大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は将軍実朝の時代に。
和田義盛邸でみんなと鍋を囲む実朝の姿が可愛らしくせつない。
あの穏やかな日常がずっと続いてくれればと願わずにはいられません。
が、史実は否応なく鎌倉幕府最大の悲劇へと、
そしてクライマックスの承久の乱へとまっしぐら。
さて、承久の乱では惨敗した後鳥羽上皇たち主な皇族は流罪。
葉室光親・一条信能・源有雅・高倉範茂・中御門宗行
の5名の公卿が合戦の張本(戦争責任者)として京都から鎌倉に護送途中で処刑されました。
そのうちの1人、高倉(藤原)範茂の墓が南足柄市怒田にあります。
墓のある場所は範茂史跡公園として整備されています。
74号線の切り通し交差点付近、善福寺裏の高台にあるため普通に走ってると気づきにくいかも。
藤原範茂は藤原南家高倉流の出。
母は平清盛の異母弟の娘(つまり姪ですね)
姉は後鳥羽上皇の妃で後の順徳天皇の母。
5名の張本公卿の中でも特に後鳥羽上皇の寵愛を受けていた人物のようです。
承久の乱後、合戦の張本公卿5名は鎌倉に護送される道のり途中でそれぞれ処刑されます。
一度鎌倉まで引き出されてその後処刑されるのかと思ってたら違うのですね。
処刑宣告はすでに京都にいる時されていて、
でも執行は京都以外がいいだろうと、とりあえず鎌倉に向かい、
その道程で鎌倉幕府から「そろそろやりなさい」と執行命令が届く。届いた時点ですみやかにやる。
小田原の荒久海岸近くには元弘の変で処刑された平成輔の墓があって、彼も鎌倉護送の途中の早川で斬られています。
公卿5名はそれぞれ預かりの御家人によってバラバラに護送されて、美濃や駿河などバラバラの土地で処刑されています。
藤原範茂の場合は北条泰時の弟、朝時が護送の役目についていました。
他の公卿より執行命令が届くのが遅かったのか、足柄峠を越えて関本宿でようやく執行となるのですが、
範茂はその段になって「刀剣は嫌だ!入水したい!」と言い出すんです。
首と胴が離れるのがダメというより、刀剣自体がダメなようです。
(だったらもっと早く言えばいいのに)
と言われても
近くに入水できるほどの深さのある川はなく、役人たちは宿のすぐそばの清川(貝沢川)を石で堰き止め、顔をつけれるくらいの淵をつくり
(酒匂川や狩川に行けば良かったのでは?)
僧侶を呼んできて出家もさせてあげた。
鎌倉の皆さん優しい。
でも浅くてなかなか死ねない範茂は
淵を造り直せ!と命じる。
(なぜそんなに偉そう?)
仕方ないので最後はみんなで頭を押さえつけて息の根を止めてあげたそうです。
鎌倉の皆さん本当に優しい。
画像は 中世歴史めぐり から
いや、これはひどい、恐ろしい。
北条朝時と見られる人物はあまりのむごさに顔を背けています。
斬ってしまえば簡単に済むのにこんな手間のかかる入水が許されたのは範茂の身分ゆえでしょうけど、朝時もきっと優しい人だったんでしょうね。
範茂の遺体は入水した貝沢川から見上げる高台に葬られ、室町時代にこの宝篋印塔が建てられています。
700年以上地域で大切に守られてきましたが
欠損や修復部分が多くて変な形になっちゃってます。
昭和4年の植木直一郎氏の「承久殉難の五忠臣」には
墓地の周囲には9本の高い松があり、墓のそばには大きな椿の木があると書かれています。
範茂たちは謀反人とはいえ、後鳥羽上皇の忠臣でしたから人々から敬愛され墓も大事にされていたのですね。
墓のそばの五輪塔など。
これは近隣のものが集められたのでしょう。
公園には遊具も。
高台の目立たないところにある公園なのでいつも人は少ないです。
でもそれだけに小さいお子さん連れには思いっきり遊べる穴場のようで、
この日もお父さんと2人のちびっ子が芝生を走り回ってました。
公園から見る足柄平野
なぜか今回は
ですます調