おだにゃら記

地元小田原市中心のフィールドワーク備忘録。
歴史、神社仏閣、あとはいろいろ。


渋沢の峠集落を散策する

2024年07月27日 20時44分00秒 | 神社

県道708号線沿い

わたしがよく行く篠窪の先に「峠」という名の集落があります。

その名の通り渋沢丘陵西の峠にあります。

迅速測図「農研機構農業環境研究部門」より

四方を山に囲まれた狭い土地のせいか、
明治の古地図と戸数や家並みが変わってないように見えます。



峠隧道
1932年(昭和7)に完成

この隧道ができるまでは峠集落の人々は渋沢丘陵の急坂を越えて往来していました。

向かって左側に完成記念の石碑がありますが薮に覆われて見えませんね。





稲荷社

集落の西端の高台にあり
後年に背後に708号線が開通しました。



神明神社

こちらは集落の中にあります。



峠村は辺鄙な場所で矢倉沢往還からも外れているせいか長いこと神社がなかったそうです。

以下、神奈川県神社誌に記されているなかなかややこしい由来を要約します。


明治時代に秦野の篤農家によりここに出雲大社教が勧請されたが、村人たちは普通の神社がいい!と訴え続け、
秦野市堀西に神明神社が2社あったので1社をこちらに遷座してもらうこととなった。

1941年(昭和16)に晴れて神明神社として村の鎮守に。大日留女尊(おおひるめのみこと)を祭神に迎えた。
一方、解散された出雲大社教会は昭和50年に秦野市平沢に移り出雲大社相模分祠として発展した。


うーん…
そんな面倒なことが…


出雲大社教は明治のゴタゴタの中で出雲大社の信仰を布教するために新設された単立宗教法人なので
当時の人たちにとっては不可解な新興宗教に思えて嫌だったのかもしれません。







境内社
熊野神社、秋葉神社

神明神社以前に神社がなかったのなら、この2社はどこから来たのでしょう?
708号線沿いの稲荷社はいつから存在したのでしょう?




神明神社から少し坂を下ると
入り口に石碑が並んだ空き地があります。



ここは真静院という寺の跡。
峠集落の唯一の寺でしたが大正7年と平成13年に火災に遭い、以降は再建されませんでした。





跡地に残された六地蔵


南北朝〜室町と時代が古く、秦野市の重要文化財に指定されています。

そういえば六地蔵の年代って気にしたことなかったです。



普通の六地蔵とはだいぶ違いますね。
格子で見えにくい…


馬頭観音でしょうか。
明和の年号はなんとか読めます。



入り口の石碑

右は禁葷酒(臭気の強い野菜、酒を寺内に入れない)の碑、
左はわかりません。



真静院近くの「峠湧水」

案内板などはないのですごくわかりにくい。
このフェンス(鍵はかかってない)を開けたところにあります。





30年くらい前の調査掘削で湧き出た水。

みなさん路駐してお気軽に汲んでいらっしやいます。





湧水の周りは生き物の里

あまり手入れされてないみたいで…
でもその方が生き物にはいいのかな。




湘南森林霊園

Googleマップで見ると巨大な封筒のようでギョッとする、
広さと美しさに慄いてしまう霊園。
ハイキングの休憩地点に利用する方も多いようです。

わたしはここで初めて芝刈りロボットなるものを目撃しました。


という感じで
篠窪も楽しいけど峠の散策もとても興味深いです。


他にも峠には知る人ぞ知る鉱山跡があり、今でも鉱物が拾えるそうです。

わたしはそちらはちょっとあれだし、場所がわからないので行きませんが。



演習場の中の異世界 疫神社

2024年07月14日 22時37分00秒 | 神社

御殿場市印野の陸上自衛隊東富士演習場沿いに気になる神社がありました。

 
疫神社(厄除神)

御胎内神社のそば。
演習場沿いというか演習場の中ですね。


演習場沿いの道は途中から砂利道になってしまい、
1本向こうの道路から来れば良かったんだ!
と気づいた時には車は真っ白でした。




鳥居

疫神社は元々は演習場のずっと奥にあったので、この位置に移転されたそうです。

明治時代にここ一帯が帝国陸軍の演習地となった際に
印野村の住民が強制的に転居させられているので、
神社の遷座もその頃だったのかもしれません。


疫神社、別名は厄神社、厄除神
その名の通り疫病を防ぎ厄災を避けるもの。

疫神社自体は珍しくはないのですが、
無格社で小祠が多いため明治以降はほとんど他神社に合祀されており、今でも単体(というのかな?)で祀られてるのは少ないと感じます。

それがなぜか印野には4社もあるんですよね。しかもこのあたりにかたまって。



鳥居の奥の参道

砲弾の音を聞きながら歩く林道はなんというか、

異世界っぽい



奉納碑がたくさん。
溶岩を使ったりしてどれも凝ってます。






もはやアート 




奉納碑はすべて昭和末期〜平成初期のもので
階段や参道の敷石を奉納してます。

それまでは荒廃してたのでしょうか。
一気にリニューアルした気配。






鳥居から数分で社殿に到着




扁額も凝ってます



小規模ながら清廉に整備された社殿と境内。
この横に小綺麗なトイレも完備。

氏子さんたちの深い崇敬心とパワーを感じました。



参道横に広がる森

空堀のよう
城めぐりしてた頃が懐かしいです。



参道から南へ別れる道

ここから車が入って来れるみたい。
Yahooマップだと道が出てました。


小田原にあった諏訪大社のミニチュア

2024年06月20日 17時23分00秒 | 神社

県立おだわら諏訪の原公園

(おだわら諏訪の原公園パンフより)
小田原フラワーガーデンに隣接する、諏訪の原丘陵を利用した公園。
ファミリー層からの人気が高く、週末はいつも賑わってます。
 
 
公園の中ほどにひっそり・・・
ではなく
なかなか目立つ場所に諏訪神社があります。
 
この土地、府川の鎮守であり、境内が公園内に取り込まれそのまま残されています。
 
 
立派な鳥居が目を惹くので参拝する公園利用者も多いようです。
 
人がいないのを見計らって写真撮るのが大変でした。
 
 



石灯籠は紀元2600年(昭和15年)記念に奉納

私の父の生まれ年です(関係ないけど 笑)



 
ちょっと雑草が多いのが気になります。
たまたま掃除が行き届かない時期だったのかもしれませんが
周囲の公園が綺麗なだけに荒れた雰囲気。
 
 

手水舎に貼り付けた簡易由緒書きも傾いたまま。
 
内容は素晴らしいので是非きちんとしたものを立てていただければと。
 
 

 
諏訪神とは言うまでもなく長野県諏訪湖にある諏訪大社を中心とする信仰。
祭神は建御名方神(タケミナカタ)とその妻、八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)
 

(画像は大津諏訪神社より)
 
建御名方神は大国主命の息子。
天照大御神による国譲りに反対し戦い、諏訪湖まで追い詰められ同地の神となったという古事記の記述でお馴染みです。
 
 
諏訪信仰は全国に広がっており、平成2年の調査ではその神社の数は全国6位を誇ります。
 
神奈川県は少ない方で、小田原市内では諏訪信仰の神社はここ府川だけです。
(菅原神社内の諏訪社など、合祀されてる場合は除く)
 
由緒については久所自治会の宮原諄二氏による
「久所の始まり」に詳しく書かれているので、境内の由緒書と共に参照させていただきました。
 
 

諏訪神社を造営したのはこの地に住み着いた甲斐武田氏の家臣(稲子氏、荒川氏とも)と伝わっており、
その時期は武田信玄の小田原攻めの際とか武田氏滅亡後とか、もっと早く源頼朝の頃だとかはっきりしません。

諏訪の原という地名はもちろん諏訪神社に由来してるので
もっと早い時代からあったとも考えられます。
 
甲斐武田氏に繋がる者が勧請したのは確かなようで
それはかつて府川には諏訪大社と同じように二社四宮が存在していたことから窺えます。
 
本家諏訪大社は諏訪湖を挟んで上社と下社に分かれ、さらにそれぞれ本宮と前宮、秋宮と春宮に分かれています。
4つ合わせて諏訪大社なのです。
 

諏訪大社公式 より)
 
府川の諏訪神社も江戸時代まで4つの宮に分かれていたとされています。
 
現在残されているのは本宮である諏訪神社のみですが、他3宮の位置も地図と登記記録から確認することができます。
公園沿いの道路を下った細窪と呼ばれる場所(庚申塔がある)が前宮、
相洋高校グラウンド(穴部)付近に下社の春宮、
清水新田に下社の秋宮、
 
 

(『農業集落境界データセット』(CODH作成) 「農業集落境界データ」(農林水産省)を加工)
 
 
地図で見ると宮原さんの仰るようにまるで諏訪大社のミニチュア。
諏訪の原公園の北側には調整池が設けられていますが、
もしかしたらかつては諏訪湖を彷彿させる池があったのかもしれません。
 
 
このような諏訪大社のミニチュアを鎌倉〜戦国時代に移住先に作ろうとするのは、
実際に故郷で諏訪大社をその目で見て崇拝していた甲斐武田関係の人たちなのだろうし、
どうしても4つなくちゃダメ!って地元民を動かせる力もあったのでしょう。
 
 
 

競馬が行われていたという広い参道
 
公園の遊歩道のようになってるのでかつての参道かどうかは不明。
公園ができる以前は神社西側を前宮推定地まで道路が走ってました。
 
田代道彌氏は「西さがみの地名」で社前の広場を桜の馬場と言い、
諏訪大社の「御射山」に似た狩猟儀礼が行われていたのではと推察されています。
となると現在の多目的広場一帯が桜の馬場だったのでしょう。
時代が下がって狩猟儀礼が競馬という形で残されたのかもしれません。
 
 

境内横の馬頭観音碑2基
左は大正9年(1920)の鬼鹿毛馬頭観音碑
 
競馬が行われていた名残ですね。
 
 

公園からの足柄平野の展望
 
この土地を挟んで諏訪神社4社がありました。
本家の諏訪大社ほどではないにしても
想像するとかなり壮大な景色が浮かんできます。

現在の諏訪の原公園はかつてのミニチュア諏訪大社の中にあり
みなさんはミニチュア諏訪湖で遊んでいる、
というわけです。
 
 

入生田山神神社 後河原村のロマン

2024年04月26日 22時19分00秒 | 神社
入生田

小田原市民しか読めない地名として時々話題になりますが
読みは「いりうだ」「いりゅうだ」
早川沿いに箱根町湯本と接する小さな集落です。

生田(ウダ)とは湿地の意味。
このあたりは早川の古い流路のため湿地が広がっており、
その中にあった集落だから入生田。
地名の由来はそんなところ。



江戸時代初期、入生田村から後河原(うしろかわら)村が分かれて成立しました。

後河原村の場所は現在の地球博物館から温泉地学研究所あたり。
その頃の早川は現在より北側、今の国道1号線付近を流れていたので、入生田村と後河原村は早川により隔たれていました。
(画像は私がやっとのことで完成させた想像図です)

風土記には戸数三とあり、とても少人数の村。
そんな少ないのになぜわざわざ分村したのか不思議です。
なにか事情があったのでしょうか。
 

天和年間(1681〜83)に洪水があり、
川の流れが南へ移動し、さらに川幅が広がり後河原村の人々の土地は流失、
村人たちは入生田村に移住します。

村ができてわずか100年未満で流されてしまったんですね。




現在の早川の流れ

入生田村に移住しても後河原村は存続しており(戸数は増えたのでしょうか?)
明治13年になって入生田村に合併されました。

今でも入生田には後河原村の子孫がいらっしゃるそうです。



入生田の鎮守
旧東海道沿いにある山神神社(さんしんじんじゃ)

風土記の頃は山神社、祭神は大山祇命。
木挽き、杣職人が山の神を祀ったとされてます。

拝殿の隣に小ぶりな鳥居と石祠があります。
この石祠は流失した後河原村の山神社から遷されたものです。




後河原村成立の頃に作られたのか、時代の流れを感じる古い石祠。

確たる資料はなく言い伝え的かもしれませんが、
後河原村の鎮守があった場所は牛裂き河原と呼ばれていた、という話があります。

牛裂きというと、あの恐ろしい牛裂き刑のことなのか?
それとも単に牛を解体するところだったのか。
なぜそんな場所に後河原村の鎮守が?

何にせよ、嫌な想像をしてしまうワードです。





天狗の団扇デザインの燭台

社殿にも天狗の彫刻があります。
山の神繋がりでしょうが詳細は不明。



末社の祠がいくつか


笠付きの庚申塔は宝永3年(1706)とあり
けっこう古い。
後河原村が入生田村に戻ってきた頃です。


地球博物館の資料によると
ここの境内は小さいながら自然豊かな環境が残されており
特に珍しいダニが多く生息してるそうです。

マダニなど危険なヤツはいなそうなので大丈夫。



旧東海道からの参道は民家に囲まれわかりにくい上に急階段。

紹太寺側からだと楽に入れるし寺の駐車場も利用できるので便利です。




私は板橋で育っており、学区が同じ入生田には仲良しの友達がいて、こどもの頃は時々遊びに来ていました。

ですが後河原村のことは全く聞いたことはなく
最近山神神社を調べるにあたって知った次第。

近隣に謎に満ちた小さな村があったなんて
(勝手に謎に満ちてると思ってる)

ちょっとロマンを感じてしまう発見でした。


江の浦の昌満寺と大美和神社

2024年03月12日 17時07分00秒 | 神社
先週
根府川旧道を通ったらおかめ桜がほぼ満開でした。







根府川は土地柄、
飲食店や宿泊施設を利用する以外は駐車スペースがほぼないので
走る車内から眺めるしかなく撮影もしづらく…

上の2枚は小田原市HPからのものです。



可憐なおかめ桜から一転
小田原城カントリー付近まで登ると前日の雪が残ってました。寒っ

なぜこんなとこまで来てしまったのか。



白糸川上流




気を取り直して
江の浦の昌満寺に寄りました。









境内からの眺め

昌満寺は裏の墓地にあるつつじ園が人気だそうで
4月終わり頃また来てみようと思います。

猫もたくさんいるらしいけど
この日は誰にも会えずさみしい限り。



昌満寺駐車場から見える
お隣の大美和神社の御神木



大美和神社

階段ちょっと大変
左の道路脇に迂回路ありました。


蔵王神社が大戦中に大美和神社と改称されたと。なぜだろう。

根府川の寺山神社や米神の八幡神社同様、
ここでも鹿島踊りが奉納されていましたが
2011年以降は東北大震災の影響や担い手の減少のために中断したそうです。
現在の状況は不明。






拝殿から石垣を登ったところに本殿がある模様



拝殿右に階段がありました

このように完全に本殿が離れてるのは珍しいです。





これはなんだろう



境内からの眺め

昌満寺より位置が高いのでさらに素敵です。