おだにゃら記

地元小田原市中心のフィールドワーク備忘録。
歴史、神社仏閣、あとはいろいろ。


どうする河村城

2023年04月28日 22時10分00秒 | お出かけ
山北町の河村城へ。

河村城は神奈川県指定史跡で、
小田原近辺の山城としては足柄城や山中城に並んで整備の進んだ見学しやすい城跡です。



案内図




河村城の本格調査が始まったのは平成元年からで
歴史公園として公開されたのは平成6年。
県史跡に指定されたのは平成8年。

と、まだまだ整備の歴史が浅く
そのためいつ行ってもどこかしら何かしらの進捗が見られて楽しかったんです。








ですが楽しいだけでなく
首を傾げてしまうような整備もあり
城好きの方たちからは結構な批判も出てたりします。

近隣住民としましては
そんな批判を目にするたびに
まだ整備途中だから大目に見てあげましょうよ なんて訴えてたんですけど(心の中で)

最近は
もう
私自身も大目に見ていられない
ちょっと何してんのよどこへ行くのよ河村城!
といった様相に。




河村城最大の堀切。

批判されたのはこのコンクリートで覆った橋脚。
できたのは8年くらい前だったか。
安全のためらしいのですが何もここまでしなくてもとショックを受けました。
これじゃまるでダムです。

今でも見るたびに悲しくなる堀切です。




河村城の東半分は平安末期の河村氏による城域。(西半分は北条氏による改修が多い)
上図の現在地から左側の部分です。

長いこと整備が進まず荒れ地化してたのですが


4年前に
なんと展望あづまやができました







あづまやから見た大庭廓や近藤廓の様子。
さっぱりと整地されて遊歩道もできて気持ちのよい広場になりました。
城跡というよりは高原のような雰囲気。



新田義興居城河村古城跡絵図 


新編相模国風土記稿 より

綺麗になったのはいいんですが、
上の古絵図にもハッキリと描かれてる大庭廓や水廓の存在がスルーされちゃってます。

以前は申し訳程度に小さな案内板があって
これから整備しますよ〜な雰囲気だったのですが、
今は何もないです。

ただ広場があるだけ。


こちらは水廓からの足柄平野の眺め


このような説明板はありますが、ここを水廓と示すものはいっさいありません。

また、この付近は大手口になるのですがやはり説明はありません。




南側の城址入り口

もともとあった盛翁寺側の城址入り口は沢沿いに坂道が続くのでこちらの方が断然楽なのですが、
整備が進む中で馬違戸が駐車場になってしまいました。


このように
荒れていた大庭廓側が綺麗になったのは結構なのですが、
城址としての説明が少なくただの広い野原にしか見えない現状。
城のためというよりは
河村城まつりで数年前から催されるようになった流鏑馬のためなのかな?

とか思ってしまいます。



一応県の史跡なので、まつりより歴史を優先してほしいです。

娯楽より史実を重視してほしい。
あら、
まるでどこかのドラマのことみたい。

ほんと
これから

どうする河村城?





あとですね

本城廓西の馬出廓から西廓、北廓、
こちらはハイキングコースが通ってるだけでここ数十年何も変わってないのでそろそろ何とかしてほしい。
(馬出廓だけ木の伐採が進んだ模様)

管領記に記された
「山嶮にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」
という南北朝動乱期の河村城を彷彿とさせる場所だと思うので
広場つくりの次はぜひこちらの整備お願いしたいものです。



藤棚と幸田口門土塁と日清亭とか

2023年04月23日 21時08分00秒 | 小田原城
日曜の小田原城散歩






御感の藤

今年は開花が早く
満開の時期を逃してしまったみたい。











梅林駐車場遊歩道の藤棚

こちらもいつの間にか満開過ぎてました。



銅門前の小さい藤棚は満開


うっとり…






御濠端幼稚園側から堀に出て



幸田口門跡の土塁へ


土塁を歩きます









郵便局側に出る階段から石垣が見えます。

この石垣の外側、小沢病院や郵便局がある通りはかつて三の丸の水堀でした。




昨年12月に解体工事が始まったけど
ほとんど進捗が見えない市民会館。




えっ?
来年の8月までかかるの??

大手口から天守が見える景色を楽しみに待ってるんですけどー




こっち側はまだ足場もかかってないです。
なんでそんなに時間かかるんでしょう。



日清亭でちょっと遅いランチ。
ラーメン&半チャーハン。

チャーハンが先に来てバクバク食べてしまったので撮影タイミング逃す。
(日清亭のチャーハンすっごい好き)






きんじろうの報徳広場の庭。
オープンして2年ちょっと、植物が成長していい感じになってきました。



路面電車で休憩。

そういえば
ここのカフェにはまだ入ったことないなぁ。



地獄の隣の極楽寺

2023年04月15日 22時28分00秒 | 

清左衛門地獄から徒歩10分ほどのご近所さんには極楽があります

 
 

上関山極楽寺
 
開山は今川2代当主今川基氏の子、大喜法忻(仏満禅師)
開基はその弟で駿河今川家の初代今川範国。
今川氏と関係の深い臨済宗の寺です。
 
 
こんなに近い距離に地獄と極楽という名が並んでるなんて面白い
 
 





散る桜が美しい参道

極楽ですね
 


極楽寺には中興開基である松田憲秀の供養塔があります。
 
この南足柄市による説明板は、清左衛門地獄のものもそうですがかなり古く、
小さい子どもに聞かせる昔話のような内容なので そろそろ新しくしてほしいところ。
 
 



立派な彫刻な施された鐘楼
 




 

裏山にあるという松田憲秀の供養塔を探します。
 
案内板などはないので
(あとで寺のサイトに境内の案内図があることに気づきました)

墓地を抜けて適当に坂道を登り
古い無縫塔や宝篋印塔の並びをさらに奥へ進むと
 


ありました。
一番右が松田憲秀の供養塔です。
 
 

読めない部分が多いですが
寛永10年に松田憲秀25回忌追福のために建てられたようです。
 
松田憲秀が切腹したのは小田原城開城直後の1590年、
寛永10年は1634年なので25回忌というのはおかしいですね。
 
憲秀の没年は明確になってないので、もしかしたら1600年以降も生きていたのかもしれません。
それとも25回忌の供養塔を10年以上後に作ったとか。
 
そもそも松田憲秀の本当の墓はどこにあるのか?
というか松田家の菩提寺ってどこなんでしょう?
 
 


左から二番目は開山大喜法忻の供養塔(開祖寂照塔)
 
一番上の空輪を丸くして文字を刻んでる珍しい五輪塔。
 
入定という文字に慄いてしまい後で調べたところ
大喜法忻は応安元年(1368年)、鎌倉円覚寺の続燈庵にある岩窟で入定したそうです。
 
入定の意味はいろいろあるようですが
一般的には僧が岩窟などに籠りそのまま亡くなることですよね。中には即身仏になられる方もいる。
 
 
わかってはいるけど
複雑な思いが駆け巡ってしまいます。
 
あ、でも大丈夫。
高僧が開かれたこの寺は極楽。
 
 


墓地の隣のこんな穏やかな景色に癒されながら
極楽から現世へと帰りました。

なぜ地獄? 清右衛門地獄池

2023年04月10日 00時59分00秒 | お出かけ
南足柄市狩野、
大雄山線富士フイルム駅から徒歩20分ほどの長閑な住宅地に地獄と呼ばれる場所があリます。



それがここ、清左衛門地獄池












厳島神社が中央に浮かぶ
この美しい湧水池が地獄。







ジオ含め説明板が3つも。

3つめの説明板をコピーしておきます。
(とっても便利なGoogleレンズ)


昔、清左衛門という人がよい水源をさがしにここまで来ますと

乗っていた馬もろとも地中深く落ちこんでしまいました。

そしてそこから勢いよくたくさんの水が湧きだしてきました。

それからは土地の人々が行って「清左衛門、清左衛門」と呼ぶと、いっそう勢いよく水が湧き出してきました。


これはこの池に昔から伝わる伝説ですが、

この話からも昔から農民たちがいかにたくさんのよい水を欲しがっていたかがわかります。


清左衛門という人は昔からあった池を改修して常時たくさんの水を貯められるようにしたか、

または池の開発のために犠牲になったのか、あるいはこの地方の有力者であって

農民たちのために水利権を守ったのかもしれません。

また狩野には昔から加藤氏という有力者がいましたので清左衛門を加藤氏と結びつける人もいます。

いずれにしても、この近くの富士フイルム社の敷地から五〜六〇〇〇年も前の縄文時代の人々の住居跡が発見されたことが

すでにここによい池があり人が生活していたことの証拠になります。 


明治になってから狩野の漢学者で、のちに八王子に出て斯文学院という学校をひらいた奥津広という先生がいました。

この人は地獄というのはよくないといって、当時高野山の学頭(坊さんを教育する主)の先生に相談して

この池を「浮泉」と名づけたといいます。




馬と一緒に沈んでしまうなんて

まるでネバーエンディングストーリーの悲しみの沼(泣)


あ、でも愛馬を亡くしたけど少年アトレイユは無事なので、馬諸共沈んでしまった清左衛門さんの方が悲劇性大です。



清左衛門さんが何者で本当は何があったのかはわかりませんが

地獄と呼ばれるほどの何かがあったんでしょう。なんだろ。


よく温泉や火山になんとか地獄と名がつきますが、それとはまた意味が違うのでしょうね。



狩野出身の奥津先生が名づけてくれたという「浮泉」は残念ながら定着せず。

美しい名ですが清左衛門地獄のインパクトには勝てません。もうずっと地獄でいいと思います。


なお、狩野の有力者加藤氏というのは大森氏の家臣です。

大森氏失脚後は加藤氏のほとんどは帰農していますので、今でも南足柄市には加藤さんがとても多いです。




平成の名水百選に選ばれてるというので
他の名水はどんな名なのか調べてみましたら
なんとかの川とか滝とか清水とかそれはそれは透明感ある素敵なお名前ばかり。
地獄なんてつくのはここだけです。

ですが1つ
ジッキョヌホー
という度肝を抜かれるような名水がありまして。これは完全に負けましたな。

沖永良部島ですって。あぁ行ってみたい。


池の隣にある弁財寺




お堂の奥に東屋や滝があります



人工の滝ですが湧水が利用されてるので水は綺麗






池の周囲の散策路

水神

可愛い祠


清左衛門地獄には何度か来たことがあるのですが、いつ来てもほとんど人はいません。
駅からちょっと遠く入り組んだ住宅地にあり駐車場もないので知名度低いようです。

この日は散ってるとはいえ桜がまだ見れる時期だったので、数人のハイキング客とすれ違いました。




総世寺と森と水の公園

2023年04月04日 21時34分00秒 | 
日曜日
総世寺の桜にギリギリ間に合いました








総世寺は道路挟んでお隣の鈴木ざる菊園さんの協力の下、ざる菊が有名になりましたが
春の桜も迫力があり素敵です。



いつ来てもお庭が発展途上中で 
完成が見えないので(特に裏庭)
もうこれは久野のサグラダファミリアなのかなと 笑



真っ赤な木瓜


梅の実



開山は安叟宗楞
開基はその甥の大森氏頼

安叟宗楞は大森頼明の子
黒衣の宰相と呼ばれ大森一族の繁栄を支えた名僧

大森氏頼は法名寄栖庵、岩原城主、小田原城主
太田道灌とともに扇ヶ谷上杉家の重臣として活躍

大森ビッグ2とも言えるこの2人が
北条氏以前の西相地区発展に大きく貢献しました。



氏頼の娘が三浦高救に嫁いで産んだ男子が義同。
三浦氏の内紛により祖父を頼り総世寺に逃れ、出家し道寸と名乗ります。

やがて道寸は三浦一族の当主となり、伊勢宗瑞(北条早雲)と戦い敗れ
三浦半島の新井城で息子義意と共に討死。

平安時代中期から続いた名門三浦氏はここで滅亡しました。



道寸の息子義意(荒次郎)は大変な巨漢で武芸に優れた人物で
北条の兵を1人で何百人も討ち取った後に首を掻き切って自害しています。

その首が小田原まで飛んできて井神の森の松に引っかかり
3年間も通行人を睨みつけ小田原を呪っていたとか。

そこで総世寺の和尚(4世忠室宗考)が供養したところ首は白骨化し
「今後はこの地を守る神となろう」
と、居神神社の祭神となり今も見守っていてくれてます。


とまあ、こんな感じで
総世寺は大森氏や三浦氏、北条氏とゆかりが深く
郷土史を考える上で興味の尽きない寺であります。



居神神社創建500年記念でいただいた荒次郎巾着


帰りに森と水の公園へ
桜の季節に訪れるのは初めてです。






見事な散り際の美しさ




遊歩道ができてました

わたしは何度かここにはまって靴をドロドロにしてたので有難い











椿もそろそろおしまいですね





溜池のカモさんたちのラブリーな様子