続きだよ。
これらの出会いの数々の中で、何とかやっていたわけだが、やはりねたみ、憎しみ、自責の念でで自分が嫌になる事はしばしば、心が汚く感じ、何かむなしさがあった。そしてアメリカに来て4年目、父が胃癌のために亡くなった。私と子供たちはちょうど亡くなる四日前に帰国したのだが、その変わり果てた姿に愕然としてしまった。ことあるごとに「悔しい、こんなはずじゃなかった」という父。何とか心を安らいであげたいと書道の話や、父の好きだった禅の話をしたのだが、本人の立場でない私がいくらがんばってみたところで何もならないのだった。父は不安と絶望の中で死んでいった。
葬儀を終えてまたアメリカへ戻ると今度はそれまで何事もなかった長男がまたパニックを起こした。彼のパニック3年生の時から始まって、極度の不安から体が動かなくなるのだ。まるでパントマイムをするように手を前にかざして動くことができない。抗うつ剤などで一時収まっていただけにショックだった。その状態を見た私は取り乱し「もういいかげんにして・・。」と長男を突き放すようなことを言ってしまったのだ。なんて母親だろうか。いつでもやさしく受け入れたいと思いつつ全く逆のことをしているのである。どんなにこうでありたいと思っても心は弱いものだとつくづくそう思った。
そして長男を落ち着かせるために入れた自然公園のキャンプ、自然の中でのハイキングは唯一彼の楽しみであり、落ち着く場所であったのにそこでもパニックになってしまった。その時の長男の口から出た言葉は「僕だってどうしたらいいかわからないんだ、神様助けて!」だったのだ。その言葉に私は非常にショックを受けた。なぜなら、彼の救いを求める声は私たち両親に向けられてはいない。でも、もし向けられていたとしても何もできない。その時、父の死のときにも感じたどうしようもない無力感、力の限界を感じた。神様だなんて、なぜこの子はこんなことを口走ったのだろう。そう思うほど神様の存在を信じてはいなかった。
でも教会にいってみようか。長男の心がそれで安定するのならそれでいいじゃないか。でもだんなはどう思うだろう。教会なんてと怒るかもしれない・・・。
そんなことを思っていたちょうどその時、だんなが突然言ったのだ。
「教会に行ってみようか・・・。」
不思議だった。だんなも私も同時に教会に行くことを思い立っていたのだ。そして4年前にあの牧師夫人にもらった教会案内を引っ張り出し電話をかけていた。
牧師婦人は私たちのことを覚えていて、ちょうど日帰り、3日間のバイブルキャンプがあったのでそのチラシと、その月の教会便りを送ってくださった。その教会便りを見てまた驚いてしまった。そこには洗礼の証が乗っており、読んでみるとその方の息子さんがやっぱり同じ発達障碍があり、そして長男と同じようにパニックを時々起こすというのだ。私と同じような思いをしているその人が今は感謝の気持ちでいっぱいだというその証に私は心を強く惹かれた。そんな風に変われるものなら変わりたいと思った。
バイブルキャンプでは何事もなかったように楽しめたようだ。私は長男を遠くから見ていられるようにキッチンの仕事を手伝っていた。ちょうどこのとき同級生の事故死、また隣人宅へ警官が突入し、その遺体を見つけるというショッキングな事件が続けざまにあった。あまりに身近に起こったことだったのでこれが何らかの不安を拡大させる影響が出ないかどうか本当に心配だったのだが、キャンプ中、パニックはおこらず、長男はずっと安定していた。
こうして私たち家族は続けて礼拝にも出るようになっていった。その礼拝のとき牧師先生のメッセージを聞いて涙が止まらなくなったことがある。そのメッセージではコリント人への第一の手紙10章13節を紹介していた。
「あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですか、あなた方をたえることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。むしろ、たえることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
その御言葉を聞いた時、今までの出会いや出来事はやはり偶然ではなかったんだと思った。あの時感じた心の汚さが罪の性質によるものという事もわかった。しかし、そうは思ってみても、もともと疑い深い私である。すぐに元通り。なかなか神様、主イエス・キリストの贖いが信じられなかった。一度は心に主を迎え入れるといっておきながら、「あれは信仰告白ではありません」と信仰告白撤回の電話まで牧師先生に入れてしまったほどだ。
しかし確実に私たち夫婦は変わりつつあった。あれほど争いがたえなかったのに、いつしか毎朝2人で祈るようになっていた。
ある日、またもや打ちのめされるようなことがあった。そして出先からの帰り道、なんとも不思議なことが起こった。
「私はあなたとともにいる。」
私の意識とは裏腹に旧約聖書の出エジプト記3章12節のこの御言葉がずっと心に響いているのである。その瞬間に私は神様がいると確信していた。その何秒前には信じていなかったのに。問題は何も解決していないのに心だけが違う。涙が後から後からあふれ出てきた。悲しいからでなくて、苦しいからでもない、何か不思議に絶対的な安心感が私を包んでいたのだ。
だんなはだんなでやはり神様をしんじていた。2人とも信じているのならとりあえず牧師に知らせようと思ったがどんな風にしたらいいかわからない。時はクリスマスだったので私たちはクリスマスカードに主イエス・キリストへの信仰を記したのだった。信じてからというもの、だんなも私もそうだったのだがまわりの景色がよりいっそう美しく見えるそんな感じだった。とにかく毎日がうれしい。そういう変化はまわりにもわかるようで「なんだかすっきりした顔してるね。」といわれるほどだった。そしてその次の春4月29日に私はだんなと2人でともに洗礼を受けることができたのだった。
「人間の心には神の形をした空間がある。そこに生きた神ご自身を迎え入れなければむなしさが残る。ほかのどんなものによってもその空間を埋めることはできない。」といったのは数学者のパスカルだ。私はその空間に世間一般で言われる良い母親役や、努力、プライド、といったものを埋めようとしていたのかもしれない。
信仰は自分から納得して決めるものでなく、まして人から授けられるものでもない。だから感謝の気持ちでいっぱいだという証を書いたその人の気持ちが今はわかるのだ。それはただ神様の決められた時に、私夫婦は一方的な神様の恵みによってすくわれたから。だから、この日が来るたびに心から感謝するのみなのである。
これらの出会いの数々の中で、何とかやっていたわけだが、やはりねたみ、憎しみ、自責の念でで自分が嫌になる事はしばしば、心が汚く感じ、何かむなしさがあった。そしてアメリカに来て4年目、父が胃癌のために亡くなった。私と子供たちはちょうど亡くなる四日前に帰国したのだが、その変わり果てた姿に愕然としてしまった。ことあるごとに「悔しい、こんなはずじゃなかった」という父。何とか心を安らいであげたいと書道の話や、父の好きだった禅の話をしたのだが、本人の立場でない私がいくらがんばってみたところで何もならないのだった。父は不安と絶望の中で死んでいった。
葬儀を終えてまたアメリカへ戻ると今度はそれまで何事もなかった長男がまたパニックを起こした。彼のパニック3年生の時から始まって、極度の不安から体が動かなくなるのだ。まるでパントマイムをするように手を前にかざして動くことができない。抗うつ剤などで一時収まっていただけにショックだった。その状態を見た私は取り乱し「もういいかげんにして・・。」と長男を突き放すようなことを言ってしまったのだ。なんて母親だろうか。いつでもやさしく受け入れたいと思いつつ全く逆のことをしているのである。どんなにこうでありたいと思っても心は弱いものだとつくづくそう思った。
そして長男を落ち着かせるために入れた自然公園のキャンプ、自然の中でのハイキングは唯一彼の楽しみであり、落ち着く場所であったのにそこでもパニックになってしまった。その時の長男の口から出た言葉は「僕だってどうしたらいいかわからないんだ、神様助けて!」だったのだ。その言葉に私は非常にショックを受けた。なぜなら、彼の救いを求める声は私たち両親に向けられてはいない。でも、もし向けられていたとしても何もできない。その時、父の死のときにも感じたどうしようもない無力感、力の限界を感じた。神様だなんて、なぜこの子はこんなことを口走ったのだろう。そう思うほど神様の存在を信じてはいなかった。
でも教会にいってみようか。長男の心がそれで安定するのならそれでいいじゃないか。でもだんなはどう思うだろう。教会なんてと怒るかもしれない・・・。
そんなことを思っていたちょうどその時、だんなが突然言ったのだ。
「教会に行ってみようか・・・。」
不思議だった。だんなも私も同時に教会に行くことを思い立っていたのだ。そして4年前にあの牧師夫人にもらった教会案内を引っ張り出し電話をかけていた。
牧師婦人は私たちのことを覚えていて、ちょうど日帰り、3日間のバイブルキャンプがあったのでそのチラシと、その月の教会便りを送ってくださった。その教会便りを見てまた驚いてしまった。そこには洗礼の証が乗っており、読んでみるとその方の息子さんがやっぱり同じ発達障碍があり、そして長男と同じようにパニックを時々起こすというのだ。私と同じような思いをしているその人が今は感謝の気持ちでいっぱいだというその証に私は心を強く惹かれた。そんな風に変われるものなら変わりたいと思った。
バイブルキャンプでは何事もなかったように楽しめたようだ。私は長男を遠くから見ていられるようにキッチンの仕事を手伝っていた。ちょうどこのとき同級生の事故死、また隣人宅へ警官が突入し、その遺体を見つけるというショッキングな事件が続けざまにあった。あまりに身近に起こったことだったのでこれが何らかの不安を拡大させる影響が出ないかどうか本当に心配だったのだが、キャンプ中、パニックはおこらず、長男はずっと安定していた。
こうして私たち家族は続けて礼拝にも出るようになっていった。その礼拝のとき牧師先生のメッセージを聞いて涙が止まらなくなったことがある。そのメッセージではコリント人への第一の手紙10章13節を紹介していた。
「あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですか、あなた方をたえることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。むしろ、たえることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
その御言葉を聞いた時、今までの出会いや出来事はやはり偶然ではなかったんだと思った。あの時感じた心の汚さが罪の性質によるものという事もわかった。しかし、そうは思ってみても、もともと疑い深い私である。すぐに元通り。なかなか神様、主イエス・キリストの贖いが信じられなかった。一度は心に主を迎え入れるといっておきながら、「あれは信仰告白ではありません」と信仰告白撤回の電話まで牧師先生に入れてしまったほどだ。
しかし確実に私たち夫婦は変わりつつあった。あれほど争いがたえなかったのに、いつしか毎朝2人で祈るようになっていた。
ある日、またもや打ちのめされるようなことがあった。そして出先からの帰り道、なんとも不思議なことが起こった。
「私はあなたとともにいる。」
私の意識とは裏腹に旧約聖書の出エジプト記3章12節のこの御言葉がずっと心に響いているのである。その瞬間に私は神様がいると確信していた。その何秒前には信じていなかったのに。問題は何も解決していないのに心だけが違う。涙が後から後からあふれ出てきた。悲しいからでなくて、苦しいからでもない、何か不思議に絶対的な安心感が私を包んでいたのだ。
だんなはだんなでやはり神様をしんじていた。2人とも信じているのならとりあえず牧師に知らせようと思ったがどんな風にしたらいいかわからない。時はクリスマスだったので私たちはクリスマスカードに主イエス・キリストへの信仰を記したのだった。信じてからというもの、だんなも私もそうだったのだがまわりの景色がよりいっそう美しく見えるそんな感じだった。とにかく毎日がうれしい。そういう変化はまわりにもわかるようで「なんだかすっきりした顔してるね。」といわれるほどだった。そしてその次の春4月29日に私はだんなと2人でともに洗礼を受けることができたのだった。
「人間の心には神の形をした空間がある。そこに生きた神ご自身を迎え入れなければむなしさが残る。ほかのどんなものによってもその空間を埋めることはできない。」といったのは数学者のパスカルだ。私はその空間に世間一般で言われる良い母親役や、努力、プライド、といったものを埋めようとしていたのかもしれない。
信仰は自分から納得して決めるものでなく、まして人から授けられるものでもない。だから感謝の気持ちでいっぱいだという証を書いたその人の気持ちが今はわかるのだ。それはただ神様の決められた時に、私夫婦は一方的な神様の恵みによってすくわれたから。だから、この日が来るたびに心から感謝するのみなのである。