おだにゃら記

地元小田原市中心のゆるゆるフィールドワーク備忘録。
歴史、神社関連、あとはいろいろ。

相模四宮 前鳥神社 鳥とは関係ない

2022年09月30日 23時46分00秒 | 神社

相模国の四宮であり式内社である前鳥神社。

相模国の一宮は寒川神社、二宮は川匂神社、三宮は比々多神社、四宮がここ前鳥神社になります。


二の鳥居
 
一の鳥居は諸事情で撮れなかったのでwikiから
普段は山の中の小さな神社に行くことが多いので
たまにこんな大きな神社に参拝すると緊張してしまうわたし。
 
 
二の鳥居から一の鳥居方向を見たところ。
長くて広い参道は歩いてて気持ちいいですね。







前鳥は「さきとり」と読みます。
 
前鳥とはなにか?どんな鳥さんなのか?
 
 
昔、相模川の下流には相模湾が深く入り込んでおり一面海でした。
 

https://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/pdffile/wt_v101.pdf

6000年前の神奈川の大地 より

 

平塚、茅ケ崎は完全に海。

やがて土地の隆起や相模湾からの西南風により海岸の土砂が運ばれ、島のような砂丘地帯ができるように。

上の図を見ると寒川神社の周辺は6000年前からギリギリ陸地、
古相模湾を眼前に栄え地域の中心地となっていきました。
 
寒川の前の海中に島のような堤防のような陸地が形成されていき
現在の四宮あたりはその端だったので埼取、前取、
あるいは寒川の前にある島なので前島、そのうちになんと島が鳥に誤記されて前鳥に。
 
前鳥という名の由来はこのように諸説あってはっきりとしませんが
 
ひとつだけわかってるのは
生き物の鳥とはなんの関係もないということです。
 
 
 
鳥とは関係ないんだけど絵馬にはニワトリさん。
 
可愛いのでこれはこれで良しとしましょう。
鳥好きのわたしは大変ほっこりしました。
 
 



前鳥神社の祭神は
菟道稚郎子命、大山咋命、日本武尊 の三柱
このうち大山咋命は明治時代の合祀、日本武尊は昭和61年の合祀と新しい。
 
本来の祭神である菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)は非常に珍しい神様で、
名前の由来である京都宇治の宇治神社と宇治上神社、栃木県の野木神社、そしてここ前鳥神社以外では見られません。
 


菟道稚郎子命は十五代応神天皇の皇太子。
百済から来朝した阿直岐、王仁に論語その他漢籍を学んだ当時最高の学識者でした。
ですから前鳥神社は学問にご利益があるとされてます。
 
菟道稚郎子命は皇太子でしたが、応神天皇崩御後は兄王に遠慮し即位せず。
兄王も皇太子は弟王だからと即位を固辞。
三年も空位が続き世が混乱してしまい、これ以上長く生きて世を煩わすことはできないと、
ついに菟道稚郎子命は自ら命を絶ってしまいました。
兄王は嘆き悲しみ、ようやく皇位につく決心をする。この兄王がのちの仁徳天皇。
 
昔はこの話が「謙譲の美徳」とされたのだけど
現代では何も死ぬことは・・・と思ってしまいます。
 
 
ですが菟道稚郎子命は一命を取りとめ東国に落ち延びたという説があり、
その地こそがここ平塚四宮なのです。

四宮周辺には古墳が多くあり、一番大きいものが前鳥神社から西に1500mのところにある真土大塚山古墳。
相模国最大の前方後円墳または前方後方墳とされ、中国魏時代の三角縁神獣鏡など
大和政権と深い繋がりがあったと想像できる副葬品が出土していることから菟道稚郎子命の墓ではないかという説があります。
 
 

平塚市博物館より 昭和35年当時の真土大塚山古墳(北の低湿地から南の砂丘を望む)
 
昭和46年発行の「相模の古社」では開発が進む大塚山古墳周辺の状況から、いつまで原形をとどめているかと著者が心配していますが
その心配通りに現在までに大塚山古墳は消滅しています。
 
しかも調査が不十分だったので古墳の詳細は永久にわからないまま。


境内社の神戸神社
 
 

こちらは奨学神社
 
祀られてるのは百済の阿直岐と王仁、菅原道真。
本殿の菟道稚郎子命と合わせて学問の超強力メンバー。
わたしも若き日にここにお参りしていれば・・・


奨学神社の内部にはダルマさんがびっしり。
 


豪華な唐破風のついた社務所
 
研修や講演会などにも使われるそうです。




帰りにそば処名古屋へ。
将軍そばを食べました。

 
 

朝日観音堂 藤原範茂の従者の墓

2022年09月21日 23時19分00秒 | お出かけ

承久の乱の張本公卿として南足柄市で処刑された藤原範茂。

その墓のある範茂史跡公園から北に1.5キロほど、
朝日観音堂の敷地に範茂の従者の墓と伝わる宝篋印塔があります。

 
 
小田原山北道を西に入りアサヒビール神奈川工場と南足柄球場の間くらい。

徐々に山深くなり民家がまばらになっていく道路沿いに
おもむろにデンッと建ってるので最初は少々驚いてしまいました。
 





朝日観音堂の歴史は古く、
かつては沢沿いを数百メートル西、足柄古道に近い場所にあり、そこは朝日がよくあたる場所だったといわれてます。
山津波などで被災してこの地に移転されました。

現在の建物は江戸時代中期のもの。
以前は向かいの平等寺の持堂でしたが、今は上怒田自治会の管理。

昭和48年に朝日観音堂とその土壇が南足柄市の文化財に指定されています。
 
 




茅葺がもうヤバいですね。
最後に葺いたのはいつなのか。
建物もあちこち痛みが進んでるようで立ち入り禁止のロープが張られてます。
 
市の文化財にしか指定されてないので全て修復できるのか心配です。
 
 

これが亀腹と呼ばれる土壇。
 
床下の土を盛り上げることにより雨水の侵入を防ぐなどの効果があるらしい。
実際に建物と土壇が残されてるのを間近で見たのは初めてかもしれない。
 
土壇だけ残されているのは見たことがあって(平泉の毛越寺など)
この盛り上がりの上に柱を立てたのかな?なんて間違った想像してました。
 
 
宝形造の美しさが際立つ裏側。
てっぺんの煙出しがよく見えます。

観音堂の裏にある藤原範茂の従者の墓。
範茂に殉死した従者の墓です。


この宝篋印塔も南足柄市の文化財に指定されてます。
 
 

戦前は木刀がたくさん供えられていたと。

木刀といえば源義朝の墓が有名ですが、ここも何かわけあって木刀なのでしょうか。

従者とだけで、名前もなく人数さえ分からず。
古の世の習いとはいえ悲しいことです。
 


主人範茂の宝篋印塔より状態がよく綺麗です。

範茂史跡公園の宝篋印塔は実は誰を供養したのか確証はないので、
もしかしたらこちらが範茂の墓なのかも
という疑問も沸々と。

でも刀剣で処刑されるのを嫌がってた人に
木刀を供えるってちょっと変かな。
 

朝日観音堂にあった聖観音菩薩(平安仏)、左右の兜跋毘沙門天像ともう1体肩や(平安仏)、および小仏像13体は神奈川県の指定文化財。
現在は境内の収蔵庫に保管されています。
 


兜跋毘沙門天像はとてもユニークな仏像で、関東ではとても珍しいです。


聖観音
画像はこちらから

通常は17年に一度のご開帳ですが、
事前に連絡すると見せてくれるそうです。



お地蔵さまや庚申塔など


道路脇に名号塔もありました。
よく見る唯念さんの字とは違う気がする。
安政6年のもの。



承久の乱 藤原範茂の墓

2022年09月17日 23時32分00秒 | お出かけ

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は将軍実朝の時代に。

和田義盛邸でみんなと鍋を囲む実朝の姿が可愛らしくせつない。
あの穏やかな日常がずっと続いてくれればと願わずにはいられません。
が、史実は否応なく鎌倉幕府最大の悲劇へと、
そしてクライマックスの承久の乱へとまっしぐら。
 

さて、承久の乱では惨敗した後鳥羽上皇たち主な皇族は流罪。
葉室光親・一条信能・源有雅・高倉範茂・中御門宗行  
の5名の公卿が合戦の張本(戦争責任者)として京都から鎌倉に護送途中で処刑されました。
 
そのうちの1人、高倉(藤原)範茂の墓が南足柄市怒田にあります。
 
 
 

墓のある場所は範茂史跡公園として整備されています。

74号線の切り通し交差点付近、善福寺裏の高台にあるため普通に走ってると気づきにくいかも。


藤原範茂は藤原南家高倉流の出。
母は平清盛の異母弟の娘(つまり姪ですね)
姉は後鳥羽上皇の妃で後の順徳天皇の母。
5名の張本公卿の中でも特に後鳥羽上皇の寵愛を受けていた人物のようです。
 
 

承久の乱後、合戦の張本公卿5名は鎌倉に護送される道のり途中でそれぞれ処刑されます。
 
一度鎌倉まで引き出されてその後処刑されるのかと思ってたら違うのですね。

処刑宣告はすでに京都にいる時されていて、
でも執行は京都以外がいいだろうと、とりあえず鎌倉に向かい、
その道程で鎌倉幕府から「そろそろやりなさい」と執行命令が届く。届いた時点ですみやかにやる。

小田原の荒久海岸近くには元弘の変で処刑された平成輔の墓があって、彼も鎌倉護送の途中の早川で斬られています。

 
公卿5名はそれぞれ預かりの御家人によってバラバラに護送されて、美濃や駿河などバラバラの土地で処刑されています。

藤原範茂の場合は北条泰時の弟、朝時が護送の役目についていました。
他の公卿より執行命令が届くのが遅かったのか、足柄峠を越えて関本宿でようやく執行となるのですが、
範茂はその段になって「刀剣は嫌だ!入水したい!」と言い出すんです。
首と胴が離れるのがダメというより、刀剣自体がダメなようです。
(だったらもっと早く言えばいいのに)

と言われても
近くに入水できるほどの深さのある川はなく、役人たちは宿のすぐそばの清川(貝沢川)を石で堰き止め、顔をつけれるくらいの淵をつくり
(酒匂川や狩川に行けば良かったのでは?)
僧侶を呼んできて出家もさせてあげた。

鎌倉の皆さん優しい。
 

でも浅くてなかなか死ねない範茂は
淵を造り直せ!と命じる。
(なぜそんなに偉そう?)

仕方ないので最後はみんなで頭を押さえつけて息の根を止めてあげたそうです。

鎌倉の皆さん本当に優しい。
 
 
画像は 中世歴史めぐり から

承久記絵巻には範茂が川で頭を押さえつけられてる様子が描かれてます。
いや、これはひどい、恐ろしい。
北条朝時と見られる人物はあまりのむごさに顔を背けています。

斬ってしまえば簡単に済むのにこんな手間のかかる入水が許されたのは範茂の身分ゆえでしょうけど、朝時もきっと優しい人だったんでしょうね。
 
 
範茂の遺体は入水した貝沢川から見上げる高台に葬られ、室町時代にこの宝篋印塔が建てられています。
 



700年以上地域で大切に守られてきましたが
欠損や修復部分が多くて変な形になっちゃってます。
 
昭和4年の植木直一郎氏の「承久殉難の五忠臣」には
墓地の周囲には9本の高い松があり、墓のそばには大きな椿の木があると書かれています。

範茂たちは謀反人とはいえ、後鳥羽上皇の忠臣でしたから人々から敬愛され墓も大事にされていたのですね。

 

墓のそばの五輪塔など。
これは近隣のものが集められたのでしょう。
 



公園には遊具も。

高台の目立たないところにある公園なのでいつも人は少ないです。

でもそれだけに小さいお子さん連れには思いっきり遊べる穴場のようで、
この日もお父さんと2人のちびっ子が芝生を走り回ってました。



公園から見る足柄平野



なぜか今回は
ですます調
 

ロマンチック街道の子之神社

2022年09月10日 23時15分00秒 | 神社

御殿場の二岡神社を過ぎて沼田地区を通る市道、

駿東広域農道は別名ロマンチック街道と呼ばれている。

 



ロマンチック街道の適当なマップが見つからなかったので
御殿場GCからのお知らせ から借りて加筆。
 
この辺りはroute246など大きい道から少し奥に入ると里山の光景が素晴らしくのどかな道が続いている。
田舎の景色に興味がない人から見れば何にもない所なんだろうけど
ロマンチック街道と名がつくとちょっとイメージが変わるかもしれない。
 
 

ロマンチック街道沿いの沼田直売所。
 
なぜか私はのれんの写真しか撮ってなかったので
 
 



小さな直売所だけど野菜や果物の品揃えがいい。
この間買ったオクラは大きくて美味だった。
 
 
直売所の近くにある子之神社。
 
最初に行った時は駐車場がなくて困ったのだけど、
直売所から遊歩道があるので直売所に止めたままでよかったらしい。
 


この子之神社は毎年10月に行われる湯立神楽で有名。
 
湯立神楽とは大窯に湯を沸かしその湯を葉で振りかけるなどして
吉兆を占ったり無病息災や五穀豊穣を祈る神事。
形式の違いはあれ全国の神社で広く行われている。

神奈川だと藤沢の白旗神社が有名なのかな。あとは横浜方面に多い。
小田原では多分行われてないので私は一度も見たことはない。
 
ここ沼田の湯立神楽は湯立を獅子が行う珍しいもので、
御殿場と箱根だけで見られるタイプだとか。
 

 
獅子は子供の頃のトラウマでちょっと怖い。
 
 
今年令和4年3月、沼田地区と大坂地区そして箱根宮城野の湯立神楽が国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 


境内には湯立神楽用の立派な蔵もある。
 
でもこれも案内板も表記はまだ昭和42年の県の指定文化財のままなので早く書き直すべきだ。
国の指定というのは物凄いことなのだから。
 


掲示板に興味深い張り紙多し。
 
祭神は大国主命だけ。シンプル。
創建は不明だけど江戸初期に再建の記録あり。
 
二岡神社との繋がりが深く、かつては二岡の神官が祭事に奉仕していたという。近いからね。
 
二岡神社は古くは二岡七所権現といい、一~七岡にそれぞれ社があったのだけど
その場所が今は全然わからない
と前に書いたと思うのだけど
ここがその内の一つ、なんてことはないかしら。
 

 




がっちりとした石垣。

階段登ったとこにある二の鳥居が小さい、低い。
狛犬もミニサイズ。どうしてだろう。可愛いけど。
 

社殿
 


湯立神楽が行われる境内広場
 

沼田地区には金太郎伝説もある。
 
「足柄山の金太郎~」という歌のせいもあり金太郎の生地は足柄山と一般的に思われてるけど、
実は他にも候補地はたくさんあるのだ。
 
沼田には姥子沢、金太郎橋、坂田本など金太郎にまつわる地名が多くあり、子之神社の社殿には金太郎の絵馬、
境内には金太郎の力石があるという。
 
 
境内を歩いた限りでは力石っぽいものはこの石くらいしか見当たらず。
神社にはよく力石が奉納されてたりするけど、これは金太郎の力石にしては物足りないかな。
南足柄市の「金太郎の遊び石」なんぞは人間が持てる大きさではない。
 
後ろの石碑の碑文はまったく読めない。
力石じゃなかったらなんだろうこれ?


「駿河志料」に
【子神】社地に龍宮石、辯天石と称する石あり。来由を知らず。

とある。

そう言われると、なんとなく亀っぽく見えてくる。龍宮伝説になってしまうね。
 


神社の前の様子
開けた田園風景が気持ちいい。
 
左側に湯立神楽の絵が描かれた貯水タンクが見える。
その隣にブルーベリー狩りができる農園がある。
ロマンチック街道はブルーベリー推し。
 
 

裾野市千福の十二神社

2022年09月02日 18時14分00秒 | 神社

google mapに行きたいスポットを保存してるのだけど、保存してしばらく経つとどういう場所なのかなぜ行きたかったのか忘れてしまうこともしょっちゅう。

裾野市の十二神社もそんなふうに保存してたのに忘れてしまっていた神社だった。
 
確か6年くらい前に千福城に行った時、
次にこの裾野に来たら寄ってみようと十二神社にチェックを入れたのだけど、千福城自体がその頃は整備が進んでなくて
(今もかな?)
記憶にあまり残らなかったせいかも。
 
 
先日の五竜の滝訪問の際に、マップを見てハッと思い出した。
そうだ、ここに行きたかったのよ。
 
五竜の滝から車で10分足らず。住宅が途切れて寂しい山道に入る直前に十二神社はあった。
 
 
この雰囲気だけでもう身震いもの。
あぁなんでもっと早く来なかったのか。
 
 
 


鳥居の前に丸い石が祀られている。
 
丸い石がお祀りされてるのは時々見かける。特に甲府方面で多いと聞いたことがある。
 
 

鳥居をくぐると階段とウネウネとした参道。
参道が曲がってるのは古代の神社に多いと書いたことあるけど、
ここはこの地形ゆえに参拝者に安全に登ってもらおうという配慮を感じる。
決して古い参道ではない。

小さな水路が流れており
 

水路の向こうに水神さま。
変な位置にいらっしゃる。


 
膝痛の私でも登りやすい



社殿が見えてきた
 
 




青い瓦の社殿は珍しい
 





千福地区の氏神であるこの神社は創建寛永年間(1624~43)
比較的新しい。
 
十二神社の十二とは
「十二様」と呼ばれる山の神であったり、熊野十二所権現を勧請したものだとか。
 
この十二神社の祭神は「駿河志料」によると
伊勢神命、走湯権現、、熊野三社、山王権現、富士浅間、第六天、愛鷹明神、
駒形権現、三嶋明神、八幡宮、箱根権現、金毘羅神 
 
以上十二神
 
なんか熊野十二所というより
著名な神と近隣の神をなんでもかんでも集めてみました感。

 
そして明治16年(1883)「神社明細帳」では
国常立尊、国狭土尊、豊受斟渟尊、泥土煮尊、沙煮尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊 
(天神七代)
大日孁貴、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火々出見尊、鸕鶿草葺不合尊
(地神五代) 
天神地神合わせて十二神
 
これは明治の神仏分離によって仏教色を排除したためだと。
熊野っぽくわかりやすくなった。

それにしても十二というのは多い。


余談だけど
今日「チコちゃんに叱られる」で
なぜ人は12個で物をまとめたがるのか?という疑問を放送していた。

答えは争いが起きにくいから。
12は約数が多いから公平に分けやすいのですって。なるほど。
十二神社とは関係ないけど12繋がり、面白かった。
 


 
社叢は暗くしんとしている。
漂うように咲くウバユリが幻想的で心細くもなる別世界感。
 
 
ここに来て知ったのだけど裾野市には須山地区にも十二神社がある。
そちらも千福に劣らず素敵そうなので行ってみたい保存しておいた。
 
忘れない内に行かなくちゃ。