おだにゃら記

地元小田原市中心のフィールドワーク備忘録。
歴史、神社仏閣、あとはいろいろ。


寒田神社 大洪水を乗り越えた式内社

2022年08月25日 23時17分00秒 | 神社
松田町にある寒田神社は相模国式内社13社のひとつ。
神奈川県西では唯一の式内社である。
 



 



境内には由緒書きなどの説明板が多い。
全部読むだけで式内社やこの神社についてかなり詳しくなれる。
 
 
上の神宝の椀はこちらにわかりやすい写真があった。
 
松田町の指定文化財
弥生時代というとんでもない古さのお椀。
 
 
 

岩山に登ってる親子の狛犬。とても微笑ましい。子供キュート。




神紋は輪宝という仏教アイテム。
如意輪観音が指先でくるくる回してるあれだ。これは剣が八本なので八剣輪宝。
 
 

ヤマトタケルが腰かけたという腰掛石。
 
寒田神社の祭神は「倭建命(ヤマトタケル)」「弟橘比売命」「誉田別命」「菅原道真」の四柱だが、
弟橘比売命は1400年代に、誉田別命と菅原道真は大正時代以降に合祀されているので、
元々は倭建命だけが祭られていた。
 
でもヤマトタケルが東征でこの地に来た時にはすでに宮があったので、祭神がヤマトタケルだけというのはおかしい。
左無多(寒田)という神が祭られていたのだろうと推測されてるが、何しろかなり古い時代のことなのでよくわからない。
 
 
 
 
篠窪の三嶋神社に元々祭られていた根渡神は合祀を重ねる内に忘れられてしまったが、
寒田神社もヤマトタケルというビッグネームが加えられたことによりそれ以前の神の影が薄くなってしまったのかもしれない。
なんとか祭神の名を留めている篠窪三嶋神社よりひどい忘れられっぷりだ。
 
 
 
2015年の式年大祭の祭に配られた「御創建千七百年記念誌」によると
1654年(承応3)の酒匂川大洪水で寒田神社は本殿と周囲竹木地以外ほとんどの建物や土地が流出してしまったそうだ。
 
たくさんの人命も失われ、神職家も断絶してしまうほどの災害だった。 

もちろん古文書や宝物も失ってしまったようで(お椀は?)
古い祭神に関わる記録も語り継げる人もなくなってしまったのかもしれない。
 
 

鳥居の外にはすぐに道路が横切っていてその先は住宅地で参道らしきものは見当たらない。
 
由緒ある式内社らしからぬ光景だが、これも1654年の大洪水で鳥居や参道どころか土地自体が消えてしまったことによる。
 
洪水の前の参道はこんな様子だったそうだ。
 

「御創建千七百年記念誌」より

一の鳥居から三の鳥居まで290mに渡る参道があったのだ。
なお当時の酒匂川はもっと西を流れていた。
どれだけひどい洪水だったのか、想像すると恐ろしい。






境内にはかながわの名木100選の樫の木がある。
樹齢500年だから大洪水を生き延びたということになる。

 

吊り橋怖い 五竜の滝

2022年08月20日 20時00分00秒 | お出かけ
涼を求めて裾野市の五竜の滝へ。

裾野市は大森氏関連や城めぐりで何度か来ているが、

有名な五竜の滝はまだちゃんと見たことがなかった。

 

 
五竜の滝は
御殿場線裾野駅から徒歩25分ほど、黄瀬川沿いの裾野市中央公園内にある。



園内に入るとすぐに旧植松家住宅
 


源頼朝が富士の巻狩りを催した際、尾張国津島から移住してきた・・・と。
 
え、わざわざ巻狩りのために尾張から移住してきたってこと?

巻狩りって巻狩りって…





小川や池があり気持ちよく整備された園内
 


いくつかの階段を降りると五竜の滝が目の前に。
轟音としぶきが爽快。


やっぱり滝は真夏に限る。
 
左から「雪解」「富士見」「月見」という名がついており五竜の滝の雄滝と呼ばれている。
雌滝の「銚子」「狭衣」は右奥にあるのだが現在は見れないようだ。



岩盤に何かついてる・・・と気になって、
 
拡大したらサッカーボール?
 
どうやら7月末の豪雨の時にはまっちゃったらしい。
うまく取れるといいんだけど。



明治から昭和初期までこんなリゾート旅館があったらしい。
すっごい贅沢。羨ましい。

 

さて
五竜の滝のそばに吊り橋「五竜のかけはし」がある。
 
うっかり乗っちゃったら揺れて揺れて怖いのなんのって

橋の途中で震える手で撮った一枚。
無理、これ以上は無理。


やっとのことで渡り終えた向こう側は
たぶん昔は雌滝に通じてたのだろうけど現在は通行止め。
特に何にもないしどこにも行けないのでまた橋を戻らなければならない、と知ってクラッとした。
無事に往復戻ったけどしばらく頭がゆらゆらして気持ち悪かった。
 
思い出したのが5年ほど前の寸又峡の夢の吊り橋。
あれは怖かった。ここの100倍怖かったのに喉元過ぎればなんとやらで忘れてしまうのね。

というわけで
私は残された人生の中で、もう二度と吊り橋は渡らないと決意。



滝の下流では水遊びしてる人が多かった。
水遊びは禁止されてないので自己責任で、ということらしい。

暑いし水綺麗だし、入りたい気持ちはわかるけど心配。
どうかお気をつけて。

 


篠窪三嶋神社とニワトリ

2022年08月06日 04時58分00秒 | 神社

また篠窪である。

この間、書ききれなかった篠窪の三嶋神社のこと。
 


小田原成田から大井町あたりには三嶋神社が多くて不思議に思ってたんだけど、
上大井の三嶋神社のウェブサイトでその謎があっさり解けてしまった!
と以前書いた。
 

三島神社の謎 いきなり解決 - おだにゃら記

小田原成田あたりから大井町、開成町にかけて三島神社が多いのはなぜだろう、ということを三島神社がいっぱい-おだにゃら記で書いたんだけど、大井町の三嶋神社のウェブサイ...

goo blog

 
 


上大井の三嶋神社によると、源頼朝が深く信奉していた静岡の三嶋大社を、上大井の宮を中心に六社だか七社だか八社だか勧請したそうだ。
(現在確認できてるのが上の図の七社だがもっとあったらしい)
 
この中に篠窪の三嶋神社も入ってる。
 
篠窪の三嶋神社の由緒は
境内に書かれてるものは特にないけど、
「神奈川県神社誌」と「新編相模国風土記稿」で知ることができる。
長くなるので元の文章は載せれないが、2つの資料をまとめて要約すると
 
篠窪村と神山村の鎮守で、古くは宮地という所にあり(矢倉沢往還沿い、地福寺の上あたり)
根渡神社と称し武内宿祢命(あるいは思兼命)を祭神としていた。
 
やがて上大井の三嶋神社を模して篠窪村にも三嶋神を勧請して別に社を建てた。
そのうち根渡神社は現在の地に移り、三嶋神八幡神(神山村にあった)を合祀。
すると徐々に根渡神への信仰は廃れてしまい、元禄14年(1701)の修理の棟札には三嶋と八幡の名称しか書かれていなかった。
明治6年に名称が三島社となり村社とされた。
  



 
合祀したことにより最も古い神が廃れる、忘れられることもあるとは興味深い。
とは言っても現在の篠窪三嶋神社の祭神は以下で、根渡神の名は言い伝えられているので安心した。
 
 大山祇命、事代主命 (三嶋大明神の二柱)
 誉田別命 (八幡神)
 武内宿祢命 (根渡神)
 
 
それよりも興味深いのは篠窪の三嶋神は上大井の真似をして勧請されたということ。
源頼朝が命じたのではなかった。
篠窪以外の三嶋神社でも、少ない資料の中で源頼朝は出てこない。
 
おそらく頼朝が勧請したのは上大井の宮だけで、後にその威光にあやかりたくて
「うちのとこにも三嶋大明神を」「それならおらのとこにも三嶋様を」
という感じで増えていったのだろう。
 
私は神仏の勧請の手順についてはよく知らないが
こんな狭い地域に六社も七社も分霊することは可能なんだろうか。
もしかしたら勝手にやってしまった、なんてこともあったりして・・・
 



さて
篠窪にもともとあって、次第に忘れられてしまった根渡神社について。
 
根渡という神社は北関東から東北にかけて多く、荷渡・庭渡・二羽渡・仁和多利・見渡・新渡・鬼渡など色々な漢字を当てられている。鶏(ニワトリ)から来てるという説がある珍しい名称だ。
 
ニワトリ!に行きついて鳥好きの私はなんだかとても嬉しくなってしまった。(昔はインコやひよこを飼っていた)
根渡神社に名前を戻してほしくなる。
 
鶏は天の岩屋戸の前で鳴いて天照大神を迎えたので伊勢神宮では神使とされているから、鶏を祭った神社があってもなんの不思議もないし、狛犬ではなく狛鶏がある神社もあるらしい。
でも根渡神社の祭神は様々で、神様だけ見てると鶏との関係は無いように思える。
ニワトリは地名から来てるのか?
 
篠窪にあった根渡神社の祭神は武内宿祢命、もしくは思兼命。
どちらも祭神としてはあまり聞かない・・・と思う。
 
そもそも北関東に多い根渡神社がなぜ篠窪にあったのかが謎だ。