PLANKTON NEWS and REPORT

プランクトンのアーティスト・ニュース&ツアー・レポート

ANUNAサイン中

2009-11-30 | ケルト音楽
毎回、公演後のサイン会には長い列が出来ます。
今回は綺麗なパンフレットも販売していますよ。

@まつもと市民芸術館

フランキー・ケネディ ウインタースクールドキュメンタリー4

2009-11-29 | ケルト音楽


フランキー・ケネディドキュメンタリー3より続く)

ダヒー・スプロール「彼らは自分たちの音楽がいかに素晴らしいのか余り自覚がなかった。僕が作ったイベントは本当に大成功だったんだ。かれらは家に戻るとしばらくして教職をやめる決意をした。音楽で人々を楽しませる仕事につこうと思ったんだね。彼はとても社交的で、さびれたアメリカの土地の人たちに会う事もすごく喜んでくれた」

マレード「次に私たちがアメリカにつれていったのは、ファーマナ州出身の(現在でもメンバーである)キーラン・クラン。その4人で一緒に演奏するようになってお客さんも増えていった。そしてポール・オショーネシーにもバンドに入ってもらうように声をかけたわ。一緒にアイルランドで演奏していたし私たちの演奏の幅を広げてくれると思ったの。それでずいぶんバンドらしくなった。ブズーキとギターでサウンドも広がった」

ダヒー「当時のアイリッシュバンドはバラッドグループが中心だった。伝統音楽のバンドはあまりいなかったけど、フランキーとマレードは彼らが愛する音楽を観客に届けようと、その事に妥協はなかった。彼らが演奏したのはほとんどんがドニゴールの音楽だったのだけど当時ドニゴールの音楽はアイルランドですらあまり知られていなかった」

ポール「だいたい5年くらいアルタンと一緒に演奏したかなぁ。3枚のアルバムに参加した。いろんな場所をツアーしたよ。とても楽しかった。あの5年は僕にとっても、とても特別なものだ」

マレード「私たちにとっては本当に大きな冒険だったわ。まさか音楽が自分たちのパスポートになるなんて思ってもいなかった。アメリカやオーストラリア‥‥旅をするのは本当に楽しかったわ」

ポール「フロントマンとしてのフランキーは本当に素晴らしかった。彼はいつも自分はリーダーではないと言っていたけど、それはウソで、彼はほとんどの仕事をこなしていたね」

マレード「フランキーはいつもアルタンはこうあるべきだという強いヴィジョンを持っていたわ。私自身はあまりそういうことを分かっていなかった。ただ音楽を演奏してればいいと思って大きなイメージは持っていなかったのね。彼はいつもちゃんとしたイメージを持っていたから、今、それがないのが本当に寂しい」

ポール「バンドはたくさんあるし、名前はあげられないけど‥‥でも結局多くのバンドが目の前のオファーを拾ってしまい、それによって消えていってしまうんだよ。フランキーはその点非常に頭が良かった」

マレード「当時のアイリッシュバンドにはビジネスのセンスがなかった。それはでもバンドの成長にとってとても大事なことなのに」

トム・シャーロック(アルタンの元マネージャー)「フランキーはすごくアルタンのことについては慎重だった。エンジニアも良い人を使ったり、スタジオも良いところを使ったり、そういうことをすごく大事に思っていた。自分の得るものがちゃんと自分の欲する物かどうか、すごく努力していた」

ダヒー「完璧主義者だったね。妥協はしなかったし音楽に対する努力を惜しまなかった。フィドルのためにかかれた曲をフルートで演奏する時は、本当にいつも驚かされた。どうやったらそれが出来るのか僕には不思議で仕方がなかったよ。たとえばAのキーの曲をフルートで演奏するのはすごく難しいだ。でも彼はそれが出来ていたね」

キーラン・ムイニー(甥)「ベットルームでよく練習していたのを覚えているよ。3、4時間とかね。僕は音楽を習っていたけど、それほど面白く思っていなかった。でもおじさん(フランキー)がシンプルな曲からユニークなものを作り出すすのをみていて興味を持つようになったんだ」

「フランキーは、アルタン以外にも、音楽の深さへの理解を残していってくれたと思う」「フィドルでも演奏するのが難しい曲をフルートで演奏してね。それがコナー・バーンやハリー・ブラッドリーみたいな若いミュージシャンたちに影響を与えた」

コナー・バーン「フランキーはスローエアーを演奏するのが得意で、それが僕の演奏に多くの影響を与えた。彼のフレーズはいかしていた」

「フランキーが部屋にいると明るかった。いつも笑っていたし、すごくウイットに富んだ人で、すごく面白い人だったんだよ」

マレードの両親「フランキーはとても楽しい人だった。すごくナチュラルで」

キーラン・ムイニー「フランキーはおじさんであり、名付け親なんだ。フランキーは僕が10才のころ亡くなったのだけど、いつもフランキーとマレードが家に遊びに来てくれるのを楽しみにしていたのを覚えている。彼らは当時ダブリンに住んでいて、彼らが戻ってくるとみんなが興奮した。まだ僕は若過ぎたんだけどセッションに行って彼らの音楽を聞いていたよ」

シェイマス・ベグリー「フランキーはユーモアのセンスを失わなかった。彼はとても具合が悪い時でも、具合が悪そうにしていることがなかったよ。病気が決定的なものだと受け止めていて勇気を装っていたんだ」

アルタンも出演するケルティック・クリスマスの情報はこちら

フランキー・ケネディ ウインタースクールドキュメンタリー3

2009-11-27 | ケルト音楽


フランキー・ケネディドキュメンタリー2より続く)マレードのお父さん「よくマレードはフランキーにゲール語で話しかけていたなぁ。文通もアイリッシュでしてたみたいだ。で、フランキーはAlbert Fryにその手紙を訳してもらっていたらしい」「そうこうしているうちにフランキーはずいぶんアイリッシュが話せるようになったよ、私たちよりもずっと上手にね」

マレードとフランキーが演奏するシーンが写されますが、マレード若い! でもフィドルのボウを短く持つあの感じが今と変わらないですね! 

マレード「フランキーはすごくハンサムで、知るほどに凄く正直で謙虚な人だという事が分かった。真実は大変、でもいつも正直に自分の気持ちを話してくれたわ。正直でいることが彼のポリシーだったのね。他の人にも親切で私の家族にもとてもよくしてくれた。私にもすごく良くしてくれたし」

マレード「まだ付き合うには早いと両親は思っていたみたい。だから、まずは結婚前に自分たちの教育課程を修了して教師になった」「幸運にもフランキーが先生をしていたマラハイドの学校で、私も仕事を得たの。他の先生たちには私たちが付き合っていることは内緒だった」マレードのお母さん「結婚すると聞いたときはまだ若すぎる、と思ったわ。もう数年待ってみれば、と」

マレード「81年に結婚したのだけど、レセプションをしようと言った場所が普段はお葬式しかしてないよ、って言うのね。でも大きなセッションができてダブリンやベルファーストから多くのミュージシャンが集まった。私たちはすごく貧しかったけど、幸せだったわ」

マレードのお母さん「4月に結婚して10月にはGearoidがフランキーの妹のアンと結婚したからダブル・マッチだった」

マレードの両親「アグネスは本当に特別な人だ。彼女は誰とでも仲良くなれる。でも彼女は大きなものを失った。夫を亡くし、フランキーそして娘のジェラルディンも。でも素晴らしい人で周りの人々を明るく元気にしてくれるんだ」「彼女は人前で自分の悲しみをみせることはなかった。絶対にプライベイトではいろいろ考えていたに違いないのに。僕らは彼女のことが大好きで、いつも彼女が訪ねてきてくれるのを楽しみにしていた」

ダーモット・マクラフリン「フランキーとマレードがハーコートのセッションにはじめてやってきて、マズルカや、ハイランズ、バーンダンス、ジャーマンズなどが紹介されるようになった」「アルスターの音楽のルネッサンスだ」

ポール・オショーネシー「80年代に彼らがダブリンのセッションに参加するようになって彼らのことを知るようになった。彼らは『北の調べ』をリリースしたんだ。二人はミュージシャンを集めて頑張った。その数年後、アルタンが結成された」

マレード「『北の調べ』はアメリカでも輸入されて手にはいるようになったので、私たちはアメリカやオーストラリアからも招待されるようになったわ。信じられなかった。アメリカに友人がいて、ダヒーなんだけど、彼は今、私たちと一緒にギターを弾いてくれているのだけど、ダヒーはよく私たちをホリディにとアメリカに呼んでくれた」「ニューヨークの有名なタバーンで演奏することになって有名ミュージシャンたちが私たちを観に来てくれた。当時の私たちのヒーローみたいな存在だった人たちだったから、すごく緊張したのを覚えているわ。それからミネアポリスにダヒーを訪ね、そこでも演奏した。ちょうど4度目の結婚記念日だった。ダヒーがいくつか公演できる場所を見つけてくれたのね」

フランキー・ケネディ ウインタースクールドキュメンタリー2

2009-11-25 | ケルト音楽


フランキー・ケネディドキュメンタリー1より続く)マレード「フランキーはとっても謙虚な人だったからこんなに沢山の人たちが集まってくれているなんて思いも寄らなかったでしょうね。それを思うと嬉しくなる」フランキーの妹「このスクールによってフランキーはまだ生きていると感じるわ。素晴らしい音楽、楽しい集まり。10年たったあともフランキーがいないなんて信じられないわ」

マレードの両親「フランキーにはじめてあった時のことをよく覚えている。マレードと彼女の友達と一緒で彼らに紹介されたんだ。彼らはダンスにいった帰りでかなり夜遅かった。私と同じ名前じゃなかったら奴を追い出していたよ」
マレード「フランキーと会ったのは私が14才の頃だった。彼は18才で、私のことはそんなに若いとは思わなかったみたい。すぐに私たちは恋に落ちたわ。家まで送ってくれてそこで私の両親に会ったの。それから文通が続いてクリスマスに戻ってきたときに素敵なプレゼントをくれた」

マレードのお父さん「そのうちセッションにも参加するようにもなって、フランキーがそれに参加するようにもなった。そうして行くさきざきどこへでもついてくるようになった。次に私がみたのはフランキーがティンホイッスルを取り出した事さ。その時はまだ演奏はしなかったんだけどね。マレードはもし自分と付き合いたいなら音楽を演奏しなさいとフランキーに言ったみたいなんだ」

マレード「彼はティンホイッスルを演奏し始めたわ。彼はそれまで音楽を演奏したことなどなかったの」「でも私の隣に座るには楽器を演奏しなくちゃって思ったのね。そのうち彼のベファーストの友人が彼にフルートを薦めて、それでフルートを演奏するようになった。

マレードのお父さん「ティンホイッスルをやめてフルートを取り上げた時はびっくりしたよ。こんなに早く楽器を習得できるなんてと、とても喜んだ」「でもそこで止まるようなフランキーじゃなかった。彼は伝統音楽そのものにとても興味を持ちはじめたんだ」「月曜日の有名な伝統音楽のラジオ番組を録音して、同じ週末にはその曲を演奏できるようになっていた」

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アヌーナ・インストア・イベント

2009-11-25 | ケルト音楽
アヌーナ・インストア・イベント
(ミニ・ライヴ&サイン会)

宣伝させて下さい。
いよいよ、アイルランドのコーラス・グループ「アヌーナ」が3度目の来日公演が始まります。


今回は、日本での初のインストア・イベントを行います。
アヌーナの絶品の歌声が間近で聴けます!
まだ、アヌーナの歌声を体験してない人は、
是非この貴重な機会をご利用下さい!!

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アヌーナ・インストア・イベント
(ミニ・ライヴ&サイン会)

日時:2009年12月2日(水)19:30 START
場所:タワーレコード渋谷店・5F イベントスペース
入場無料・観覧自由

お問い合わせ タワーレコード渋谷店 TEL:03-3496-3661
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アヌーナのDVD『アイルランドの祈り』がコロムビアより発売になりました。
アイルランドの自然の映像をバックにアヌーナが歌うという内容の、アヌーナのビデオ・クリップ集なのですが、これが、素晴らしいのです!
アイルランドの自然の映像が素晴らしくて、ぼおっ~っと見ているだけで癒されます(←あまりこの言葉は使いたくありませんでしたが、本当に癒されます)。
本当にうっとりしてしまう、清涼剤のような環境DVDですよ!!

フランキー・ケネディ ウインタースクールドキュメンタリー1

2009-11-22 | ケルト音楽


アルタンはご存知のとおりフルート奏者のフランキー・ケネディとフィドル奏者&シンガーのマレード・ニ・ウイニーが中心になって結成。94年にフランキーが癌で亡くなった後も、マレードは頑張ってバンドを続け現在にいたるわけですが、アルタンのメンバーは、自分たちが中心となって毎年フランキーの名前がついたウインタースクールを年末にドニゴールで開催しています。毎年このウインタースクールでは多くのワークショップが行われコンサートが行われているのですが、このTG4のドキュメンタリーは2004年にスクールの10周年を記念して作られたものです。その内容をアルタンの来日までご紹介していきたいと思います。

マレードは共和国側ドニゴール出身でアイルランド語はネイティブなわけですが(彼女のアイリッシュはとっても自然ですごく綺麗な響きですね!)、フランキーは北アイルランドのベルファースト生まれ。通じていないにもかかわらず、よくマレードはフランキーにアイルランド語で話しかけていたようです。当時、国境を越えた交際がどんなだったかは知る由もありませんが。

「フランキーはどんなに具合が悪い時でもユーモアの心を忘れることがなかった」(シェイマス・ベグリー)

フランキーが亡くなったあとに設立された「Frankie Kennedy Winter School」。マレードは「当時は辛かったけど、でも今思えばこのスクールが一番重要なことだった。彼の思い出を伝えつなぐためにも、、」と回想しています。フランキーが9月に亡くなりスクールはその年の12月に第1回が開催されたのです。フランキーのお母さん「いろんな年齢やいろんな人たちが集まるのは本当に素晴らしい」

歴代メンバーのポール・オショーネシー(フィドル)のコメントもあり。スクール開催中にはセッションもたくさんあり。特に大晦日の夜は大変もりあがるのだそう。多くの人が集まるので地元の経済にも大変貢献しているようです。「若い子が育って行くのをみるのは本当に励みになるね」「スクールがはじまって10年になるから、最初来ていた子たちが音楽成功して戻って来るのを見るのは本当に嬉しい」「そしてもみんながフランキーに教わった曲などを演奏したり思い出を懐かしんだりしているんだ」「その遺産はあまりに大きい」

「音楽は素晴らしい。音楽が人をつなげるんだ、それが一番大事なことなんだよ」「スクールは本当に活気に満ちている」「そしてユーモアもそこにある。ユーモアもフランキーにとっては非常に大事なことだった」

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