今、20代の頃に写仏した「 如意輪 観世音菩薩 」を前にして、
蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)に励んでおります。
所々に‘シミ’がついていて、過ぎ去りし年月を感じます。
< 五官の世界を去ることによってのみ、初めて実相の完全さを観(み)ることが
できるのです。この観世音菩薩の「般若(はんにゃ)波羅蜜多(はらみた)の
行(ぎょう)を実行」する方法が 『 聖光録 』 の中に書いてある“ 蓮華(れんげ)
日宝王地(にっぽうおうじ)観 ” という観行(かんぎょう)であります。
これを行じていただくのが 「 五蘊(ごうん)皆空(かいくう) 」 を悟るための
近道であります。>
( 谷 口 雅 春 先 生 )
蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)
吾れ、今、五官の世界を去って、普(あまね)く吾が全身を観ずるに、
この身このまま観世音菩薩なり。
吾れ 観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しょうけん)し、
一切の苦厄(くやく)を度(ど)す。
物質はない、物質はない、物質はない・・・・・
肉体はない、肉体はない、肉体はない・・・・・
心もない、心もない、心もない・・・・・
( と斯(こ)う繰返し念じて、五蘊上に浮ぶ 迷妄世界すべてを否定し去ります。
物質も、肉体も、心も、そして斯(か)く観ずる心も、悉(ことごと)く
空(くう)じ去って了った心境に到達してから )
虚空(こくう)中に 宇宙大の大日輪浮ぶ。光明遍照(へんじょう)実相世界ここなり
( と念じて大日輪(だいにちりん)が宇宙一杯に充満せる有様を観じ 更にその大日輪中に
千葉(せんよう)の蓮華が開花せる姿を観じ )
ここ蓮華蔵世界なり。
( と念じて、その花の中心上に 観世音菩薩の坐っている姿を心に描き )
この菩薩は自分自身なり
( と観じ、静かなる呼吸と共に )
大日輪の智慧 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・
大日輪の愛 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・
大日輪の生命 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・
吾れ大日輪の智慧なり。吾れ大日輪の愛なり。吾れ大日輪の生命なり。
一切のもの吾れに備わり、意(こころ)に随(したが)って集り来たり、用足りて自から去る。
( と繰返し念じつつ、大日輪の無限の智慧、愛、生命、供給、調和と云うものが
自分に流れ入ると観ずるのであります。 )
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吾れ、今、五官の世界を去って、普(あまね)く吾が全身を観ずるに、
この身このまま観世音菩薩なり。
( と心に誦(とな)え、自己を観世音菩薩だと見立てて神想観をするのであります。
自己を観世音菩薩と何故観じても好いかと言うと、観世音菩薩は一定の形ある菩薩ではない。
世の中の音(おと)を観じて その音の通りに現れ給う観自在の原理であり
その観自在の原理は 各人の腹中に各々豊かに備わっているからである。)
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新編 『 聖光録 』 ( 109頁 ~ 111頁 )