☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

独創の個性ある価値を生出(うみだ)すには

2016-02-27 21:50:08 | 今日の光明法語

すべての善きものは内部から生れます。内部から生れないものは
すべて形骸(けいがい)であり、模倣であり、ニセモノであり価値なきものです。

内部とは自分の生命です。“ 自分の生命 ” とは “ 神の生命 ” です。
神の生命は 無限内容をもっているのですから、重複を厭(いと)うのです。

模倣には 同じものが幾(いく)つも出て来ますが、
内部生命から出るものは 同じものは二度とありません。

すべての行動を内部生命から出すとき 独創的なものとなり、
内部生命は 普遍生命とつながっていますから、独創的であると同時に
普遍的なものがあり、人類全体の理解と共感とを得(う)るのです。

では 内部生命から、独創的なものを生み出そうと思ったならば、
内部生命に深く沈潜(ちんせん)して、その無限の中から
自己の個性に適する独創のものを引出して来なければならないのです。

その沈潜の最良の方法が 神想観であります。

新版 『 幸福を招く365章 』 ( 49頁~50頁 ) 谷 口 雅 春 先 生




抽籤(ちゅうせん)による法語

2016-02-26 20:04:30 | 今日の光明法語

『 幸福を招く365章 』 の 「 はしがき 」 において、谷口雅春先生は、
「 若(も)し、あなたの生活に 何等(なんら)かの困難な問題が起って来たときには、
この書の どの頁(ページ)でも抽籤(ちゅうせん)でもするつもりで開いて
其(そ)の頁を読んで下されば、必ずその問題を解決するヒントが得られると思う。」 と
お書きくださっております。

さっそく本を開いて抽籤して見ました。

以下、抽籤による法語を謹写させていただきます。

【 奴隷でない者は 外界を心で支配す 】

吾々が現象に とらわれている限りに於(おい)ては、吾々の幸福は、
外界に振廻(ふりまわ)されているところの果敢(はか)ない存在である。

外界に自分の都合(つごう)のよい事が あらわれて来ると幸福感を味わい、
外界に自分の都合の悪いことが あらわれて来ると不幸に感ずるのである。

このような状態にある人間は まだ自主独立性のある人間と云(い)うことが出来ない。
それは ただの外界の奴隷に過ぎないのである。

自分が自分の主人公である人間になるためには、外界は内界(即ち心の世界)の影で
あることを知って、現象に不幸があらわれているときにも、それを過去の心の影で
あるとして心に止(とど)めず、常に心に光明(こうみょう)を描(えが)いて、

心の力によって将来に幸福を創造して行(ゆ)く人に ならなければならないのである。


『 幸福を招く365章 』 ( 新版148頁、旧版137・138頁 ) 谷 口 雅 春 先 生


>問題を解決するヒント

>自分が自分の主人公である人間になるためには、外界は内界(即ち心の世界)の影で
>あることを知って、現象に不幸があらわれているときにも、それを過去の心の影で
>あるとして心に止(とど)めず、常に心に光明(こうみょう)を描(えが)いて、
>心の力によって将来に幸福を創造して行(ゆ)く人に ならなければならないのである。

ありがとうございます。 合掌 再拝。





【総本山境内地内ヒルクライムについて】良識ある行動を求めます / 谷口貴康先生

2016-02-24 16:13:25 | 今日の光明法語

http://blogs.yahoo.co.jp/tachiyan50/33271420.html

2016/2/24(水) 午後 0:12

 信仰に無関係なオフィスである国際本部周辺でで自転車競技に興ずることは
別に異論はありません。頭でっかちなお宅の様な人達はたまには汗でもカクことは
良い事でしょう。ただ環境問題を考えれば、マラソンか競歩の方が格段に良い事は
言うまでもありません。金属を加工する事は環境に負荷がかかるからです。

 さて、最近になって驚くべき話が伝わってきました。信仰の中心とされる総本山の
境内地内において、自転車競技をするという事なのです。大鳥居をスタートして
東雲台を登りさらに奥津城までを走破するという事のように聞きました。
驚きと悲しみの後に、ふつふつとして怒りがこみ上げてきました。

 私は総本山建立前よりこの地に住み込み、谷口雅春先生の全身全霊をかけた最後の
お仕事に奉仕してきました。全国から多くの信徒の方たちが熱き思いで参集し、
献労して落慶の日を迎え、そしてその後も多くの人達が魂の故郷として

「 谷口雅春先生 !! 只今 帰ってまいりました・・・ 」

と大鳥居を通過するところで涙を流し、谷口家奥津城においては尊師の願いを
継承する力を与えたまえと祈り、次の行動する力を蓄えて各地に帰っていく事が
幹部信徒の第一とすべき心得として何十年という歳月続けられていたのがこの総本山です。

 奥津城のある場所は、谷口雅春先生が輝子先生と共に数回山を登り定められた場所であり、
最後に上られた時は険しい山道を車いすの脇にかご担ぎの様なパイプを通して四隅を
荒地・松下・岩本・菅原という当時若き職員が担ぎ登ったことを思い出します。
奥津城を囲む山々に七つの燈台を計画されたのもこの時でした。

 私がこの総本山を下山してはや10年の年月が流れました。
総裁が三代目となり、信じがたき様々な変化がありました。歴史と伝統はまるで
忘れ去られるように原宿の本部は解体され、龍宮住吉本宮には幽の幽なる神である神を
新たに勧請するという考えられない不可能な事を行ったと吹聴する教団となり、
そのことあるたびに私は谷口雅春先生はどのように御感じになられるのかを祈り聞きました。

「 ならぬものはならぬ 」

この短いお言葉が心に響いてきました。私が長崎の地を離れないのは、
常に谷口雅春先生のお心を忘れてはならないという強い思いがあるからです。

どうか心ある本部職員、そして幹部信徒のみなさん。
谷口雅春先生は晩年このようにお話になられていました。

「 私に会いたいと念願する信徒の人は、直接会えない時があってもこの総本山こそが
私自身の想いを現したものであると知って下さい 」

総本山をヒルクライムなどという自転車競技の場所にするようなことを拒否していただきたい。
服装を整え、感謝のコトバを唱えながら奥津城へ上って下さい。徒歩でも走ってでも結構。
奥津城には心を整えて参拝していただきたく谷口家の一員として強く要望します。
 






その北条時宗を去れ!

2016-02-24 15:20:15 | 今日の光明法語

鎌倉時代に“ 元寇(げんこう)の役(えき) ”で、日本を属国にしようと
攻めてきた “ 元寇 ” を断々呼として退けた勇将が、北条(ほうじょう)
時宗(ときむね)であります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

“ 自分 ” を超えよ ― 祖元禅師と北条時宗 ―

時宗は、自分の柔弱(にゅうじゃく)な性格を改めたいと思って、
わざわざ宗国(そうこく)から祖元禅師(そげんぜんじ)をおむかえして
教えを受けられたのであります。その時、時宗は、

「 わたしくしの最大の悩みは、自分の性格が柔弱なことであります。どうしたら
この性格の欠点を改めることができますか? 」

とおたずね申し上げた。すると、禅師は、

「 そんなことは何でもない。その柔弱な性格が どこから来るか。
その‘ もと’をたずねて、その‘ もと’を断(た)てばよい 」

と答えられた。時宗は そのとき、

「 その ‘ もと ’ が どこにあるか私には分かりません 」

と言うと、

「 お前の名前は 何といったかね ? 」

と禅師は問われる。

「 北条時宗です 」

「 その北条時宗を去れ ! 」

と禅師は一喝(かつ)された。ここに時宗は、ハッと気がついたのである。

“ 時宗 ” が “ 時宗 ” をにぎっていて、 “ 自分 ” というものを
忘れることができない。自分のいのち、自分の利益、自分の幸福、
自分の名誉・・・・・・等々、いつも “ 時宗 ” がついてまわっているから、
大胆勇敢に事を処することができないのである。

「 どうしたら、この時宗を去ることができますか? 」

と時宗がきく。

「 “ われ在(あ)り ” という念(おも)いを断つのだ 」

「 どうしたらその “ われ在り ” という念いを断つことが出来ますか? 」

「 ひたすら静坐し神想観して身心を静かならしめる修行をせよ 」

「 政治の事がいそがしく神想観に はげむ時間がほとんど無いのでございまする 」

「 一切の事務、一切の仕事、そこが道場だ。その道場に坐って、北条時宗が
今仕事をしているのではない。神が自分を通して仕事をしていて下さるのだと
思って仕事をするがよい。

それが 時宗を去る道である。時宗が無くなり、神のみがそこにある事がわかれば、
もう怯懦(きょうだ)の心も、柔弱な性格もない 」

と教えられた。

それから愈々(いよいよ)元寇の時が近づいた頃、弘安(こうあん)四年正月、
時宗が円覚寺(えんがくじ)に祖元禅師をおたずねすると、
禅師は 「 莫妄想(まくもうぞう) 」 の三字を大書して時宗に与えられた。そして、

「 春夏の候、博多に重大事が起こる。 莫妄想、莫妄想 」

妄想を断てといわれたのだ。元寇のことを予言せられていたのであった。
そしてその年五月、いよいよ元が十万の大軍をもって押し寄せて来たのである。

その報をきくと、時宗は円覚寺に祖元禅師をお目にかかった。禅師は、

「 驀直(まくじき)に向前(こうぜん)せよ。更に回顧すること勿(なか)れ 」

と教えられた。驀直とは“マッシグラに”ということだ。向前とは前に進むことだ。
回顧すること勿れとは、 「 背後の橋を断ち切って、背水の陣を布(し)いて
将軍 時宗なく、神のみがある、ここにあるのは神が前進するのだ 」 と思って進め
という意味であったのである。

こうして時宗の自覚が高まると共に 大自然もそれに感応(かんのう)ましますということ
になり、折からの台風の襲来と共に、さすがの蒙古軍を撃滅することができたのであった。


『 子供と母の本 』 ( 70頁 ~ 73頁 ) 谷 口 雅 春 先 生





富とは 愛と智慧と生命との結晶である

2016-02-23 20:15:08 | 今日の光明法語

>心の世界に無限の富を実現するには、神想観に及ぶものはないのであります。
>何故(なぜ)かというと、神想観に於(おい)ては、吾々は心の中(うち)に
>「 神の無限の 愛と智慧と生命と供給 」 とを 今 現実にあるように、
>観(かん)じて心に はっきりと描(えが)くからであります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「 人のためになろう 」 という考えは 「 愛 」 でありますが、
ただ たんに 「 人のためになろう 」 と考えるだけで、どうしたら
ためになるのか わからない。それでは何(なん)にもならないのであります。

そこで富というものは、たんなる 「 愛 」 だけでは駄目であって、
「 愛 」 を実践する 「 智慧 」 が ともなわなければならないのであります。

大体 「 富 」 というものは 「 物質の蓄積 」 ではないのでありまして、
「 ためになる智慧 」 が具象化したものであります。

「 ためになる 」 即ち 愛と、そのための智慧と ― この二つの精神的存在が
形の世界に具象化した現象にすぎないのであります。

もっとも それを具象化さすためには、 「 生命力 」 が加わらなければ
ならないのであります。「 人のためになるよい智慧 」 を考え著(つ)いて、
どうすればいいということがわかっただけで、ただ寝ころんでいるだけでは、
その智慧も愛も 形に現(あらわ)れては来ないのであります。

それを形の世界に現(あらわ)すには是非(ぜひ)とも生命力を働かせることが
必要なのであります。愛と智慧と生命力が加わる、するとそれが具象化して
無限の富となって来るのであります。

そこで吾々が地上の世界に神の国そのままの豊かなる供給の世界を実現しようと
思いましたならば キリストのいったように、 「 まず 神の国と神の国の
義(ただしき)とを求め 」 なければならないのであります。

「 神の国 」 というのは 実相の世界 ― 即ち 現象世界の以前にある世界 ― 
であって、その世界にある 「 正しき存在 」 が 即ち 「 義 」 であります。

即ち 「 神の国の義 」 というのは、 「 神の国にあるところの無限の智慧、
無限の愛、無限の生命力 」 であります。

これを吾らが求めたならば、それが自(おのず)から現象界に現れて来て、
無限の富となって実現して来るのであります。

愛と智慧と生命とは目にみえない存在 ― 即ち 「 心的存在 」 でありますが、
「 富 」は すべてこの心的存在の具象化でありますから、
実は 「 物質 」 そのものではなく、 「 富 」 の本質は 「 心 」 であります。

だから吾々が心の世界にまず無限の富を実現すれば、現象界に無限の富が
実現するのであります。

心の世界に無限の富を実現するには、神想観に及ぶものはないのであります。
何故(なぜ)かというと、神想観に於(おい)ては、吾々は心の中(うち)に
「 神の無限の 愛と智慧と生命と供給 」 とを 今 現実にあるように、
観(かん)じて心に はっきりと描(えが)くからであります。


『 新編 生命の實相 』 ( 第 15 巻 観行篇 50頁~53頁 )
 谷 口 雅 春 先 生


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「 基本的神想観実修(道場での口伝(くでん))」( 『 詳説 神想観 』 102頁 ~110頁 参照 )
谷 口 雅 春  先 生

※ 「 神の無限の生かす力に 満たされている、生かされている・・・・・ 」

>神の無限の智慧に 満たされている、生かされている・・・・・
>神の無限の愛に 満たされている、生かされている・・・・・
>神の無限の生命に 満たされている、生かされている・・・・・
>神の無限の供給に 満たされている、生かされている・・・・・
>神の無限の悦びに 満たされている、生かされている・・・・・
>神の無限の調和に 満たされている、生かされている・・・・・





“ 波動 ” について ー 聖経 続々 『 甘露の法雨 』 より ③ <了>

2016-02-20 15:32:20 | 今日の光明法語

聖経 続々『 甘露の法雨 』から、“ 波動 ” について啓示されている箇所を
謹写させていただきます。

>実相の ‘ ほか ’ に真の汝なし。
>肉体ありと見ゆれども
>そは ただ 心の波動の投影(かげ)に過ぎず、



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・・・・・・・・

汝の生命の実相は
久遠(くおん)の神なり、
金剛身(こんごうしん)なり、
不壊身(ふえしん)なり、
本来円満完全なる仏身(ぶっしん)なり。
何処(いずこ)にか迷いあらんや、
何処にか罪あらんや、
また何処にか瀆(けが)れあらんや。
「 色々と悟らせて頂きました 」 などと
種々(しゅじゅ)の罪や迷いに心(こころ)執(とら)わるるは
却(かえ)って悟りに遠きこと
暗(やみ)に執(とら)われて光を忘(ぼう)じたるが如し。

罪も、迷いも、病いも、
畢竟(ひっきょう)、 「 無 」 なるものの一場(いちじょう)の夢に過ぎず。
「 因果(いんが)はめぐる 」 の法則も
南柯(なんか)の一夢(いちむ)に過ぎざるなり。

因果(いんが)を超え、
業苦(ごうく)を超えたる
真清浄(しんしょうじょう)、真無垢(しんむく)なるものこそ
汝の生命の円満完全なる実相なり。

罪を右顧左眄(うこさべん)すること勿(なか)れ。
迷いを右顧左眄すること勿れ。
病いを右顧左眄すること勿れ。
汝ら百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)より一歩跳(と)ぶべし。
更に空中に遊歩(ゆうほ)すべし。
空中遊歩の神人(しんじん)とは
汝らの 「 生命 」 の実相なり。
実相の ‘ ほか ’ に真(しん)の汝なし。
肉体ありと見ゆれども
そは ただ 心の波動の投影(かげ)に過ぎず、


真の人間は 「 神の子・人間 」 なり、
真清浄、真円満なる 「 神の子・人間 」 なり。
汝ら驀(まっしぐ)らに 「 神の子・人間 」 を自覚せよ。
「 神の子・人間 」 を自覚して
罪と迷いと死の夢を消し去るとき、
汝の恐怖 滅(めっ)し、
汝の病気も完全に滅し去(さ)らん。


聖経 続々『 甘露の法雨 』 ( 62頁~69頁 ) 谷 口 雅 春 先 生





波動について ー 聖経 続々『 甘露の法雨 』 より ②

2016-02-20 12:46:05 | 今日の光明法語

聖経 続々『 甘露の法雨 』から、波動について啓示されている箇所を
謹写させていただきます。

>愛と感謝の感情は、
>病いの癒(い)ゆる生命波動を感受する最善の波動なり。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・・・・・・・・

病人は殊更(ことさら)に病気を心より放(はな)つべし。
而(しか)して、唯(ただ)愛せよ、唯 感謝せよ。
国を愛せよ、
人を愛せよ、
家族を愛せよ。
すべての物と事と人とに感謝せよ。
さらに特に汝の父(ちち)母(はは)に感謝せよ。
常に悦びて何か必ず人のためになる事(こと)を為(な)せ。
愛と感謝の感情は、
病いの癒(い)ゆる生命波動を感受する最善の波動なり。


汝ら今、生命(いのち)あることを悦(よろこ)べ、
今、生きてある その 「 今 」 を悦ぶべし、
汝の悦びは 汝の病いを癒(い)やすべし。

・・・・・・・・


聖経 続々『 甘露の法雨 』 ( 39頁~41頁 ) 谷 口 雅 春 先 生





波動について ー 聖経 続々 『 甘露の法雨 』 より ①

2016-02-20 11:51:10 | 今日の光明法語

聖経 続々『 甘露の法雨 』から、波動について啓示されている箇所を
謹写させていただきます。

>心の平和は
>神の癒しの波動(はどう)と同波長なり。
>心の平和あるところに
>神の癒しの波動は宿り来(きた)りて
>健康の姿となって顕(あらわ)るべし。


日々、神想観を実修する所以ですね。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・・・・・・・・

心を鎮(しず)めて平和ならしむるの秘訣は
唯(ただ) 「 有難(ありがと)う 」 と一切のものに感謝するにあり。
一切の人に、事に、物に、症状に感謝するとき、
其処(そこ)に本来の平和は汝の心を訪れん。

心の平和は
神の癒しの波動(はどう)と同波長なり。
心の平和あるところに
神の癒しの波動は宿り来(きた)りて
健康の姿となって顕(あらわ)るべし。

汝よ、心(こころ)安らかなれ。
健康は既に汝を訪れたりと知れ。

・・・・・・・・


聖経 続々『 甘露の法雨 』 ( 23頁~25頁 ) 谷 口 雅 春 先 生




波動について ー 聖経 『 天使の言葉 』 より

2016-02-20 11:10:00 | 今日の光明法語

聖経『 天使の言葉 』から、波動について啓示されている箇所を
謹写させていただきます。

>吾れは 創造神(つくりぬし)の波動(ひびき)なり。

おぉ~、すばらしいですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・・・・・・・・

さて 天使(てんのつかい)の言葉(みことば)は のたまわく ―
われは 完(また)き神の啓示者(けいじしゃ)なり。
神の与え給いしところのものを
吾れも亦(また)汝らに与えん。
神の語り給いしところのものを
吾れも亦 汝らに語らん。
吾れは 創造神(つくりぬし)より遣(つか)わされたる者なり。
吾れは 創造神の道(ことば)なり、
吾れは 創造神の波動(ひびき)なり。
吾れは 創造神より来りて 汝らを言葉にて照り輝かさん。
創造神の光波(ひかり)は 吾れにして
わが光波(ひかり)の射(さ)すところ
暗黒(やみ)なく
病(やまい)なく
老(おい)なく
死なし。
信ずる者は限りなき生命(いのち)を得て永遠に輝かん。
我は創造神の言葉なればなり。
吾が言葉は吾が息(いき)の言う処(ところ)に非(あら)ず、
神、我と偕(とも)にありて、
吾れも亦(また)吾が言葉の内に神の声を聞くなり。

・・・・・・・・

聖経『 天使の言葉 』 ( 2・3頁~6頁 ) 谷 口 雅 春 先 生





生長の家 七つの光明宣言

2016-02-19 08:16:25 | 今日の光明法語

○吾等は 宗派を超越し、生命を礼拝し、生命の法則に随順して生活せんことを期す。

○吾等は 生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ 個人に宿る生命も不死なりと信ず。

○吾等は 人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。

○吾等は 生命の糧は愛にして 祈りと愛語と讃嘆とは 愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。

○吾等は 神の子として無限の可能性を内に包有し、言葉の創化力を駆使して大自在の境に
達し得ることを信ず。

○吾等は 善き言葉の創化力にて 人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の著述、出版、講習、講演、
ラジオ放送、テレビジョンその他凡(あら)ゆる文化的施設を通じて教義を宣布するものとす。

○吾等は 正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより 病苦其(そ)の他一切の人生苦を
克服し相愛協力の天国を地上に建設せんが為に実際運動を起す。


『 新編 生命の實相 』 第 1 巻  総説篇・光明篇( 58頁 ) 谷 口 雅 春 先 生




蓮華日宝王地観

2016-02-16 13:00:05 | 神想観

五官の世界を去ることによってのみ、初めて実相の完全さを観(み)ることが
できるのです。この観世音菩薩の「般若(はんにゃ)波羅蜜多(はらみた)の
行(ぎょう)を実行」する方法が 『 聖光録 』 の中に書いてある
“ 蓮華(れんげ)日宝王地(にっぽうおうじ)観 ” という観行(かんぎょう)であります。
これを行じていただくのが 「 五蘊(ごうん)皆空(かいくう) 」 を悟るための近道であります。

先ず 「 観世音菩薩 五蘊皆空と照見(しょうけん)す 」 と心に唱えまして、
「 物質はない、物質はない、物質はない。肉体はない、肉体はない 」 と繰返し
心の中で唱えるのであります。

その中(うち)に、その物質も肉体も何にもない中心に 「 霊妙きわまりなき自己 」 が
目覚めて来るのであります・・・・・ ( 227頁 )


般若の空観(くうかん)と 空観を更に超えて 「 既に 往(ゆ)き往きて
今 此処 実相世界 」 ということを観ずる神想観が 『 聖光録 』 に示されて
いる 「 蓮華日宝王地観 」 という観法であります。
『 聖光録 』 は 常にポケットに携帯して 時々お読みになるといいと思います。

蓮華日宝王地とは、これは 華厳(けごん)経に書いてある言葉でありまして、
釈尊の仰せられるには、この世界 即ち 宇宙は 蓮華蔵世界であって、
内に 蓮華の理念を蔵(ぞう)し、それが展開する世界だというのであります。

蓮華の花を御覧になりますと、花弁があらゆる方角に展開し、その中心座に、
ハチスと言って蜂(はち)の 「 巣(す) 」 のような子房(しぼう)があるのであります。

これは 中心座(ざ)に巣( 統(す)、スの言葉 ― 五十音を統一すれば
スの一音となる ) があって、そこから現象のハナビラが 八方に展開していることを
象徴している。

その中心になるスの世界は 金剛の日の宝地であって、破壊し得ないという意味が
「 蓮華日宝王地 」 であります。これが実相の世界であります。
その実相世界を観ずるのが 「 蓮華日宝王地観 」 であります。( 256頁 ~ 257頁 )



『あなたは自分で治せる』 般若心経講義 ( 227頁、256頁~259頁 ) 谷 口 雅春 先 生


※ やり方は、『 詳説 神想観 』( 117頁 ~ 121頁 )、新編 『 聖光録 』( 109頁 ~111頁 )を
参照して下さい。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


伝統版・第二
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神性を悟る功徳

2016-02-14 19:23:50 | 今日の光明法語

・・・・・ ‘ 痛みは やがて過ぎ行くもの ’ という悟りが 肝腎なのです。
これが悟られれば 痛みと一緒に苦しむ必要はない。・・・・・

‘ この痛んでいるままで 苦しまない生き方というのが、 「 生長の家 」 の生き方の
全体をつらぬいています生活態度で、痛みが治って 初めて苦しまないというのではない。
痛んでいるままで苦しまない。’ その結果、痛みそのものも速(すみや)かに
過ぎ去ってしまうのです。・・・・・

束縛とか苦痛とか一切の存在は 結局は実在ではないから、移り変り 過ぎ行き、
やがて消滅すべき運命をもっており、人間は本来神の子であるから、
結局は その円満完全さが発揮されるほかに道はないのです。
こうして あらゆる人間は救われることになっているのです。・・・・・

たしかに あらゆる人間は救われるのであり、あらゆる苦しみは 過ぎ行き
消滅するほかはない。実在は 顕(あら)われるほかはない。
そして仮相は 消え去るほかはないのです。・・・・・

吾々の心の悩みでも、その悩みの奥底に悩みのない「本当の自分」というものが
存在するのだということが判(わか)りますと、新たに悩みの業因(たね)を造らず
その悩みというものが軽く過ぎ去ってしまうことになるのであります。
これが 即ち 吾々自身の神性を悟る功徳でありま(す)・・・・・

実際 消えている星は、その星の光が見えていても、実際 その星は存在しないのである、
と悟るのが 本当の智慧であるように、病気や苦痛や、悩みなどがあらわれていても、
‘ 一旦 自分が神の子であるという神性を悟った以上は、病気も苦痛も悩みも、
もう存在しないものであると悟るのが 本当の智慧なのです。

そうすると、悩みの中にあって悩まず、苦しみの中にあって苦しまず、
苦しみと一緒になって自分もキリキリ舞いするようなことが無くなる。’ ・・・・・

痛いは痛いままで 苦しいは苦しいままで そのままに救われている自分が
あることが判(わか)るのであります。


『 新編 生命の實相 』 ( 第 7 巻 生命篇 56頁~69頁 )
 谷 口 雅 春 先 生




“ 神の自己実現 ” を高める祈り

2016-02-13 14:30:16 | 今日の光明法語

人間は神の最高の自己実現であるのである。
したがって、私たちの生命(いのち)の最も深いところには、
神の心が宿っているのである。

わが “ 深層の心 ” は “ 神の心 ” であり、神の “ 愛 ” と
“ 真理 ” と “ 叡智 ” に満たされているのである。

私たちの 表面の心は、肉体の意識に属するものであるがゆえに、
時々、外界の出来事に振り廻されて迷うことや、悩むことがあるけれども、
わが “ 深層の心 ” は 神に属するものであるから、
何事にも現象界の出来事に引っかからず、悩むことなく、苦しむことなき、
常住歓喜の心なのである。

私たちは 現象界の混乱で、 “ 表面の心 ” が悩むときには、
その “ 表面の心 ” にまどわされることなく、
わが深層より “ 神の心 ” を出してきて必ず、平和と調和と
愛と智慧とに満ちた心に恢復(かいふく)するのである。

私は、今、自己の生命の奥底に “ 神聖なるもの ” “ 神の心 ” が
宿っていることを知ったのである。そして、自己の深層より
その叡智と歓(よろこ)びと、愛と、調和と、繁栄と、幸福と、健康とを
呼び出してきて、日常生活にそれを具体化するのである。

わが深層に宿っている神の神聖性は、毎日神想観を実修することによって、
日ごとに一層ハッキリと外部に表現してくるのである。

かくして、私は 常に神の叡智に導かれるがゆえに、事物に対して
常に正しき判断ができ、適当なる計画と行動とがそれに伴(ともな)い、
決して失敗することはないのである。

常に毎日一層、われわれ家族の深層に宿る “ 神性 ” は
表面にあらわれて具体化するのであるから、
われわれ家族の健康は 日毎に増進し、肉体は逞(たくま)しく美しくなり、
事業は繁栄し、国家社会のために大いに貢献することができるのである。

わが事業は、神の導きと、神の愛とによって繁栄するのであるから、
私たちは その収益を決して “ 私(わたくし) ” しないのである。
それを神からの恵みの預(あずか)りものとして、国家、社会、
人類のために貢献するためには惜しみなく、それを出資するのである。

この世界には、 「 与えよ、さらば与えられん 」 の法則が行なわれて
いるのであるから、私たち一家の繁栄は、私たちが国家、社会、人類のために
貢献し得た程度にしたがって、その程度が増加してくるのである。

わたしたちは、 “ 神の子 ” であり、深層において神が宿っているのであり、
これを 国家 社会 人類のために貢献するたび毎(ごと)に、
一層完全にわたしたちは神の自己実現を完成するのである。

そして釈尊が 三十二相(そう)と八十種類の好(よ)き相貌(そうぼう)を
備えたまうように、毎日一層よき人相(にんそう)が輝き出(い)で、
人から懐(なつ)かしがられ、愛され、喜ばれ、わが顔を見るだけでも、
見る人の魂に愛と平和が訪れるようになるのである。


『 真理の吟唱 』 ( 179頁 ~ 182頁 ) 谷 口 雅 春 先 生





道 と 生活 と 愛行を そのまま生きる

2016-02-11 18:04:56 | 今日の光明法語

『 生長の家 』 は、私が会社員生活をしながらでも、家業というものに
縛られながらも、人間は縛られ切れない生命の余裕をつくることが
出来ることを示すために、この生活を開いたのです ・・・・・・

片手に普通人としての生活をしていながら、片手に人を救う道にたずさわる ー
こういう 『 生長の家 』 の生き方であればこそ、誰(たれ)でも出来る
真面目(まじめ)な生き方なんです。

家業を捨てて ラクをしていて、それで世の中の導師だとか先生だとか
言われるのが 『 生長の家 』 の生き方なら、それは ただ虚栄の生活であって
貴(とうと)ぶべきではありません。

実生活にしっかり根をおろして、隣人を救うのでなければ本当の権威がない。・・・・・

現在たずさわっている仕事を熱心にやっておれば、それが次に神から
与えられる仕事の準備になる ・・・・・


『 新編 生命の實相 』 ( 第12巻 生活篇 15頁~17頁 )
 谷 口 雅 春 先 生




お金は 「 生命 」 を生かすためのもの、縛るためではない

2016-02-09 18:26:27 | 今日の光明法語

上役(うわやく)のうちには、給料を払っている以上は、何時から何時までは
彼らの生命を 金で買ってあるのだから使わねば損だと思っているような
仕向(しむ)け方(かた)をする人もあるようだが、これは全然 考え方が間違っている。

「 生命 」 は 金より貴(とうと)いのだ。
金は 「 生命 」 を生かすための便宜(べんぎ)のために出来ているのであって、
「 生命 」 を しばるためには 出来ていないのだ。

ただ便宜のために金というものが 「 生命 」 をある時間だけ
買ったような相(すがた)になっている。

だが、それは表面の仮りの相である。
「 生命 」 は 金で買われるには余りに貴い。
神の子を金で買ったと思うことを恥じよ。

「 生命 」 は 互(たがい)に愛をあらわし、互の生存と生長とを
扶(たす)け合うために その能力に応じ、長所に応じて、
互に奉仕し合っているのが 本当のすがたであるのだ。

この生命の実相(ほんとのすがた)を見よ。
実相を見て仮の相にとらわれるな。
勉強して伸びたいと思っている者の邪魔をするな。
これが働く青少年の上に立つ者の愛の道であるのだ。


『 新編 生命の實相 』 ( 第12巻 生活篇 29頁~30頁 )
 谷 口 雅 春 先 生