皆さんが何か求めるものがあったら、「 神様、何々を与えたまえ 」 と祈るのは、
初歩の祈りで、これは水泳するまでの準備体操みたいなもので、
もう既に与えられているんだけれども、「 何々を与えたまえ、与えたまえ 」 と一心に祈って
心の中で準備体操を終る。
そして 実際、水中に跳び込む行動となる。それが言葉に表現されると、
「 すでに与えられました。すでに私のものです。有難うございます 」 となるのであります。
「 既に受けたり 」 の心境に達したとき、最後に、感謝をするのが好いんです。
それによって、本当に、‘ それ ’がわがものとなるということになるわけです。
このことは、イエス・キリストが、
「 汝ら、祈りて何事にても求むるとき、すでにそれを受けたりと信ぜよ。
すなわち汝はこれを得ん 」と、イエスは言って、教えているのであります。
先ず受けたい‘ もの ’を選ぶ、そのものに心を集注する。
そして 「 すでに受けたり、と信ぜよ 」 です。
そして 「 有難うございます 」 と感謝するのが好いのであります。
『 また吾らに与えられている色々の善き物は、各種類のお酒をつくっている、大きなお酒の
醸造所(じょうぞうしょ)にならんでいる色々の種類の酒樽(さかだる)のようなものです。
それは既に吾々に与えられているんですけれども、吾々はどの酒を選ぶかは自由であり、
しかも自分でその樽の呑口(のみくち)を開かなければ 自分の欲する酒が現象界へは流れ出て
来ないのである。この呑口を開く道が祈りなのであります 』
こういう意味を、『 人生を見つめて 』の本は教えているのであります。
実相の世界には、無数のこの酒樽(さかだる)が並んでいる。
“ 幸福 ”の酒樽、“ 富 ”の酒樽、“ 健康 ”の酒樽、それからねぇ、“ 繁栄 ”の酒樽なんて、
いろいろの名前のついたお酒の酒樽が並んでいるんです。
しかし“ どの酒樽に入っている此のお酒を ”と言って選ぶのは自分自身なのであります。
そしてその祈りによって自分の欲する酒樽から自分の欲する酒を、呑口を開いて・・・
祈りという方法で呑口を開いて、そしてそこから滾々(こんこん)と流れ出るところの
神の恵みの酒を、われわれは頂戴(いただ)くことにすればいいわけなんであります。
ところで、祈るのに、どういう気持で祈るか、ということをもう一遍、二十六頁に書かれて
いることを読んでみます。
【 祈りは魂の教養のため 】
『 何よりもまず祈ることに致しましょう。物を得るために、自分が得になるために、
祈るのではありません。そんな利己的な祈りは神様の御心の波長には合いません。
祈りというものは、そのとき神と交通し、神に全托し、自分が没我(ぼつが)の
(・・・没我とは我を没却(ぼっきゃく)する)自分が没我の状態になることによって、
神の持ちたまえる、色々の素晴しい御徳が自分の方へ流れ込むことによって、
心の貧しき自己が豊かにされ、錆(さび)のついた自己がみがかれ、霊的に高められるために
するものなのであります。
物質的な自分の利益を欲しいという、その慾念が先に立って、その方の水圧が高ければ、
「 祈り 」によって“ 神様 ”と“ 自分 ”との間をつないで見ても、
水は高いところから低い方へながれる、
それだから、心貧しからず、自分の慾念が高まっているならばですねぇ、
そうすると自分の方の水圧の方が高いのですから、神様の恵みは自分の方へ流れ込んで来ないと
いうことになるのであります 』
だからわれわれは 神様の前に我慾の水圧を低くして、没我の境涯(きょうがい)にあらしめて、
“ 我(われ )”というものを没して、そして神の前に低く謙(へりくだ)らなければならないので
あります。
そのことをイエスは、「 さいわいなるかな 心の貧しき者、天国はその人のものなり 」と
仰せられているんですねぇ。
「 さいわいなるかな 心の貧しき者、天国はその人のものなり 」・・・
“ 貧しき者 ”というのは、物質の貧乏のことではない。物質に富んでいる人でも、
心が謙虚である人は、心の貧しき人であって、“ 我 ”の心の水圧が低いのですから、
神の恵みが滔滔(とうとう)と流れ入って「 天国がその人のもの 」となるのであります。
祈りというものは、自分の物慾(ぶつよく)すなわち物質的慾望を神の前に見苦しくも
さらけ出すことではないのであります。
神様の御徳を自分に流し入れていただいて、自分の霊が浄められ、高められんがために
祈りをするのが、“ 本当の祈り ”なんであります。
だから祈るたび毎に皆さんの魂は浄められるということになるのであります。
つづく・・・