ここのところ、サヨクは強制連行等の裁判に熱心です。歴史的事実の実証的検証が進んだ現在、サヨクの糾弾してきた「日本軍による暴行・虐殺」や「日本による朝鮮の搾取」は否定される部分が多くなったため、司法権という国家権力に頼って自分達の主張を正当化する手段に打って出ているのだとわたしはおもいます。一方で国家権力を蛇蝎の如き忌み嫌いながら、他方で国家権力を利用し自己正当化を図る。目的のためなら手段を選ばない無節操。まさにサヨクの面目躍如たるものです。
いうまでもなく、裁判所の認定する事実は法廷に現れた事実です。民事訴訟の場合、原則として当事者の持ち出した証拠からしか、裁判所は事実を認定できません。したがって、裁判により歴史的な事実が明らかになるとは必ずしも言えないことは自明なことです。しかし、日本人は「法廷で真実を明らかにする」という感覚があるため、往々にして、裁判所の判決を、あたかも歴史的な事実と錯覚する危険があります(関連エントリー「日本の刑事裁判」参照)。その錯覚をサヨクは突いて来ている面があるのです。
ここで「事実」を大雑把に三つに分けて考えることが有用です。すなわち、「歴史的事実」と「政治的事実」と「司法的事実」です。「歴史的事実」とは客観的事実のことで、我々が日常用語で「事実」という場合の事実におよそ対応します。「政治的事実」とは、当事者の合意により認定される事実で、東京裁判により認定された事実などがこれにあたります。したがって、「政治的事実」は当事者の力関係により決定される面が強く、状況の変化に応じて変化するものということになります。「司法的事実」は前述の通り、裁判所が当事者により法廷に持ち込まれた事実から認定する事実です。したがって、「司法的事実」も「歴史的事実」と必ずしも合致するものではなく、むしろ「政治的事実」と合致する場合が多くなります。なぜなら、「政治的事実」は「証拠」という形で裁判所の判断を大きく左右するからです。(続く)
≪関連エントリー≫
※5/12「日本の刑事裁判」
いうまでもなく、裁判所の認定する事実は法廷に現れた事実です。民事訴訟の場合、原則として当事者の持ち出した証拠からしか、裁判所は事実を認定できません。したがって、裁判により歴史的な事実が明らかになるとは必ずしも言えないことは自明なことです。しかし、日本人は「法廷で真実を明らかにする」という感覚があるため、往々にして、裁判所の判決を、あたかも歴史的な事実と錯覚する危険があります(関連エントリー「日本の刑事裁判」参照)。その錯覚をサヨクは突いて来ている面があるのです。
ここで「事実」を大雑把に三つに分けて考えることが有用です。すなわち、「歴史的事実」と「政治的事実」と「司法的事実」です。「歴史的事実」とは客観的事実のことで、我々が日常用語で「事実」という場合の事実におよそ対応します。「政治的事実」とは、当事者の合意により認定される事実で、東京裁判により認定された事実などがこれにあたります。したがって、「政治的事実」は当事者の力関係により決定される面が強く、状況の変化に応じて変化するものということになります。「司法的事実」は前述の通り、裁判所が当事者により法廷に持ち込まれた事実から認定する事実です。したがって、「司法的事実」も「歴史的事実」と必ずしも合致するものではなく、むしろ「政治的事実」と合致する場合が多くなります。なぜなら、「政治的事実」は「証拠」という形で裁判所の判断を大きく左右するからです。(続く)
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