おだにゃら記

地元小田原市中心のゆるゆるフィールドワーク備忘録。
歴史、神社関連、あとはいろいろ。

小田原にあった諏訪大社のミニチュア

2024年06月20日 17時23分00秒 | 神社

県立おだわら諏訪の原公園

(おだわら諏訪の原公園パンフより)
小田原フラワーガーデンに隣接する、諏訪の原丘陵を利用した公園。
ファミリー層からの人気が高く、週末はいつも賑わってます。
 
 
公園の中ほどにひっそり・・・
ではなく
なかなか目立つ場所に諏訪神社があります。
 
この土地、府川の鎮守であり、境内が公園内に取り込まれそのまま残されています。
 
 
立派な鳥居が目を惹くので参拝する公園利用者も多いようです。
 
人がいないのを見計らって写真撮るのが大変でした。
 
 



石灯籠は紀元2600年(昭和15年)記念に奉納

私の父の生まれ年です(関係ないけど 笑)



 
ちょっと雑草が多いのが気になります。
たまたま掃除が行き届かない時期だったのかもしれませんが
周囲の公園が綺麗なだけに荒れた雰囲気。
 
 

手水舎に貼り付けた簡易由緒書きも傾いたまま。
 
内容は素晴らしいので是非きちんとしたものを立てていただければと。
 
 

 
諏訪神とは言うまでもなく長野県諏訪湖にある諏訪大社を中心とする信仰。
祭神は建御名方神(タケミナカタ)とその妻、八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)
 

(画像は大津諏訪神社より)
 
建御名方神は大国主命の息子。
天照大御神による国譲りに反対し戦い、諏訪湖まで追い詰められ同地の神となったという古事記の記述でお馴染みです。
 
 
諏訪信仰は全国に広がっており、平成2年の調査ではその神社の数は全国6位を誇ります。
 
神奈川県は少ない方で、小田原市内では諏訪信仰の神社はここ府川だけです。
(菅原神社内の諏訪社など、合祀されてる場合は除く)
 
由緒については久所自治会の宮原諄二氏による
「久所の始まり」に詳しく書かれているので、境内の由緒書と共に参照させていただきました。
 
 

諏訪神社を造営したのはこの地に住み着いた甲斐武田氏の家臣(稲子氏、荒川氏とも)と伝わっており、
その時期は武田信玄の小田原攻めの際とか武田氏滅亡後とか、もっと早く源頼朝の頃だとかはっきりしません。

諏訪の原という地名はもちろん諏訪神社に由来してるので
もっと早い時代からあったとも考えられます。
 
甲斐武田氏に繋がる者が勧請したのは確かなようで
それはかつて府川には諏訪大社と同じように二社四宮が存在していたことから窺えます。
 
本家諏訪大社は諏訪湖を挟んで上社と下社に分かれ、さらにそれぞれ本宮と前宮、秋宮と春宮に分かれています。
4つ合わせて諏訪大社なのです。
 

諏訪大社公式 より)
 
府川の諏訪神社も江戸時代まで4つの宮に分かれていたとされています。
 
現在残されているのは本宮である諏訪神社のみですが、他3宮の位置も地図と登記記録から確認することができます。
公園沿いの道路を下った細窪と呼ばれる場所(庚申塔がある)が前宮、
相洋高校グラウンド(穴部)付近に下社の春宮、
清水新田に下社の秋宮、
 
 

(『農業集落境界データセット』(CODH作成) 「農業集落境界データ」(農林水産省)を加工)
 
 
地図で見ると宮原さんの仰るようにまるで諏訪大社のミニチュア。
諏訪の原公園の北側には調整池が設けられていますが、
もしかしたらかつては諏訪湖を彷彿させる池があったのかもしれません。
 
 
このような諏訪大社のミニチュアを鎌倉〜戦国時代に移住先に作ろうとするのは、
実際に故郷で諏訪大社をその目で見て崇拝していた甲斐武田関係の人たちなのだろうし、
どうしても4つなくちゃダメ!って地元民を動かせる力もあったのでしょう。
 
 
 

競馬が行われていたという広い参道
 
公園の遊歩道のようになってるのでかつての参道かどうかは不明。
公園ができる以前は神社西側を前宮推定地まで道路が走ってました。
 
田代道彌氏は「西さがみの地名」で社前の広場を桜の馬場と言い、
諏訪大社の「御射山」に似た狩猟儀礼が行われていたのではと推察されています。
となると現在の多目的広場一帯が桜の馬場だったのでしょう。
時代が下がって狩猟儀礼が競馬という形で残されたのかもしれません。
 
 

境内横の馬頭観音碑2基
左は大正9年(1920)の鬼鹿毛馬頭観音碑
 
競馬が行われていた名残ですね。
 
 

公園からの足柄平野の展望
 
この土地を挟んで諏訪神社4社がありました。
本家の諏訪大社ほどではないにしても
想像するとかなり壮大な景色が浮かんできます。

現在の諏訪の原公園はかつてのミニチュア諏訪大社の中にあり
みなさんはミニチュア諏訪湖で遊んでいる、
というわけです。
 
 

入生田山神神社 後河原村のロマン

2024年04月26日 22時19分00秒 | 神社
入生田

小田原市民しか読めない地名として時々話題になりますが
読みは「いりうだ」「いりゅうだ」
早川沿いに箱根町湯本と接する小さな集落です。

生田(ウダ)とは湿地の意味。
このあたりは早川の古い流路のため湿地が広がっており、
その中にあった集落だから入生田。
地名の由来はそんなところ。



江戸時代初期、入生田村から後河原(うしろかわら)村が分かれて成立しました。

後河原村の場所は現在の地球博物館から温泉地学研究所あたり。
その頃の早川は現在より北側、今の国道1号線付近を流れていたので、入生田村と後河原村は早川により隔たれていました。
(画像は私がやっとのことで完成させた想像図です)

風土記には戸数三とあり、とても少人数の村。
そんな少ないのになぜわざわざ分村したのか不思議です。
なにか事情があったのでしょうか。
 

天和年間(1681〜83)に洪水があり、
川の流れが南へ移動し、さらに川幅が広がり後河原村の人々の土地は流失、
村人たちは入生田村に移住します。

村ができてわずか100年未満で流されてしまったんですね。




現在の早川の流れ

入生田村に移住しても後河原村は存続しており(戸数は増えたのでしょうか?)
明治13年になって入生田村に合併されました。

今でも入生田には後河原村の子孫がいらっしゃるそうです。



入生田の鎮守
旧東海道沿いにある山神神社(さんしんじんじゃ)

風土記の頃は山神社、祭神は大山祇命。
木挽き、杣職人が山の神を祀ったとされてます。

拝殿の隣に小ぶりな鳥居と石祠があります。
この石祠は流失した後河原村の山神社から遷されたものです。




後河原村成立の頃に作られたのか、時代の流れを感じる古い石祠。

確たる資料はなく言い伝え的かもしれませんが、
後河原村の鎮守があった場所は牛裂き河原と呼ばれていた、という話があります。

牛裂きというと、あの恐ろしい牛裂き刑のことなのか?
それとも単に牛を解体するところだったのか。
なぜそんな場所に後河原村の鎮守が?

何にせよ、嫌な想像をしてしまうワードです。





天狗の団扇デザインの燭台

社殿にも天狗の彫刻があります。
山の神繋がりでしょうが詳細は不明。



末社の祠がいくつか


笠付きの庚申塔は宝永3年(1706)とあり
けっこう古い。
後河原村が入生田村に戻ってきた頃です。


地球博物館の資料によると
ここの境内は小さいながら自然豊かな環境が残されており
特に珍しいダニが多く生息してるそうです。

マダニなど危険なヤツはいなそうなので大丈夫。



旧東海道からの参道は民家に囲まれわかりにくい上に急階段。

紹太寺側からだと楽に入れるし寺の駐車場も利用できるので便利です。




私は板橋で育っており、学区が同じ入生田には仲良しの友達がいて、こどもの頃は時々遊びに来ていました。

ですが後河原村のことは全く聞いたことはなく
最近山神神社を調べるにあたって知った次第。

近隣に謎に満ちた小さな村があったなんて
(勝手に謎に満ちてると思ってる)

ちょっとロマンを感じてしまう発見でした。


江の浦の昌満寺と大美和神社

2024年03月12日 17時07分00秒 | 神社
先週
根府川旧道を通ったらおかめ桜がほぼ満開でした。







根府川は土地柄、
飲食店や宿泊施設を利用する以外は駐車スペースがほぼないので
走る車内から眺めるしかなく撮影もしづらく…

上の2枚は小田原市HPからのものです。



可憐なおかめ桜から一転
小田原城カントリー付近まで登ると前日の雪が残ってました。寒っ

なぜこんなとこまで来てしまったのか。



白糸川上流




気を取り直して
江の浦の昌満寺に寄りました。









境内からの眺め

昌満寺は裏の墓地にあるつつじ園が人気だそうで
4月終わり頃また来てみようと思います。

猫もたくさんいるらしいけど
この日は誰にも会えずさみしい限り。



昌満寺駐車場から見える
お隣の大美和神社の御神木



大美和神社

階段ちょっと大変
左の道路脇に迂回路ありました。


蔵王神社が大戦中に大美和神社と改称されたと。なぜだろう。

根府川の寺山神社や米神の八幡神社同様、
ここでも鹿島踊りが奉納されていましたが
2011年以降は東北大震災の影響や担い手の減少のために中断したそうです。
現在の状況は不明。






拝殿から石垣を登ったところに本殿がある模様



拝殿右に階段がありました

このように完全に本殿が離れてるのは珍しいです。





これはなんだろう



境内からの眺め

昌満寺より位置が高いのでさらに素敵です。




新年の神社めぐり 三宮と二宮

2024年01月09日 20時55分00秒 | 神社
年がら年中あちこちの神社にいるので初詣という感覚も感慨もあまりないのですが、
年明けは除夜の鐘とともに氏神である居神神社にご挨拶します。


2日は家でゴロゴロしてて

3日は相模國三宮 比々多神社へ






比々多神社は裏庭に十二支の石像があり
その年の干支の像が社殿前に運ばれて飾られます。

辰はやはりかっこいいですね。



今年は初めて元宮まで歩こうと

畑の中の道をひたすら10分ほど

最後の急坂はちとキツい


なんだか南国っぽい植物が鳥居のように



到着です!




長く私有地だった場所が返還され祠が建てられたのは最近のこと。
それ以前の荒れた祠跡の写真をどこかで見た気がするのですがすっかり忘れてしまいました。






曇ってるけど爽快な眺め

背後はみかん畑




帰り道に埒免古墳というなかなか稀少な古墳があります。

恵泉女学園短期大学(現在は廃止)の敷地内にあり、現在でも閉鎖された門から覗くことしかできないのでもったいないですね。

埒免古墳から東京農業大学の農場前へ、
周辺を20分くらい散策しました。



続いて相模國二宮 川匂神社へ

比々多も川匂も特に決めていたわけではなく
この日の気分です。

なんとなく、昨年は一宮でお札貰ったから今年は二宮にしようかなと。









豆まき見たいけど混むんだろうなぁ。


川匂神社でお札を貰い(崇敬神社のお札)帰宅しました。


それにしても暖かい。
コートいらずの初詣なんて信じられないです。



そして信じられない元旦からの災害。
いったい何が起きているのか、身が震える思いです。

どうか被害に遭われた方々が一日も早く安全と平穏を取り戻せますように。



葉山で年を惜しむ

2023年12月31日 22時46分00秒 | 神社
2023年最後のお出かけは葉山町でした。


森戸神社へ








森戸神社は子宝に霊験があり
水天宮内の丸い石を撫でると子宝に恵まれるそうです。

また、子授祈願をしてもらうと子宝石を頂けて
無事に子宝を授かると赤ちゃんの名前や似顔絵を書いて奉納するのだと。



ペットの守護神、畜霊社



祠に入った珍しい庚申塔



おせき稲荷

咳が治る系はとても多い民間信仰の一つ。



三島大社の勧請だったんですね。
知らなかった。



源頼朝ゆかりというよりは三浦一族の本拠地といったほうが自然ですが







貝に入ったかわいいウサギちゃん🐇
一年間どうもありがとうございました。


ビーズ手水 素敵だなぁ



みそぎ橋





境内は森戸海岸へと繋がってます




石原裕次郎記念碑


源頼朝が感嘆したという千貫松
トンビもいます


この日はうっすら富士山が見えました

富士山と江ノ島と鳥居(名島)と灯台(裕次郎灯台)








続いて立石海岸へ



立石公園内の遊歩道








トベラというそうです。
パチンと弾けた実がなんともいえないビジュアル。






立石海岸からも富士山がうっすらと



暖かく過ごしやすい年末。
海岸を歩いていても寒さはほとんど感じませんでした。
風もなかったし。


この暖かさが嬉しくもあり不安でもあり、
そして
また一年が去ることが淋しい。