ORGANIC STONE

私達は地球を構成する生命を持った石に過ぎないのですから。

犬とある女優の奇妙な関係:MIKAエッセイ (February.2013)

2013-04-17 01:26:58 | 音楽:MIKA
The Curious Incident of the Dog In The Nigh-time

リスボンのレストランの一角でイタリア人女優アーシア・アルジェントは白ワインのグラスを開けていた。僕たちはアーシアが出演したファニー・アルダンの新しい映画のセットから抜け出して小さな魚料理の店に来ていた。彼女が演じるのはチェロ奏者で、僕は最後のシーンの彼女の連れの役で出演することになっていた。僕はセットで眠気に襲われるのを心配してワインを断り、撮影の長い待ち時間の愚痴を言うと、彼女は笑いながら言ったんだ、「知らないの、俳優は演技でお金を貰うんじゃなくて、待ってる時間でお金を貰うんだよ!」数時間前に知り合ったばかりなのにランチタイムにはもう彼女のことが大好きになっている自分に気づく。彼女は乱暴なほど率直で、まったくといっていいほど物事を批判しない人間だ。彼女は何も言わず、食べる僕を見つめ僕の芸術に関する大言壮語と限界についての話を聞いてくれていた。僕がヘンリー・ダーガーと彼の少女たちに関する劇を作りたいという夢について話していると、彼女は話をさえぎり手を上げて厳しい声で言った。「仕事で関わらないほうがいい2つのこと、それは子供と動物。私を信じて。」

彼女はアベル・フェラーラ監督の"Go Go Tales"で犬にキスするはめになった顛末を語ってくれた。後になって僕は問題のシーンを見てみたけれど、そうだな確かにショッキングでかなり変。でもそれが狙いなんじゃないの?「あれで私はキャリアを失いかけたんだよ」アーシアは後で教えてくれた。「今までの人生ショッキングで屑で相当際どいシーンを演じてきたけれど、あのシーンがあれほど問題視され自分を恥じることになるとは思わなかった」アーシアが演じるのはストリッパーで、ダンスの途中彼女は犬に挑戦的に身を近づけ舌を突き出す。犬は彼女の口を舐め、彼女は引き離されるまでほんの数秒名残惜しそうなそぶりをし、再びストリップを続ける。・・・彼女はその後いくつもの仕事の契約を破棄され、イタリアで嫌われ馬鹿にされる原因になった。

ほとんどの怒りはもっともだと言える。犬は俳優じゃないし、獣的な何かを演じるために雇われたのでもない。あれは指示されたのでもなければ、ふりをしたのでもなく即興で起こった出来事だった。当時の報道を読むとあの”キスの真似"が嫌な解釈をされていく様子が分かる、アーシアが歯止めのない欲望を持つ性的倒錯者だと。反キリストというか、自分の娘にはそうなって欲しくない女・・・動物の権利って意味でも誉められたことじゃない。実際には今まで話したことのある女優のなかでも最も興味深くて知識も豊富な女性の1人だって言うのに。「人々があのシーンに理屈をこじつけるさまは見たことも無いくらい病的だった。私は皆の中にある暗い闇の部分を写す鏡だった、だから皆をいらつかせ、皆の中の暗い何かへの水路を開いた。結局自分らしくあることでドアをこじ開けちゃったって結末。」僕があの映画に出たことを後悔してるかって聞くと彼女は肯定した。犬が好きかとたずねると、好きだけど今飼っている犬はちょっと微妙だという。「年取った犬で、死んでくれることを祈ってる。彼はベルルスコーニみたい。」彼女は付け加えた。「年取ってて、おちんちんがでかくて、歯が無くてここ4年間足をひきずってる。」

アーシアの話は僕に映画の表現はどこまでリアルに近づけるかという問題を提起した似たようなスキャンダルを思い出させた。ビンセント・ギャロ監督のブラウン・バニーで、クロエ・セヴィニーとギャロはセックスシーンで実際に挿入(はっきり見える)する演技を行った。彼らはどんなことでも演技する役者根性を持つ俳優だったのに関わらず、そのシーンは議論を呼び、映画の中の性行為シーンのリアリズムについて沢山の疑問を提起した。僕がアーシアにその映画と君はなにか関係あるかと聞くと彼女は強く否定した。「全く関係無い、私はファッショニスタじゃないし、ファッショニスタにフェラもしない」そして繰り返し彼女はクールという概念が嫌いだと主張した。どうやら彼女はいわゆるクールな人種に囲まれて育ち苦労したみたいだった。「ファッションは自分と関係ない。私はアウトサイダー・アーティストと関わりがある、彼らの大部分は友人だから」

その前の日、僕はthe Museum of Everything in Parisへ行った。アウトサイダーアートの移動展覧会で、ヘンリー・ダーガーの作品も展示されていた。展示作品のほとんどが世間一般的には隠匿するべきと見なされる、社会的タブーってやつに固執していないアーティストの作品だ。その中でも最も有名なダーガー、シカゴの掃除人であった彼は病棟に隔離され続け、子供時代には虐待を受けていた。我流で絵を学び、カタログや雑誌から理想の女の子を写し取って子供奴隷解放のための聖戦が繰り広げられる彼の究極のファンタジーワールドに加えていった。彼女らは人形のように着飾り、裸だったりし、角と尻尾があった。男性器のある者もいた。宗教的アイコンのような少女から雑誌のソフトポルノの女狐まで変化した。作品は非常に美しく、それはある男の魂を垣間見ることが出来る稀有な機会を与えてくれる。彼はとことん無名であることで幼年時代の無垢さを思う存分追求し、同時に創作活動は彼の過去の浄化の意味も込められていた。アウトサイダーアートの作家たち、彼らの多くが病棟に入れられていることから彼らのアートは彼らの狂気を正当化するための芸術だと評される。彼らはこの世界の異形の者、でも非常に多くの作品がオークションで売買されている。

アーシアはアウトサイダーアートの作家たちについての僕の思いに共感し、彼らの作品は公共のコレクションにするべきだという意見に同意してくれた。彼女は誇大報道の犠牲者だけど、同時に一種の負け犬なんじゃないかという思いがわき上がって来た。彼女の言うことすべて一語一句腑に落ちるというか、同感するんだ。アーシアのようにいじめを受けて育つこと、僕が悲しく思うのはそれがこの世の中の避けようのないシステムの一つに組み込まれているんじゃないかってこと。馬鹿にされいじめられたのがもし僕じゃなかったら他の誰かだったに違いない。でも僕は他の誰かに同じ体験をして欲しいなんて思わない。奇妙なことにあの体験のおかげで僕は強さを得、音楽とアートへの道を見つけ、その他大勢にならないことを選んだ。アーシアの物語も同じだ。「あの映画の後、私はイタリア版ルイーズ・ブルジョワを演じようと頑張った。でも今はもうどうでもいい、私は奇人だし、世の中には奇人が必要なんだよね。トッド・ブラウニングの映画フリークスみたいに皆はサーカスへ行って見世物小屋の奇形を見て笑う・・・彼らは奇形で自分は違うって思うことでいい気分になれる」僕は彼女を良く見た。スタイリッシュに服を着こなし、明らかに相当な美人の彼女を。「どうして君が奇人?僕には完全にまともに見えるんだけど?」戸惑った僕が尋ねると彼女はこう答えた。「ああ、あなたも奇人だからでしょ」


元記事
http://videodrome-xl.blogautore.repubblica.it/2013/02/28/mika-pop-up-english-version/


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