☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

“ 正しい祈り ” の入門の話 2

2015-04-26 23:39:54 | 今日の光明法語

皆さんが何か求めるものがあったら、「 神様、何々を与えたまえ 」 と祈るのは、
初歩の祈りで、これは水泳するまでの準備体操みたいなもので、

もう既に与えられているんだけれども、「 何々を与えたまえ、与えたまえ 」 と一心に祈って
心の中で準備体操を終る。

そして 実際、水中に跳び込む行動となる。それが言葉に表現されると、
「 すでに与えられました。すでに私のものです。有難うございます 」 となるのであります。

「 既に受けたり 」 の心境に達したとき、最後に、感謝をするのが好いんです。
それによって、本当に、‘ それ ’がわがものとなるということになるわけです。

このことは、イエス・キリストが、
「 汝ら、祈りて何事にても求むるとき、すでにそれを受けたりと信ぜよ。
すなわち汝はこれを得ん 」と、イエスは言って、教えているのであります。

先ず受けたい‘ もの ’を選ぶ、そのものに心を集注する。
そして 「 すでに受けたり、と信ぜよ 」 です。
そして 「 有難うございます 」 と感謝するのが好いのであります。

『 また吾らに与えられている色々の善き物は、各種類のお酒をつくっている、大きなお酒の
醸造所(じょうぞうしょ)にならんでいる色々の種類の酒樽(さかだる)のようなものです。

それは既に吾々に与えられているんですけれども、吾々はどの酒を選ぶかは自由であり、
しかも自分でその樽の呑口(のみくち)を開かなければ 自分の欲する酒が現象界へは流れ出て
来ないのである。この呑口を開く道が祈りなのであります 』

こういう意味を、『 人生を見つめて 』の本は教えているのであります。

実相の世界には、無数のこの酒樽(さかだる)が並んでいる。
“ 幸福 ”の酒樽、“ 富 ”の酒樽、“ 健康 ”の酒樽、それからねぇ、“ 繁栄 ”の酒樽なんて、
いろいろの名前のついたお酒の酒樽が並んでいるんです。

しかし“ どの酒樽に入っている此のお酒を ”と言って選ぶのは自分自身なのであります。
そしてその祈りによって自分の欲する酒樽から自分の欲する酒を、呑口を開いて・・・
祈りという方法で呑口を開いて、そしてそこから滾々(こんこん)と流れ出るところの
神の恵みの酒を、われわれは頂戴(いただ)くことにすればいいわけなんであります。

ところで、祈るのに、どういう気持で祈るか、ということをもう一遍、二十六頁に書かれて
いることを読んでみます。


【 祈りは魂の教養のため 】

『 何よりもまず祈ることに致しましょう。物を得るために、自分が得になるために、
祈るのではありません。そんな利己的な祈りは神様の御心の波長には合いません。

祈りというものは、そのとき神と交通し、神に全托し、自分が没我(ぼつが)の
(・・・没我とは我を没却(ぼっきゃく)する)自分が没我の状態になることによって、
神の持ちたまえる、色々の素晴しい御徳が自分の方へ流れ込むことによって、
心の貧しき自己が豊かにされ、錆(さび)のついた自己がみがかれ、霊的に高められるために
するものなのであります。

物質的な自分の利益を欲しいという、その慾念が先に立って、その方の水圧が高ければ、
「 祈り 」によって“ 神様 ”と“ 自分 ”との間をつないで見ても、
水は高いところから低い方へながれる、
それだから、心貧しからず、自分の慾念が高まっているならばですねぇ、
そうすると自分の方の水圧の方が高いのですから、神様の恵みは自分の方へ流れ込んで来ないと
いうことになるのであります 』

だからわれわれは 神様の前に我慾の水圧を低くして、没我の境涯(きょうがい)にあらしめて、
“ 我(われ )”というものを没して、そして神の前に低く謙(へりくだ)らなければならないので
あります。

そのことをイエスは、「 さいわいなるかな 心の貧しき者、天国はその人のものなり 」と
仰せられているんですねぇ。

「 さいわいなるかな 心の貧しき者、天国はその人のものなり 」・・・
“ 貧しき者 ”というのは、物質の貧乏のことではない。物質に富んでいる人でも、
心が謙虚である人は、心の貧しき人であって、“ 我 ”の心の水圧が低いのですから、
神の恵みが滔滔(とうとう)と流れ入って「 天国がその人のもの 」となるのであります。

祈りというものは、自分の物慾(ぶつよく)すなわち物質的慾望を神の前に見苦しくも
さらけ出すことではないのであります。
神様の御徳を自分に流し入れていただいて、自分の霊が浄められ、高められんがために
祈りをするのが、“ 本当の祈り ”なんであります。
だから祈るたび毎に皆さんの魂は浄められるということになるのであります。


つづく・・・




“ 正しい祈り ” の入門の話 1

2015-04-13 22:34:43 | 今日の光明法語

“ 正しい祈り ” の入門の話  谷 口 雅 春 先 生

『 白鳩 』 誌  昭和五十五年三月号より


【 祈りは何故必要でしょうか 】

今月は私は 『 人生を見つめて 』 という本をテキストにして “ 正しい祈り ” の入門の話を
しようと思うのであります。

まず二十四頁を読みながら話したいと思います。
「 祈りは何故 必要でしょうか 」 という項(ところ)です。
単に読むだけではなく、話しかける調子で、物語りたいのです。

『 祈りというものは懇請(こんせい)でも懇願(こんがん)でも
泣訴(きゅうそ・泣いて訴える)でもないのであります。

既に実在の世界に於いて存在するところの 「 善(よ)き物 」 を心と言葉によって
「 呼出す 」 ことであるのです。実在の世界には全ての 「 善き物 」 は既につくられて
存在するのであります。

この事はイエスの “ 主の祈り ” に「 御意(みこころ)の天に成るが如く地にも成らしめ給え 」 と
ある聖句が、“ 天 ” 即ち 実在の世界には全ての善きものが既に成就しているということを前提にして、
その善きものを“ 地 ” 即ち“ 現象界 ”にも実現せしめ給えと祈るのだという意味であります。

それは神なる「 父 」の両手に、どの息子(むすこ)又はどの息女(むすめ)からでも、
「 欲しい 」と言葉で呼びかけるものがあるならば、それを与えようと神が既に準備して
握っていられるところのものであります。

‘ それは既にある ’。併し、それは既にある「 善き物 」のうち自分は何を選ぶかを定め、
それに呼び掛けなければ与えられないのです。

実在界に既にある「 善き物 」は 現象界から観れば一種の「 可能性 」である。
併しそれは実在界から観れば「 既にある 」のであります 』

既にそれらは‘ ある ’んです。聖書には“ 神は求むるに先だちて無くてならぬものを知り給う ”と
あります。それは恰(あたか)も吹き込みずみの録音ずみのビデオテープ又は録画ずみの
ビデオテープみたいなもので、既にたくさん準備して、どれを上演しようかと待ちかまえて
有(も)っておられるんです。沢山(たーくさん)に。

だけども「 時間・空間 」というパイプを通して出て来るのには、その沢山(たーくさん)あるテープに
吹き込まれている声や光景が一遍にそのテープから出て来るわけにはいかないんです。

だから、どれから先にその録音又は録画テープを再生機械にかけるかという選択が
必要なわけであります。それは、自分の選ぶものを心に念じ、言葉によって呼びかけ、
あるいは心の想い・・・によって、または、念ずるということによって呼びかけるんです。

それで既にある実在界から“ すでにある恵み ”が、そのパイプを通して ― 時間・空間の
再生映写幕を通して ― 現象界の場面に順々に出て来るということになるわけなんであります。

それですから、『 人生を見つめて 』という本には、こんな喩(たと)え話が書かれているのであります。


【 すでに‘ ある ’恵みを呼び出すには 】

『 或る美しい少女が或る青年に恋をしました。青年もまたその美しい少女に恋をしていました。
こうした場合、その「 恋は‘ 既にある ’ 」のです。しかし、青年は、その美しい少女に
手紙をやることも、恋を言葉で語ることも遠慮していました。

美しい少女は、青年が結婚を申込んでくれることを待っていました。
けれども、ついに青年は申込まなかったのです。
美しい少女は絶望しました。そして父母が“ 此処へ嫁に行け ”と言うところへ
已(や)むを得ず嫁にいってしまったのであります。

実相の世界に既にある「 善き物 」はこの「 美しい少女 」と同じことで、
貴方(あなた)のところへ行きたくて待っているのです。

しかし貴方が言葉でハッキリ求めなければ、折角あなたのものになろうとして待ちかまえて
いる「 美しい少女 」もあなたのものにはならないのと同じように、あなたは既に属する「 善き物 」も
あなたのものとしては現実にあらわれては来ないのであります。

実在界(実相の世界)に既に与えられているものも言葉で言いあらわす必要があることは、
この喩話(たとえばなし)によってでも明かなのであります。

既に与えられているものを言葉で、「 それは私のものです 」とハッキリ言いあらわすのが
“ 本当の祈り ”であります 』

それを言葉で言いあらわさなければどうなりますか?
もしあなたが、「 これは私のものです 」と言いあらわさなければ、他の人が取ってしまうのです。

百人一首のカルタ取りみたいなもんですねぇ。
既に与えられて眼の前に並んでいるんだけれども、それを言葉で言いあらわして、
自分が手を出して取る、そのときですね、本当にそれが自分のものになる時です。

『 既に与えられているものを言葉で、「 それは私のものです 」とハッキリ言いあらわすのが
本当の祈りであるのである。だから誰でも・・・何人(なんぴと)でも皆 祈らなければならない。

而(しか)もその祈りは「 それを与えて下さい 」と祈るよりも、もっと適切なのは
「 それは私のものです 」とハッキリと肯定することが正しい祈りである 』 というわけです。


つづく・・・



『谷口雅春先生を学ぶ会 第3回全国大会』の広告が産経新聞(4/11)に掲載されました!

2015-04-11 15:13:46 | 今日の光明法語






【 申し込み用紙 】

http://manabukai.org/dcms_media/other/%EF%BC%93zenoku.pdf


「 生長の家 」 創始者・谷口雅春先生を学ぶ会
第 3 回 全 国 大 会

住吉大神の全身全霊として
救いの渦を巻き起こそう!

一人一人が真理の光となって、
家庭光明化・地域光明化に立ち上がろう!

日時 4月26日(日)午前10〜午後4時

会場 明治神宮・神宮会館

奉納金 3000円(弁当代別、弁当代600円)

テキスト 新編 『 生命の実相 』 第12巻・13巻 ( 生活編 )

連絡先 谷口雅春先生を学ぶ会

TEL 03-5829-6410

FAX 03-5829-6411

ゲスト講師として、呉善花(オ ソンファ)氏のご講演があります。

参加には受講券が必要です。(事前のお申し込みをお願い申し上げます)

※中学生以下奉納金不要。弁当代実費。

※親子室があります。お子さんと一緒にご参加ください。


「 吾ら皆集まって 世界平和の祈りを致しましょう 」

2015-04-08 19:13:31 | 今日の光明法語

「 吾ら皆集まって 世界平和の祈りを致しましょう 」  谷口雅春先生

『 理想世界 』 誌 昭和五十五年六月号




『 人生を見つめて 』という本の三十五頁に次のような重要な事実が書いてあります。


【 暗黒な感情の精神の波はどこへ行くか 】


「 あなたが腹を立てたり、憎んだり、争ったり、詛(のろ)ったり、怨(うら)んだり、

およそ悪い感情を起したときには、その精神の波はどこへ行くと思いますか。


それらの破壊的な精神の波は決して消えてしまうことなく、宇宙のどこかへ散って

行きます。それは水蒸気が散って行くけれども、決して消えてしまうことがないような

ものです。


心の力というものは一種のエネルギーでありますから、エネルギー不滅の原則に従って

それは決して消えることなく、ただ一時どこかへ散って行くだけなのです。

それらの怒り、憎み、嫉妬(しっと)、反感、呪(のろ)い等の念波(念ずる心の波)は

水蒸気が散って行くように散っては行くが、水蒸気が或る上空に達するとそれが互いに

類をもって集まって雲となるように、それらの害悪争闘性の破壊的精神の波動は、それが

互いに類するがゆえに一大雲峯(うんぽう)(雲の峰(みね))の如くなって団結します。


吾々の住んでいる地球は一定の軌道(きどう)を通りつつその争闘性の(闘いの性の)

破壊的一大精神雲峯に段々近づいて行こうとするのです。

それは地球が雲に近づくのではなく、雲が豪雨(ごうう)となって地球にぶつかって

くるように、その目に視(み)えない破壊性の精神雲峯が或(あ)る飽和状態以上の

呪いの密度になると、具体的な或る破壊力となって地上に降りそそぐのです。

それが原爆と具体化し、水爆と具体化して来るのです。


原爆、水爆は人間の科学的発明ではあるが、それが破壊力となって人類に注がれるのは、

原爆、水爆を使用する人間が此の巨大な破壊性の精神雲峯に巻き込まれた時なのです。

これを避けるためには、此の眼に見えない星雲のような」(P36七行目、下から十五語目)

われわれの憎しみ、争い、憤怒(ふんぬ)、呪い、嫉妬、反感、怒りというような、

そういうわれわれの心の波動が集まって一大精神雲峯となっているその巨大な破壊性の

精神的雲峯を、愛のわれわれの祈りの波によって消してしまわなければ、世界から、

恐るべき原爆、水爆の戦いを避けることはできない、ということになるのであります。



【 世界平和の祈りの集団的実修が必要 】


こういう訳ですから、われわれは、特にわれわれ生長の家の同志は、「 世界平和の祈り 」

というのを、毎日、神想観という観法(かんぽう)実修のつづきに行(や)ることになって

いるのであります。



【 世界平和の為にどのように祈るか 】


「 即ち吾々ができるだけ憎悪(にくしみ)、排斥(はいせき)、憤怒(はらだち)、

呪詛(のろい)等の反対感情たる愛の感情を起すことをつとめ、

一定の時刻を定めて同志相集まり、(集まれない場合には自分の自宅でもいいけれども)

同一の時刻に、『 神の愛が全地上に満ちみちて、一切の愛の反対感情はそれによって

消し去られているのである。すべての人類と民族とは悉(ことご)く神の愛を身に受けて

互いに相愛し合っているのである。今よりのち、怒り憎み呪い争いあることなし』と)

(P.36 )こういう祈りをするように実行したいと思うのであります。


すでにわれわれはそれを実行しているのであります。

皆さんもそれを実行して下さい。もう一遍この祈りの言葉を朗読します。


「 神の愛が全地上に満ちみちて、一切の愛の反対感情はそれによって消し去られて

いるのである。すべての人類と民族とは悉(ことご)く神の愛を身に受けて互いに

相愛し合っているのである。今よりのち、怒り 憎み 呪い 争い あることなし 」


こういうように何遍もこの言葉を心で繰り返して念じて、そして神の愛が実際に宇宙に

満ちみちて、憎み争い恨み呪い等の波を、消していきつつある有様を具体的にじーっと

観ずるようにすると、いいのであります。


これは、人類愛のためのわれわれの協同的祈りでありまして、この祈りをする

ことによって、人類の平和が速やかに来(きた)る ー“より速やかに”―

普通来(く)るよりも“より速やかに”来(く)ることになるのでありまして、

同時にこの世界平和の祈りによって自分の病も癒されるということになるのであります。



【 世界的人類的大目的の為に祈る功徳 】


われわれが祈る時に、この人類的な宇宙的な大目的のために祈りますと、そうすると

神の力が自分を媒介として流れ入る時に、目的が大きい目的であると、

大いなる力となって流れ入るのであります。


それは、恰度(ちようど)、電気の流れが、・・・目的が大きいものへ送電の

ワイヤ(線)をつなぐと、沢山(たくさん)の電流が流れるのと同じことであります。

ストーヴでも、五○○ワットのストーヴへつなぐとですねぇ、それだけに必要な電流しか

流れない。それでそれを、一キロワットの電気ストーヴにスイッチを入れると、

その電線には一キロワットに相応(ふさわ)しいだけの強い電流が流れる。

さらに二キロのストーヴに線をつないだらですねえ、そしたら二キロの電気ストーヴを

温(ぬく)めるのに必要なだけの電流が流れる。


で、われわれは、ちょっとした病気を癒す祈りをしたら、

病気を癒すほどの小さい神様の生命(いのち)の流れしか流れ入らないということになる。

ところが、「 世界平和の祈り 」であるとか、“ 人類のためになる ”祈りであると

いうような祈りをしますと、そういう世界的とか「 人類 」という大きな目的に対して

吾々が愛念を実行するとき 神様の生命(いのち)が流れるもんですから、

それに伴ってわれわれの病気は(個人の病気ぐらいの簡単なもんですから・・・)

速やかに癒(なお)るということになるのであります。

病人は自分の“ 病気 病気 ”と、“ 病気を治そう ”という小さな目的だけを思わないで

こういう偉大なることを目的とする祈りをすると、却って病気が速やかに癒る、という

事実も出てくるわけであります。




つづく




【 定時の祈りと随時随所の祈り 】


ところで、この祈りというのは、一定の時間の祈りと、それから随時随所で行なう祈りと

いうのとがあるのであります。

神想観といって、われわれの生長の家のグループの人達が実修しているのは、

私の時間は 朝五時十分から三十分間、それから午後八時半から三十分間実修している

のです。私と一緒に、その時間に念じたい人は、その時間に念じてもいいのであります。

それは、互いに念波の共鳴を起して、それだけ祈りが増幅され易いということになる

わけであります。


【 随時随所の祈りはこう念ずる 】


ところで、その一定の時間でなしに、随時随所で行(や)る祈り、これは一寸(ちょっと)

した休憩時間であるとか、仕事の切れ目の煙草(たばこ)一服(いっぷく)の時間である

とか、台所の一寸した暇(ひま)に、目をつぶって静かに息をととのえて、

このように念ずるといいと思うんです。

その祈る言葉は、『 人生を見つめて 』という本の三十七頁に書かれているんです。


「 吾れ心を空しくして、神の御心に従い奉る。神の御心をわれに現わし給え 」

こう、二、三回念ずるんです。


もう一遍、憶(おぼ)えるために言いますと、

「 吾れ心を空(むな)しくして、神の御心に従い奉る。神の御心をわれに現わし給え 」



【 心を空しくする事が何故必要か 】


右の如く、二、三回念じまして、神様の御心を一心に心の耳で、ジーッと耳を澄(す)ま

して聴く気持になるんです。“ 吾、心を空しくして ”という事が必要であります。


何か問題を引っ提(さ)げて「 此の問題を神様どうしたらよろしいか、神様 御心を示し

給え 」という事になりますと、どうしてもやっぱり「 我 」の考えが入って来るのです。


そして自分の斯(か)くありたいという願いが、神様の返事の如く思い浮かんで、

実は自分自身の潜在意識の囁(つぶや)きを、それを神様の啓示の如く、思い間違うと、

いうことが往々ありますから、そこで自分の「斯(こ)うありたい」という思いを捨てて、

「“ 吾れ心を空しくして、神の御心に従い奉る。神の御心をわれに現わし給え 」

こう祈って、そこで神様に全托する気持になるということ、これが必要なわけであります。



【 神に全托したらこうなる 】


こうして神様に全托したら、神は無限の智慧であり、無限の力であり、

無限の愛であるから、悪いことが出てくる筈(はず)がない。

きっと「 神は祈るに先だちてなくてならぬものを知り給う 」と聖書にあるように、

自分のなくてならぬものを教えて下さる、ということになるわけであります。


「 自分 」が零(ゼロ)になって受身になることが、祈りのときの本当の正しい気持なので

あります。そして神様の御心に一心に聴き入る気持になるんです。


それを短時間二、三回唱(とな)えるだけでも、あるいは二、三分間、念ずるだけでも

よろしい。その位の時間ならば、どんな台所仕事をしておっても、

ちょっと電車に乗った時でも、煙草一服の時でも、できるということになるのであります。

それでこういう祈りの急所、こういう神想観のコツは、雑念を起さずに

自分のうちにまします神様の御心にジーッと聴き入る気持になることがポイントなんです。


短時間の神想観というのは倦(あ)きて来ませんから 雑念が却(かえ)って湧いて

来ないんです。

「 吾れ心を空しくして神の御心に従い奉る。神よ、吾に神の御心を示し給え 」―

これ位の言葉を唱えるのは、それを五、六回唱えたり二、三回唱えたりするのは、

これは極(ご)く簡単です。簡単ですけれども、“言葉の力”というものは、

われわれの潜在意識に入って、そして潜在意識が宇宙意識を動かして、

そして自分の希望するものを実現して呉(く)れると、いうことになるわけであります。



【 「 完全な祈り 」 というものは? 】


ところで、「 完全な祈り 」というものは、問題を引っ提げて神様に

「 斯(こ)うして欲しい 」というのではないんです。― 尤(もっと)も、

そういう祈りが必要なときもある。だから、別段それは悪いというのではないのです。


けれども、本当に完全な祈りというものは、神様と一体(ひとつ)になってしまう。

自分がなくなって ー 「 我(が)」が無くなって、そして神様と一体(ひとつ)に

なってしまうことです。

神様の御心の中には全然悪はない、不幸はない、病気はない。

そうすれば、神様と一体(ひとつ)になれる。


「 先ず神の国と神の義を求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし 」、と聖書の中で

イエスが教えられたように、自然に善いものが出てくることになるわけであります。



【 神様に自分の願いを申し上げる祈り 】


しかし、神様に、こちらからわが希望を申し上げる祈りも、人は或る心境においては、

別に悪いということはないのです。魂がまだそこまで発達しない時には、赤ん坊が

お母ちゃんに祈るように、お母ちゃんに頼むように、

「お母ちゃん、これ頂戴(ちょうだい)」

と素直に祈るといいんです。

「お母ちゃん、これ頂戴」と、幼児(おさなご)がおねだりする。それは純粋な感情で

あって、その純粋な信頼の感じの中には、それは“もうきっとお母ちゃんは下さる”

という、そういう予期(よき)作用というか、全き信頼の期待が必ずあるのです。


で、皆さんの祈りもこの幼児の祈りのように、「 神様、これ頂戴 」と祈るんだったら、

“ 必ずそれは与え給う ”ということになる。


幼児が母親を信頼しているのと同じような信念をもつということが必要です。


だからイエスは、こう仰言(おっしゃ)っている ー


「 もし芥子種(からしだね)ほどの信だにあらば、此の山に動いて海に入れと言うとも

必ず成らん 」と、こう仰言っているんです。「 もし辛子種ほどの信だにあらば 」です。

信だにあらばで“ 信 ”がなかったら駄目です。


それで「 神様、これを下さい 」と念じたら、“ ああッ、これはもうすでに・・・

この祈りは効(き)かれたのである!”という素直で純粋な信を、もつことによって、

山をも動いて海に入るというそういう・・・表現のように、われらの希望がどんな大きな

希望であっても実現する、ということになるわけであります。



            ( 了 )





静かに坐して実相を観(み)よ

2015-04-05 18:21:28 | 今日の光明法語

神を知り、神の無限供給と連繋(れんけい)しさえするならば

富は 自然に流入するのである。


と云うと 神は「 外にある無限力者 」 だと思うかも知れないけれども、

神は一切所に充ち満ちていられながら、 「 わが内に 」 その表現の意識的中心があると云うことが

分かるならば、吾々は、外界の事情や、他の人々のはからいで、自分の幸福が奪われたとか、

出世がおくれたとか、儲かる筈(はず)が損になったとかは 決して考えないのである。


静かに坐して 神の完全なるを観ぜよ。

そして神の無限の愛と智慧と、無限の供給とを観ぜよ。

観ずる程度に従って 実相の円満完全な相(すがた)があらわれて来るのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年七月号  十八日の法語  谷 口 雅 春 先 生 


〈 了 〉



神なる無限供給の源泉と連絡せよ

2015-04-05 18:03:46 | 今日の光明法語

神は 万物を生み給うた。

それゆえに神は無限の富の源泉であり、貯蔵庫であることが判るであろう。


神御自身では天然現象のような受動的な無意識的な大まかな運動や構成は出来るのであるが、

意識的な発動的創造の中心は、神が人間として現われてのみ出来ることになったのである。


神は無限の富の源泉であるから、

人間はその無限の富の意識的表出口(あらわれるでぐち)だと云うことが出来るのである。

だから人間を神の子だと云うのである。


神の子たるものが、貧しく生活しなければならぬなどと云うことは 実際あり得ないことなのである。

汝(なんじ)が貧しいのは 神の真意を知らず、神と人間との連絡を汝自身で断ち切っているからである。



『 生長の家 』 昭和二十六年七月号  十七日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





そのままの心でおれ

2015-04-04 19:56:01 | 今日の光明法語

肩に力を入れないこと。力む心を捨てよ。構える心を捨てよ。

急ぐ心を捨てよ。遮二無二(しゃにむに)する心を捨てよ。焦る心を捨てよ。

負けまいと思うな。かたよるな。そんなに鯱鉾(しゃちほこ)ばるな。


何一つ悪いことは 神の世界に存在しないのである。

力むと可(い)かんぞ。あせると可かんぞ。

心を弛(ゆる)めい。身体を弛めい。


その儘(まま)だ。そのままの心になるのだ。

神に委(まか)せ切りの心になるのだ。


神の創造(つく)り給いし世界には 何一つ悪いものはないのだ。

そのままでおれば 水は澄み切っているものを、そのままの心を失うがゆえに、

その心の反映として 万事が波立って見えるのだ。



『 生長の家 』 昭和二十六年七月号  十六日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





月が円満なるが如(ごと)く人間は円満なり

2015-04-02 19:37:13 | 今日の光明法語

この世界は 愛の神の造りたまえる世界であるから、

そんなに争闘の満ちている世界ではないのである。


吾々は 決して外界の誰とも戦っているのではないのである。

吾々の戦っているのは 自分自身の心に対してである。


自分自身の心を克服することによって 外界が克服されるのである。

この世界は 神の創造し給(たま)える世界であるから 悪いことは何一つ存在しないのである。


それはたとえば円満なる満月の如くである。

それが曇って見えるのは、満月そのものが曇っているのではなく、

雲が曇っているのを 月が曇っていると間違えているようなものである。


実相は永遠に曇らないのに、人間の心が曇って 実相が曇ったように見えるに過ぎないのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年七月号  十五日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





ただ善事のみ数えよ

2015-04-01 15:21:29 | 今日の光明法語

人が自分に対して行った過ちを数えあげるな。

小さな過ちを廓大(かくだい)鏡で見て 増大するような事を避けよ。


善事はどんな小さな事でも これを廓大(かくだい)して見、そしてそれを賞(ほ)め語れ。

さらば他の人々も諸君の過ちを見のがし、諸君の善事を看過(みのが)さないであろう。

それが心の法則である。


他人に辛(つら)くするときは 自分も 亦 辛くせられ、

他人に寛大である者は 自分も亦(また)寛大に取扱われるのである。


人が自分に対して冷酷だと思う者よ。

他を怨(うら)むまでに、自分が他に対して冷酷でなかったかを反省して見よ。

そして今まで批難していた人々を赦(ゆる)せよ。



『 生長の家 』 昭和二十六年七月号  十四日の法語  谷 口 雅 春 先 生