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風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

洗礼(バプテスマ)を受けるまでー続きー

2006-05-01 18:04:41 | キリスト教(証)
続きだよ。

これらの出会いの数々の中で、何とかやっていたわけだが、やはりねたみ、憎しみ、自責の念でで自分が嫌になる事はしばしば、心が汚く感じ、何かむなしさがあった。そしてアメリカに来て4年目、父が胃癌のために亡くなった。私と子供たちはちょうど亡くなる四日前に帰国したのだが、その変わり果てた姿に愕然としてしまった。ことあるごとに「悔しい、こんなはずじゃなかった」という父。何とか心を安らいであげたいと書道の話や、父の好きだった禅の話をしたのだが、本人の立場でない私がいくらがんばってみたところで何もならないのだった。父は不安と絶望の中で死んでいった。

葬儀を終えてまたアメリカへ戻ると今度はそれまで何事もなかった長男がまたパニックを起こした。彼のパニック3年生の時から始まって、極度の不安から体が動かなくなるのだ。まるでパントマイムをするように手を前にかざして動くことができない。抗うつ剤などで一時収まっていただけにショックだった。その状態を見た私は取り乱し「もういいかげんにして・・。」と長男を突き放すようなことを言ってしまったのだ。なんて母親だろうか。いつでもやさしく受け入れたいと思いつつ全く逆のことをしているのである。どんなにこうでありたいと思っても心は弱いものだとつくづくそう思った。

そして長男を落ち着かせるために入れた自然公園のキャンプ、自然の中でのハイキングは唯一彼の楽しみであり、落ち着く場所であったのにそこでもパニックになってしまった。その時の長男の口から出た言葉は「僕だってどうしたらいいかわからないんだ、神様助けて!」だったのだ。その言葉に私は非常にショックを受けた。なぜなら、彼の救いを求める声は私たち両親に向けられてはいない。でも、もし向けられていたとしても何もできない。その時、父の死のときにも感じたどうしようもない無力感、力の限界を感じた。神様だなんて、なぜこの子はこんなことを口走ったのだろう。そう思うほど神様の存在を信じてはいなかった。

でも教会にいってみようか。長男の心がそれで安定するのならそれでいいじゃないか。でもだんなはどう思うだろう。教会なんてと怒るかもしれない・・・。
そんなことを思っていたちょうどその時、だんなが突然言ったのだ。
「教会に行ってみようか・・・。」
不思議だった。だんなも私も同時に教会に行くことを思い立っていたのだ。そして4年前にあの牧師夫人にもらった教会案内を引っ張り出し電話をかけていた。

牧師婦人は私たちのことを覚えていて、ちょうど日帰り、3日間のバイブルキャンプがあったのでそのチラシと、その月の教会便りを送ってくださった。その教会便りを見てまた驚いてしまった。そこには洗礼の証が乗っており、読んでみるとその方の息子さんがやっぱり同じ発達障碍があり、そして長男と同じようにパニックを時々起こすというのだ。私と同じような思いをしているその人が今は感謝の気持ちでいっぱいだというその証に私は心を強く惹かれた。そんな風に変われるものなら変わりたいと思った。

バイブルキャンプでは何事もなかったように楽しめたようだ。私は長男を遠くから見ていられるようにキッチンの仕事を手伝っていた。ちょうどこのとき同級生の事故死、また隣人宅へ警官が突入し、その遺体を見つけるというショッキングな事件が続けざまにあった。あまりに身近に起こったことだったのでこれが何らかの不安を拡大させる影響が出ないかどうか本当に心配だったのだが、キャンプ中、パニックはおこらず、長男はずっと安定していた。

こうして私たち家族は続けて礼拝にも出るようになっていった。その礼拝のとき牧師先生のメッセージを聞いて涙が止まらなくなったことがある。そのメッセージではコリント人への第一の手紙10章13節を紹介していた。

「あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですか、あなた方をたえることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。むしろ、たえることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

その御言葉を聞いた時、今までの出会いや出来事はやはり偶然ではなかったんだと思った。あの時感じた心の汚さが罪の性質によるものという事もわかった。しかし、そうは思ってみても、もともと疑い深い私である。すぐに元通り。なかなか神様、主イエス・キリストの贖いが信じられなかった。一度は心に主を迎え入れるといっておきながら、「あれは信仰告白ではありません」と信仰告白撤回の電話まで牧師先生に入れてしまったほどだ。
しかし確実に私たち夫婦は変わりつつあった。あれほど争いがたえなかったのに、いつしか毎朝2人で祈るようになっていた。

ある日、またもや打ちのめされるようなことがあった。そして出先からの帰り道、なんとも不思議なことが起こった。
「私はあなたとともにいる。」
私の意識とは裏腹に旧約聖書の出エジプト記3章12節のこの御言葉がずっと心に響いているのである。その瞬間に私は神様がいると確信していた。その何秒前には信じていなかったのに。問題は何も解決していないのに心だけが違う。涙が後から後からあふれ出てきた。悲しいからでなくて、苦しいからでもない、何か不思議に絶対的な安心感が私を包んでいたのだ。

だんなはだんなでやはり神様をしんじていた。2人とも信じているのならとりあえず牧師に知らせようと思ったがどんな風にしたらいいかわからない。時はクリスマスだったので私たちはクリスマスカードに主イエス・キリストへの信仰を記したのだった。信じてからというもの、だんなも私もそうだったのだがまわりの景色がよりいっそう美しく見えるそんな感じだった。とにかく毎日がうれしい。そういう変化はまわりにもわかるようで「なんだかすっきりした顔してるね。」といわれるほどだった。そしてその次の春4月29日に私はだんなと2人でともに洗礼を受けることができたのだった。

「人間の心には神の形をした空間がある。そこに生きた神ご自身を迎え入れなければむなしさが残る。ほかのどんなものによってもその空間を埋めることはできない。」といったのは数学者のパスカルだ。私はその空間に世間一般で言われる良い母親役や、努力、プライド、といったものを埋めようとしていたのかもしれない。

信仰は自分から納得して決めるものでなく、まして人から授けられるものでもない。だから感謝の気持ちでいっぱいだという証を書いたその人の気持ちが今はわかるのだ。それはただ神様の決められた時に、私夫婦は一方的な神様の恵みによってすくわれたから。だから、この日が来るたびに心から感謝するのみなのである。

洗礼(バプテスマ)を受けるまで

2006-04-30 20:37:03 | キリスト教(証)
もう受洗(洗礼を受けること)して5年になる。

もう一日たってしまったが29日は私とだんなの洗礼記念日だった。そのときの牧師先生には「ご夫婦そろって救われるのは珍しいケースですね。」といわれた。5年前のその日、私たちはアメリカの現地教会の会堂を借りて浸礼という全身を水に浸す洗礼を受けた。本当にそこにいたるまで導きがあったとしか言いようがない。

これは洗礼の証(神様が自分に何をしてくださったのか、どんな風に変えられたのか)である。

当時はだんなのニューヨーク赴任に伴い、家族はなれないアメリカでの生活だった。この赴任をさかいに何か大きな力が働いているように感じた。そう思うのはこのころの私には長男の発達障碍をめぐって数々の出会いがあったからだ。

当時は現在のように発達障碍が話題になるような事はなく、発達障碍から来るいろいろな行動も本人のわがまま、しつけのなっていない子、親が神経質になりすぎて、または愛情をかけないから問題をおこすとして見られるのが常だった。ということでアメリカの現地小学校でも、日本語補習校でも指示に従えない、集団行動ができない、生徒とのトラブルという問題行動がみられたのだった。

なぜトラブルばかり起こるのか悩んでいた渡米直前、アメリカ人英語講師との出会いがあった。この人には発達障碍がある兄弟がいたので長男の行動を見てすぐにわかったようだ。彼は私に長男には発達障害があるかもしれないこと、そして、アメリカにはそれに応じた教育システムがあるので心配しないようにといってくれた。「星の降る日に生まれた子」の最後に書いた言葉「彼はstrangeではなくspecialなんだよ。」といってくれたその人である。

こうして渡米し、長男の障碍が立証されると今度はこれからどうなっていくのか不安でしかたがない。そんな時に次男のナーサリースクールの校長先生との出会いがあった。彼女には発達障碍の孫がいて、私の事情を知るとこれから投薬治療を行う可能性があること、発達障碍の本を貸してくれたり、親にも精神的な助けとなるようカウンセリングの必要があるなどいろいろと親身になってくれた。

がしかし、英語だけのやり取りは非常に疲れる。自分の気持ちをうまく言い表せないジレンマ、周りの日本人コミュニティに長男のような子供を持った方がいないので、家にこもる毎日。そんな中、日本語補修校をつづけることは難しいと担任に指摘される、補習校の山のような宿題にかかりきりになると次男をかまってやれない。だんなに頼りたいが帰りが遅い。帰ってきたところでつかれきっている。おとなしい次男は文句も言えず、彼もまた英語づけの異文化と戦っていたのだろう。かわいそうに、当時4歳の次男である。いつしかチック症状が出始めていた。家族の時間をもっと大切にしなければと、結局長男の日本語補習校はやめることになってしまった。

その補習校の最後の日、私は補習校の安全当番で学校にいた。ほかのお母さんたちと一緒に話をする中、長男の障碍の話をすると「あら、うちの息子も同じよ。」という方がいた。明るく気さくな彼女はどこかひきつけられるところがあった。その方は牧師先生の奥様だったのだ。事情を知った彼女は家まで来てくれて長男のために祈ってくださった。そのころの私は何かこの祈るということに対して違和感があり、「祈ってもらっても・・・。」なんて思っちゃったりしたものだ。
彼女は教会案内を置いて帰っていった。「教会なんて絶対行くもんか。」でもなぜか、この教会案内は捨てられなかったのだった。

息子に障碍があることはわかった。でもどうしたらいい?と考えていたときタウンの英語教室でブラジル人の女性と知り合った。彼女には両足に障碍がある息子さんがいて、ある日、英語の発表の時間その息子さんについてこういったのだ。「I'm proud of my son. I'll give him all my life.」その言葉に私は非常にショックを覚えた。自分の障碍とは別のものだけれども彼女は問題に真っ直ぐにむきあっている。一人の母親としての生き方を見せられたような気がした。

このころになるとこういう出会いが偶然とは思えなくなってきていた。これらの人たちは私が探し当てて会ったのではなく、自分が苦しみの中にいて助けてほしいと願うとき、助けてくれる人が、何かを知らせてくれる人がまるで必要に応じて現れる、そんな感じがしたのだ。それもその人たちには偶然にも発達障碍や何らかの障碍がある家族がいるのである。出会いが与えられているように感じ、何かを教えられているように感じたのだった。

長いので次回に続く。

続イースターと虹の夢

2006-04-13 15:06:57 | キリスト教(証)
続きだよ。

ただ、ただ、長男の精神状態が心配だった。普段から不安の強い子なのに先の見えないことに苛立ちと不安、そしてドクターからは別の薬の効果を見るため、退院が延びることを知らされた。当初3日といった学区の精神科医への恨めしい気持ちと何とかここから早く連れ出そうと考え、牧師婦人の通訳のもと「3日と聞かされていたこと、もうここから出られないのではないかとても不安がっていること、そして何より彼にとってここはバイリンガルの環境でこれ以上は無理だ」ということを話してもらった。しかし、薬を安全に使うためにどうしても様子を見なければということで状況は変わらず。

学校に知らせに行くとスペシャルエデュケーションの先生が「彼はどう?」と聞いてきた。私はできる限りの英語を並べ立て思わず攻めるような口調で彼女に言ってしまったのだった。「まるで実験用のマウスよ!!かわいそう過ぎる!」と。「何ですって!?」「実験用のマウスだといったのよ!」「ああ、お願いだからそんなことは言わないで・・・彼にとっていい結果が出るはずだから・・・。」後は2人とも嗚咽するばかりだった。こんな失礼な私に彼女はつらい時があったらいつでも電話をかけてきてと電話番号をわたしてくれた。

ちょうどそんな事があった時、私は夢を見た。黒い雲の中にぽっかりと浮かぶ虹の夢を。なぜだかこの夢が特別なことのように思えてしかたがなかった。聖書には創世記9章にノアの家族を祝福し「けして滅ぼさない」という契約としてこの虹を立てる話が書かれている。

「私は雲の中に、私の虹を立てる。それは私と地との間の契約のしるしとなる。私が地の上に雲を起こす時、虹が雲の中に現れる。私は、私とあなた方との間、およびすべて肉なる生き物との間の、私の契約を思い出すから、大水はすべての肉なるものを滅ぼす大洪水とはけしてならない。虹が雲の中にあるとき、私はそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(旧約聖書創世記9章13~16節)

他に虹はエゼキエル書1章28節では神様の栄光を描写として、また、ヨハネの黙示録などでは、天の栄光としての描写がされている。

また、雲は神様の存在を明かしたり(出エジプト記)、隠したりするもの(マルコの福音書9章、使徒言行録)として聖書で語られている。

私はこの夢を神様からの励ましとして捉えた。そして「早く帰りたい、もしかしたらもうここから出られないかもしれない」と不安がる長男に「こんな虹の夢をみたよ。聖書では神様はノアにもうけして滅ぼさないと契約の虹を立てられたんだよ。きっと、もうこんなことは決してない、絶対あなたを見捨てないって神様は励ましてくれているんだよ。」

あまり私的な解釈をしてはいけないがとにかく希望を持たせたかった。でも事実そう思えたのだった。

病院滞在中は子供聖書物語を読んだり、もともとおしゃべりな子なのでスタッフと話したりしたようだ。日本食が恋しいだろうとおにぎり、から揚げ、味噌汁を持参して家族で食べたりした。そうしているうちに「あの子はもう一ヶ月もここにいるんだって」と他の子供を気遣う気持ちも出てきていた。教会では祈り会で姉妹達が長男のために熱心に祈ってくれた。

そしてイースターの日になった。礼拝後、家族で長男にに会い行く。その日は中庭に出ることができたので外のテーブルつきのベンチに座った。そうしているうちに長男がさめざめと泣き出した。話を聞くと今日のイースター礼拝に出られなかったのが悲しい、教会学校のエッグハント、礼拝での私のフルートの賛美を楽しみにしていたのだという。なんとなくそんなことをいうかもしれないと思ってフルートを持ってきていたので、長男だけのコンサートをした。曲はビバルディ作曲の「忠実な羊飼い」。

検査入院して10日目、やっと退院の許可がおりた。たった10日間と思えるだろうが、とても長く感じた。この事があってから長男にとって虹は特別なものとなった。どなたかが苦しみを通してでしか神様にちかづくことができないと言っていた。最初は「神様何とかしてください」と自分の利益になることしか考えないような祈りだったが、このことを通して主が私達とともにおられることを知り、祈りつつ、「すべてを神様にゆだねる」と言うことを学んだように思える。というより自然と「私はこう望んでいますが、あなたの御心のままにしてください。すべておゆだねいたします。」そのように祈りが変わっていった。

苦しい時、主は助けてくれる人を起こされ、隠れていることを明らかにする人を起こされ、支えてくれる人を起こされ、祈り捧げる人を送られた。すべては恵み。そしてかみ合わなかった家族がこの事を通してひとつになっていった。そしてもっと大きな祝福が待っていた。長男と次男はこの後、洗礼の学びを受け、帰国直前に受洗することができたのだった。(ハレルヤ!

今度のイースターサンデーには、このことをもう一度覚え感謝の賛美と祈りを捧げよう。主イエス・キリストの復活により、それを信じるものには死の先の新たな生に迎えられる希望の道が与えられている。そしてそれはすべての人に開かれている道なのである。

イースター(復活節)と虹の夢

2006-04-13 13:03:46 | キリスト教(証)
次の日曜日はイースターサンデーだ。イースターとは新約聖書、特にその中の福音書に記されているイエス・キリストが十字架上で亡くなった後、三日目に復活したという出来事を記念して行われる礼拝で、また、それを行う日曜日のことを言う。キリスト教の重要な行事である。

イースターの日付は太陰暦に基づいて決められていたため「春分の後の最初の満月の次に来る日曜日」ということになっている。だから毎年イースターの日付は変わってくる。

アメリカなどでは彩色された卵を探すエッグハントのゲームや小さなかごに卵形のチョコなどを入れてプレゼントしたりする。なぜ、卵なのか?硬いからを破って新しい命が生まれてくることから=復活の連想からきているそうだ。またイースターバニーが子供達に卵をプレゼントしてくれるという伝承から、次男がお世話になったキンダーガーテンでは子供達がいない間にウサギの足跡をつけておき、クラスに帰ってきたところで「イースターバニーがプレゼントを持ってきてくれたよ」と用意した卵形チョコを配ったりするほほえましい風景もあった。

ところで私には忘れられないイースターの思い出がある。これはまだ私達家族が滞米中で、もうすぐ帰国になるとしったばかり4年前の今頃の事だ。このころの長男はとても不安定でクラスでたびたび怒りを爆発、またそうしたことを後で悔やんでの自傷行為があった。投薬治療がうまくいってないのかそれとも他の要因があるのか知るために学区の心理学者、精神科医から児童精神科の専門の病院で「3日間キャンプに出るようなつもりで」と検査入院をすすめられたのである。

検査入院といってもその病院は丘の上にきれいなタウンハウスがあるといった所で病院のイメージは全くなかった。ここで同じようなスペシャルニーズを持つ子供達が共同生活をしながらある子供は検査入院、またある子供は問題行動を直すためにいるのである。その病院の精神科の先生の所見では長男にアスペルガー症候群が主訴にあるのではないかといっていた。この時まで長男はADHD(注意欠陥多動性障害)が主訴といわれていたのだった。長男は不安がる様子もなくナースやスタッフの人と話していたのでとりあえずほっとした。

しかし、新しい投薬治療でのだるさや検査のために採血するのがだ嫌だったこと、しかも退院の日はその結果が出ないとわからないというので不安は一挙に高まり、近くにあるものを蹴っ飛ばし帰りたいと泣き叫ぶ長男。私は「キャンプに行くようなもの」と軽々しく口にしたことを悔やみ罪悪感でいっぱいになった。長男の手を握り、説得しながら私も泣いていた。

当初3日の予定はどんどん過ぎていった。長男はその間不安が高まってどうしようもなくなるとスタッフに頼んで電話をかけてもらっていた。病院から親が毎日面会に行くことは望ましくないといわれていたので1日置きに行っていたのだ。だから面会にいけないときは長男は泣きながら電話をかけてくるのである。その気持ちを考えるといたたまれない気持ちになる。この間に教会の牧師夫妻はかわるがわる通訳として、また私達家族の精神的な支えとなっていただいた。この牧師夫妻にも同じような発達障害を持つお子さんがいたのだった。

長いので次回に続く・・・・




信仰って?

2005-12-04 22:21:38 | キリスト教(証)
私がクリスチャンになった時、まわりの反応はこのようなものだった。

「なんでそんな変なものに入ったの?」
「つらい事があったのね。」
「キリスト教会に親切にされたのね。」

こういわれた方々は私がとてもかわいそうな人で宗教に頼ったのだと思っているようだ。そして信者になる前の私もやっぱり彼らと同じように思っていたものである。「宗教なんて心の弱い人が行くところ。」とね。

実際、教会へ行こうと思った時、私はさまざまな困難を抱えていた。でもすぐに神様を信じたわけじゃなかったんだよ。だって、「神様いるんだよ、信じて」って言われて「はい、それじゃ信じます」ってわけにいかないでしょ。いくら親切にされたからって普通は信じないよ。

教会の人たちはとても親切だったが、ひねくれ者の私には「信者を増やしたいからだろう」くらいにしか思っていなかった。だから彼らに対して内心「私に話しかけないで!」と思っていたくらい。(教会の皆さん、ごめんなさい!)

ある日私は、すぐかっとなって人の心を傷つけてしまう自分に自己嫌悪し、現実の残酷さに打ちひしがれていた。自分にはどうすることもできない無力感、これから先どうなってゆくかもわからないと不安で不安でしかたがなかった。そんな時、自分の意識とは別に聖書の言葉が出てきた。

「私はあなたとともにいる」この言葉がどんどん心のそこから湧き出てきた。その瞬間から信じる心にかえられた。ついさっきまで神の存在を否定していたのに。重々しい気持ちは喜びに変わり涙があふれてしかたがなかった。そしてなんともいえない絶対的な安心感が私を包んでいた。

昔は信仰って聞くと、これは良い教えだから納得して自分でこの宗教に入るって決断する事と思っていたが、それがまったく違っていた!!

つまり信仰は神様から与えられるものなのだ。神様は一人一人と親しい関係を持たれる。それは決して人の力によるものではないのだ。

神様は私たちを一人一人愛しておられてる。しかし、人間のほうはどうなのか?神はいないと認めず、背を向けて歩いている。だから神様は私たち人間との和解の道を用意してくださった。救いの御子キリストをこの世に送られ、キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、3日後によみがえられ、それを信じる人は永遠の命にいたるようにしてくださったのだ。それを信じてキリストの道を歩むのがキリスト教の信仰なんだよ。