同居人が、かつてお世話になった養護学校から、講演会のお知らせがきた。
かつて、親なきあとの生活を、できるだけ、自分の力で楽しく生きていけるように、環境を整えようと、自分なりの考えで一所懸命だった。 そのお仲間には、入れないけど、なんとなく、保護者のみなさんの中にはいっても、落ち着いていられるような、最近の心境。 迷ったけれども、出かけていった。
「障害者や高齢者にやさしい社会は、みんなが住みやすい社会」という言葉がある。
自閉症を持つ明石徹之さんと、お母さんが講演者。
お母さん曰く、徹底して教え込んだのは、まず「挨拶をすること」、そして、地域に、息子さんへの対応に理解を示してもらおうと、今も努力を続けているそうだ。 お父さんは、テレビに出るまで、自閉症の子供がいることをカミングアウトするのを恥ずかしがったそうだが、テレビで、みんなに知られるようになって、今は、サポートセンターの運動にも積極的にかかわるようになったとのこと。
障害児を持つと、親の考えが(少なくとも、私の場合)
まず「なんで私のところに?」
それから「子供の障害をそのまま受け入れようと努力し」
つぎに「子供のために環境を整え社会に働きかけることに意義を感じ」
そして「そこまで成長させてくれた、子供の存在に感謝し」
ついには「かなりの部分を子供の為に生きることが、生き甲斐ともなる」
その生き甲斐が、突然、奪われた今、まだ、完全には、先の見えない現状だが、このような立場で、見えてくるものもあるような気がしている。
ノーマライゼーションとは、?、自立支援法の真の意味は?
できないことをできるようにするのが子育てではない。
扱いやすい子供にするのが、子育てではない。
指示待ち人間ではなく、自己決定のできる子供に育てたい。
障害を困ったと考えるのは、対応する相手が、どう対応したらいいかわからないからだ。
こだわり、といっているものは、本人が興味をもっている証拠。 とりあげるのではなく、プラスの方向に変換する努力を。
足が不自由なら、車椅子が補助になる。
目が見えなければ、盲導犬が助けてくれる。
自閉症は? 知的障害は?
社会全体が、地域の人の理解と対応が、かれらの車椅子であり、盲導犬なのだ。
そんなような趣旨の話だったと思う。
いいたいことは、わかる。
老老介護で、連れ合いを殺してしまったり、重度障害の子供を抱えて、無理心中をしようとして、生き残ってしまった親に対する罪の軽減措置。そんなところまで、追い込んでしまう法律の不備に対する、しょく罪なのだろうか?
タイトルにした「嫌われると、教えられない」
明石徹之さんのお母さんが、普通の子(勉強が追いつくということ?)にしようと、スパルタに近く一所懸命対処した結果、徹之さんに嫌われてしまって、反省したときの言葉です。お父さんが、バトンタッチしたら、頑張って勉強したそうですが、それは、単に怖かっただけのこと、結果は、目標とするところには、届かなかった。
「嫌われると、教えられない」
これは子供だけではなく、生きていく過程で、いろんなところで、当てはまることだと思う。