「 若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念ぜよ。衆罪は霜露の如く、慧日能く消除す。」
仏説観普賢菩薩行法経 )


そして又、自分を不幸の状態にして他から同情されたいとか、いたわられたいとか言う隠れたる感情が
ないかを自己反省してたしかめ、尚もそのような感情があるならば、毅然として独り立つところの
「 神の子 」の尊厳を自覚するように努めなければならない。


これも神想観中に「 独り立つところの神の子なる自分 」を念ずるがよい。
その次には、自己に他を憎んだり恨んだりする感情がないかをたしかめ、若しそのような感情が
あるならば、神想観して心を統一し、その精神統一状態に於いて、その憎んでいる相手を心に
思い浮べて、「 私はあなたを赦しました、私はあなたに感謝しています 」(『 私はこうして祈る 』
参照 )等の言葉を繰返し念じて、その憎みの感情を浄化してしまうことが必要である。
他を傷つけようとする憎みの感情は反転して自己を傷つけるからである。


自己を憎んでいる自己処罰の観念があるならば、「 私は自分を赦したのだ。自分はもう自分を
自己処罰しない 」と繰返し念じて自己処罰の観念を浄化し去ることが必要である。
パウロは「 我れみずからを審判かず 」と言っているのである。自己をあまり審判きすぎることも
不幸を持ち来す原因であり、祈りが成就しない原因にもなるのである。


〈 了 〉




祈りがきかれないと言う人に 4

2015-05-07 22:24:10 | 今日の光明法語

【 唯一最高の宇宙の大神は病気を癒すか 】

宗教家の多くは高級霊と言うような言葉や治病霊媒と言う言葉を使わないで、
その宗教の本尊たる「 唯一最高の宇宙の大神のお蔭 」と言うような表現を用いる。


しかし本当を言えば、宇宙本源の大神は、イエスが「 天にまします父は善人にも悪人にも同じように
太陽を照らし、雨のうるおいを与えたまう 」と言ったように、公平無私で、心の持方が善であろうと
悪であろうと、その恵みの多少に影響するものでないのである。


従って祈った者にだけ“ 病気を治してあげる ”と言うような依怙贔屓(えこひいき)なことはない。
本当を言えば金光教祖が「 信心しないでもお蔭はやってある 」と喝破していられるように、
本源の神は、“ 実相に於いて ”既に十全の恵みを与えていられるのであって、
吾らは“ 実相に於いては ”既に完全無欠なのである。


換言すれば「 始めから治っている 」のである。だから、祈りによって、改善されるのは
現象の不完全さに就いてである。その現象の不完全さは「 本源の実相の神 」がつくり出す訳ではなく、
吾々自身の「 心 」のあらわすところであるから、その心の波長を改善すれば、現象界の不完全は
消えるのである。


しかし今いくら自分が改心し悔改めても、過去に蓄積したところの自分のつくった「 心の波動 」
( 仏教で謂う業(ごう)に当る )が、テープ・レコーダーのテープに私達の声が残っているように、
残っている限りは、依然として悪い現象があらわれて来るし、因襲の久しき自分の現在の心の状態を
一変しようと思っても中々困難な時があるのであるから、「 過去につくった心の業 」や「 因襲 」を、
聖霊又は高級霊によるもっと強力な霊波によって他力的に破摧して貰うよう願うために、
“ 祈り ”が必要となるのである。


これは“ 相手 ”があることであるから、“ 相手 ”たる聖霊又は高級霊の御意に召す心境になることが
必要なのである。( 「 聖霊 」と謂うのは、宇宙の本源神が現象界に働きかけるために現象的にあらわ
れた化身・化仏と解してよい。)


それには、やはり、その高級霊が今 大いに運動しているところの人類光明化運動に、自己も亦献身す
ると言う覚悟を高級霊に表明することが必要なのである。
これが即ち天理教の「 わが身忘れて日の寄進 」の心境であり、「 この病気が治ったら教会をひらかして
頂きます 」の誓いの披瀝となるのである。



祈りがきかれないと言う人に 3

2015-05-07 22:16:02 | 今日の光明法語

【祈りのきかれない場合の心境はどんなものか】


“ 健康になりたい ”とか、富裕な豊かな生活を送りたいとか言うのは必ずしも悪いことでは
ないのである。それは人間の自然的感情であって、心の持方に間違いがある訳ではない。

けれども、もっと根本的に言うと、その健康をその人が何の目的のために求めるか、
又その富をその人が何の目的のために求めるかと言うことになると、其処に多少の問題が
でて来るのである。自分の快適のために‘のみ’自分の安楽のために‘のみ’健康を求め、
富を求めるならば、それは単なる利己主義であるのである。


そのような利己主義の満足のためのみになら、人類救済運動に専心協力している霊界グループの
諸霊たちが、協力してくれるかどうかと言うことが問題であるのである。
天理教などでは神によって病気が治される条件として「 わが身わすれて“日(ひ)の寄進(きしん)”」と
言う標語があって、自分の身の病気を治して貰おうなどと言う“わが身”の利益をわすれて、
神のため 他(ひと)のために 日々に自分自身を、“寄進”し“奉仕”することによって
お蔭が得られるとしているのである。


また瀕死の病人に「 自分のものは一つもありませぬ。みんな神様のものです 」と“心定め”をさせたり、
「 この病気が治ったら必ず人助けのために教会をひらかせて頂きます 」と神に誓わせたりすることに
よって、時には起死回生の奇蹟が起ることがあるのは、“心の持方”が祈りの成就に影響することを
物語るのである。


その心の持方が、治病に興味をもっている霊界グループの或る霊魂に共感を惹起し、
その霊魂の霊能によって病気が治ると言うことが起るのである。
このことは高級霊がその霊波によって人間の運動に修正を加えることの一部分であって、
治病だけではなく、色々の面の運命の修正もまた行われる。
これを信仰方面の言葉では「 お蔭を得る 」と言うように表現されるのである。



祈りがきかれないと言う人に 2

2015-05-07 22:00:21 | 今日の光明法語

【 高級霊界よりのグループ活動としての教団 】


もっとも大きな教団的組織になる可能性のある宗教では一柱の‘ 祭神 ’とか、一柱の‘ 眷族神 ’とか、
一人の教祖の‘ 司配霊 ’とか言うような数少い霊魂だけ働いているのではなく、
高級霊界からの人類救済運動として、それに共鳴する無数の霊魂のグループが霊界からその運動に
参加して協同運動をしている。


その協同運動に参加している霊魂の中には治病能力にすぐれたる霊魂もあるし、
話術指導にすぐれたる霊魂もあるし、悟りに於いてすぐれたる霊魂もあり、
予言や透視能力にすぐれたる霊魂もあり、それらの霊魂が自分の波長と能力とに共鳴する人間を
選んでその人間の守護霊として其の宗教の教師又は布教者に配属せられる。


それは霊界からの人類光明化運動であるけれども、その運動の現実界に於ける統帥の中心は、
教祖又は教主であるから 教祖または教主が、その信者に教師としての資格を与えると、
霊界のグループからも、その資格者に適当な霊能をもっている霊魂が配属せられる。


そしてその教役者の伝道中にも不思議な奇蹟が伴ったりするようになるのである。
イエスの没後に、使徒行伝に録されているような色々の奇蹟が、その弟子たちに起ったのも
そのためである。これは肉体人間であるところの弟子其人だけの能力ではなく、
キリスト教其のものが、高級霊界からのグループ運動であるところの人類救済運動であるから、
各々の弟子達に憑いて、あのような瞠目すべき奇蹟が起ったのである。


しかし教えが幾世代を重ねて、今日に到ると教祖イエスの教えが其の後の誤解釈や
布教者の堕落によって、その運動を護持する「霊界グループ」から見放され、
霊界からの協力運動や援助がなくなってしまったので、現存の教会キリスト教では様式や形骸だけが
残って却っ奇蹟がなくなったのであり、聖書を新たに解釈してイエス時代の原始キリスト教に
引きもどそうとしている新しきキリスト教であるクリスチャン・サイエンスや、
リリジャス・サイエンスやメンタル・サイエンスや、ユニティ・スクールなどでは
却って奇蹟的な治病が往々あらわれているのは、霊界のグループの共鳴を得ているからなのである。


日本に於いても、仏典や聖書の新しき解釈を与えつつある色々の新興宗教が、無数に奇蹟的な霊験を
あらわしつつあるのは、それらの経典聖書の新しき解釈が、現世の唯物論的ジャーナリズムから、
色々の歪曲的な批判を受けながらも、却って霊界の人類救済グループからの共鳴と協力とを得つつある
からだと言い得るのである。この点は注目されて好いことである。


そこで仮りに治病を目的に祈る場合には、実際にその神社なり、宗教なりに於いて治病的な奇蹟が
起りつつあるか否かを観察することによって、その神社の祭神又は眷族神、又はその宗教の運動に
参加している霊界のグループに「 治病に興味をもつ霊魂 」が参加しているか否かを知ることが
必要である。


そして実際に、そう言う奇蹟的治病が行われていることが「 発表された体験談又は治験例 」によって
明かとなっているのに、自分の病気だけが治らない場合には、「 何故自分は癒されないか 」と、
反転して、自己省察にかえることが必要である。
他の人々が治っているのに、自分だけ治っていないのは、何か自分の心の持ち方に間違があるのだと
言わなければならない。そこに其人が如何なる気持で祈ったか、何を祈ったかと言うことが問題になる
のである。




祈りがきかれないと言う人に 1

2015-05-04 15:59:35 | 今日の光明法語

「 祈りがきかれないと言う人に ― 祈りの原理と実際・主として心霊科学的立場から ― 」

『 精神科学 』誌 昭和三十二年一月号  谷 口 雅 春 先 生



【 神社の神霊には個性や能力に差等がある 】

祈りがきかれない場合にはその祈りが正当な祈りであるかどうかと言うことを考えなければならない。
正当な祈りであるかどうかと言う場合に、判断の示標となるものは、

( 第 一 ) 一体、如何なる神に祈ったかと言うことである。
( 第 二 ) 何を祈ったかと言うことである。
( 第 三 ) 如何に祈ったかと言うことである。

此の三つの示標に従って、その祈りが正当であるかどうかを判断すべきことは永久に変らざる真理である。(『祈りの科学』〈日本教文社発行〉参照)


あなたが仮に天満宮に参拝して、その祭神の菅原道真公に「どうぞ私の病気を治して下さい」と
お祈りした場合に、その祈りが必ずきかれるかどうかは疑問である。
菅原道真公は、生前、詩人であって漢詩をおつくりになったのであるから、
「 菅原道真公の霊よ、霊界よりインスピレーションを送り給うて よき詩をつくらしめ給え」と
祈った場合、それがきかれると言うことはあり得る。


併し斯くの如き「 文化 」の神様に「 戦争に勝たしめ給え 」とか、「 病気を癒しめたまえ 」とか
祈ってもその祈りが成就することは難しいと言う方が本当である。
何故なら神社にお祀りしてある神様というのは、菅原道真公の霊魂をお祀りして天満宮と言っているのと
同じように、概ね人間の霊魂をお祀りしてあり、人間の霊魂は、肉体を脱した後は肉体の束縛から
脱するから、生前よりは余程神通力を増すのであるけれども、併しやはり生前の能力や性格を
持ち越して往っているのであるから、それぞれ得意とする能力と得意とせざる能力とがあり、
作詩には巧みであっても戦争に勝つことや病気治しには不得手であると言う霊魂もある訳である。
従って作詩に堪能なる菅原道真公の霊魂に「 戦争に勝たしめ給え 」とか、「 病気を治して下さい 」と
祈るようなことはおよそナンセンスである訳である。



【 日本の神社の本来の意義 】


大体、日本の神社の多くはお蔭信心のために建てられたものではないのであって、
国家及び国民の福祉のために功労があった人の霊魂とか、その誠実なる精神や徳行のすぐれたる人の
霊魂をば、その功績と徳行のゆえに、それを神と崇めまつって神格化して、感謝し尊敬するためのもので
あって、「 病気を治したまえ 」などと祈るための対象ではなかったのである。
それなのに、何時の間にか「 神 」なら何でも頼めばきいてくれそうなものだと言う世俗的な見解から、
病気治しなども神に祈ってきかれると言うような考えが混入したものだと思われるのである。



【 治病霊媒及び治病に興味をもつ霊魂 】

もっとも霊魂のうちには病気治しが非常に上手な霊魂もいるのである。治病宗教の教祖さんなどは
概ね一種の治病霊媒(healing medium)であって、其人(教祖)の司配霊(control)として
其の人と協力している或る種の霊魂が、患者の体内に入って、その故障を霊的に施術することも
あり得るのである。(『生命の實相』第三巻参照)
これなどは医学の否定どころではなく、レントゲンによる深部治療を、尚一層自由に深部に潜入し
得る「 霊 」の放射治療によって一層徹底させた霊的治療術であって、これらを一概に迷信視去るのは、
却って科学迷信に陥っているものだと言うほかはないのである。

霊魂と言うものは縦・横・厚みの三次元的空間の制約に束縛せられてはいないのであるから、
( 密閉筺の中の物品を透視する霊能者のあるのもそのためである )
患者の体内に入ってある操作を行ったり、神経系統に或る種の刺戟を与えて生理作用を活発にしたり
することができる筈である。

従って或る神社の祭神( 又はその眷族 )が治病に堪能な霊魂である場合には、その神に祈れば
病気の治ることもあり得る。だから私は、すべての神社の祭神に治病能力がないと言うのではないから
誤解されないようにお願いしたいのである。しかし神社の神なら、どんな祭神でも祈れば、
病気を治して貰えるように誤解するのは迷信になるおそれがあると謂うのである。

だから神社の神に祈って病気が治らない場合には、一応、その祭神について如何なる神がお祀りして
あるかをしらべて見る必要がある。今まで多くの治病成績をあげている神社や、治病霊媒ならば、
其処に治病に興味をもって、人類をたすけたいと言う念願ではたらいている霊魂がいるのだと考えて
差支ないのである。




「生長の家出現の真意」

2015-05-03 16:41:55 | 今日の光明法語
〈 愛国本流掲示板 〉

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=3042


    昭和38年全国代表者会議御結語

     生長の家創始者 谷口雅春先生


( 一部抜粋 )


・・・何故 生長の家が出現したのか、生長の家の神は住吉大神である。

その住吉大神が、なぜ今ここに、日本の国土にこの時期に顕れ給うたのか。



 そこが非常に大切なところである。『 古事記 』に示される如く、

住吉大神は天照大御神の御誕生の直前に顕われられた。

最後の宇宙浄化の働きとして、宇宙の大神が住吉大神と顕われ給うたのである。



 天照大御神の御誕生とは、日本の実相の誕生ということである。

日本なるものの魂が具体的に宇宙を照らす光となると云うことである。 

この直前に、最後の浄化の働きとして住吉大神が今ここに顕われ給うたという、

ここに生長の家出現の真意があるのである。



 ただ単に、人間は神の子であり、物質ではない。肉体は無い。病気は治ると云う、

それだけの事ではないのであって、天照大御神の光が宇宙に天照らすべく、

天皇陛下の御稜威(みいつ)を発現せしめて、日本の国を救い、世界を救うと云うところに、

生長の家出現の本当の意義がある。


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元東北本部講師

天照大御神御出御の禊ぎ祓いこそが、生長の家の出現の意味である。