(フランキー・ケネディドキュメンタリー2より続く)マレードのお父さん「よくマレードはフランキーにゲール語で話しかけていたなぁ。文通もアイリッシュでしてたみたいだ。で、フランキーはAlbert Fryにその手紙を訳してもらっていたらしい」「そうこうしているうちにフランキーはずいぶんアイリッシュが話せるようになったよ、私たちよりもずっと上手にね」
マレードとフランキーが演奏するシーンが写されますが、マレード若い! でもフィドルのボウを短く持つあの感じが今と変わらないですね!
マレード「フランキーはすごくハンサムで、知るほどに凄く正直で謙虚な人だという事が分かった。真実は大変、でもいつも正直に自分の気持ちを話してくれたわ。正直でいることが彼のポリシーだったのね。他の人にも親切で私の家族にもとてもよくしてくれた。私にもすごく良くしてくれたし」
マレード「まだ付き合うには早いと両親は思っていたみたい。だから、まずは結婚前に自分たちの教育課程を修了して教師になった」「幸運にもフランキーが先生をしていたマラハイドの学校で、私も仕事を得たの。他の先生たちには私たちが付き合っていることは内緒だった」マレードのお母さん「結婚すると聞いたときはまだ若すぎる、と思ったわ。もう数年待ってみれば、と」
マレード「81年に結婚したのだけど、レセプションをしようと言った場所が普段はお葬式しかしてないよ、って言うのね。でも大きなセッションができてダブリンやベルファーストから多くのミュージシャンが集まった。私たちはすごく貧しかったけど、幸せだったわ」
マレードのお母さん「4月に結婚して10月にはGearoidがフランキーの妹のアンと結婚したからダブル・マッチだった」
マレードの両親「アグネスは本当に特別な人だ。彼女は誰とでも仲良くなれる。でも彼女は大きなものを失った。夫を亡くし、フランキーそして娘のジェラルディンも。でも素晴らしい人で周りの人々を明るく元気にしてくれるんだ」「彼女は人前で自分の悲しみをみせることはなかった。絶対にプライベイトではいろいろ考えていたに違いないのに。僕らは彼女のことが大好きで、いつも彼女が訪ねてきてくれるのを楽しみにしていた」
ダーモット・マクラフリン「フランキーとマレードがハーコートのセッションにはじめてやってきて、マズルカや、ハイランズ、バーンダンス、ジャーマンズなどが紹介されるようになった」「アルスターの音楽のルネッサンスだ」
ポール・オショーネシー「80年代に彼らがダブリンのセッションに参加するようになって彼らのことを知るようになった。彼らは『北の調べ』をリリースしたんだ。二人はミュージシャンを集めて頑張った。その数年後、アルタンが結成された」
マレード「『北の調べ』はアメリカでも輸入されて手にはいるようになったので、私たちはアメリカやオーストラリアからも招待されるようになったわ。信じられなかった。アメリカに友人がいて、ダヒーなんだけど、彼は今、私たちと一緒にギターを弾いてくれているのだけど、ダヒーはよく私たちをホリディにとアメリカに呼んでくれた」「ニューヨークの有名なタバーンで演奏することになって有名ミュージシャンたちが私たちを観に来てくれた。当時の私たちのヒーローみたいな存在だった人たちだったから、すごく緊張したのを覚えているわ。それからミネアポリスにダヒーを訪ね、そこでも演奏した。ちょうど4度目の結婚記念日だった。ダヒーがいくつか公演できる場所を見つけてくれたのね」