おはなし屋パモンの日記

おはなしを書くのが大好きなパモンの日記です。

私、実は

2023年07月05日 | 日々つつがなし

自分の人生の目的は知っているんです。

 

ある時、目覚めた時、

「私は何のために、生まれてきたの?」と聞いたら、

答えてもらいました。

 

なので、私は自分の人生の目的を知ってはいるのですが、

なかなか扉が開かないという感じでした。

 

そうして、これでいいのかな?と

思いつつ、これまでやってきたという感じです。

 

私は、これでいいのだろうか?

正直、よく分かりません。

 

けれど、いろいろな情報が、一度に入って来たということは、

そろそろ、次の段階に行くということなんでしょうね。

 

そう思います。

 

どうぞ私にご加護を。

私が迷わずにまっすぐに歩んでいけますように。

 

 

☆それでは今日もよい一日を。

 

感謝します。

すべては上手くいっています。

 

 

 

 

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色々な事が一度に

2023年07月05日 | 日々つつがなし

入って来て、混乱しています。

 

まずは、「かぐや姫」の物語。

まさに、あれは、自分の姿だなぁ~と。

 

私は、昨年の冬から、今年の春頃まで、ものすごい孤独感に

苛まれてしまいました。

誰も自分の気持ちを分かってくれる人がいない、

私は、一人だ。ひとりぼっちだと。

それはまるで深い深いエポックに落ち込んだようでした。

 

なので、あれほど決意して、島に帰ってきたにも関わらず、

関東に帰ろうとまでしてしまいました。

 

けれど、私の真の渇きは、そうではないんですよね。

それは分っていた筈なのに・・・。

 

私の本当の寂しさは、この世に、この地球にひとりぼっちだという深い悲しみでした。

どんなに生まれ故郷に還って来ても癒されない孤独感なのです。

その原因が、こちらで友人を作れず、一人ぼっちだからかと感じていましたが、

そうではなく、人類の悲しみというか、人間としての生き辛さとか、

根本的にそういう寂寥感を抱えていたからなんですね。

 

そういう事が、徐々に分かってきました。

 

自分のルーツを探る。

自分のルーツを探す。

 

そうして、本来の仲間たちに会いたいと思っています。

本当に話が合う人達。

気持ちを分かち合える人達と、出会いたい、と今、そう感じています。

 

そして、それを望んでいいのだと。

 

今までは我慢していました。

そんな事考えちゃいけない、

この地球になじまなければならない。

私は社会不適合者、もつとこの場になじまなければならないと

無理に自分押さえつけていました。

 

けれど、かぐや姫は、自分の欲望に忠実でしたよね。

 

彼女は、「還りたい、還りたい」「私の居場所はここじゃない」「自分の星に還りたい」と

切望していました。

 

そうして、並み居る求婚者たちをけちらし、自分の望みを叶えました。

 

すんばらしい~!!

 

おそらく、今までの時代なら、この生き方は羨ましくても、

なにスかしてんだよ~。人間社会に溶け込むように努力せーや!

と一喝されるところだったでしょう。

 

私もそう思っていたし、「なんで、地球が嫌なのよ?我慢せや」、

と責める気持ちもありました。

 

でも、もうそんな自分の願望を隠さなくてもいいのかもしれませんね。

今までは押し殺していた気持ちを、もうオープンにしてもいい。

 

私は、誰?

私は、何者?

 

私は、もっともっと深く自分を知りたいと今、思っています。

 

私が思い出した過去世は、この地球での記憶です。

 

けれど、もっと以前のこの地球に来た時の記憶もあるはず。

それを思い出していきたいと思います。

 

そして、それがよく言われる、「覚醒」ということなんでしょうね。

 

今までの私は、過去世が分かっただけで、満足していました。

全てを分かったような気でいました。

 

でも、そうではなかったんですよね。

私にはもっともっと過去のいきさつがあるのだ、と思います。

 

以前、霊視出来る方に見てもらった時、

私の人生の目的は、門番が守っていて、見せてくれなかったと言われました。

 

「自分で探せ」と言って、入れてくれなかったと。

 

なので、この事は、自分で探さなければならないのでしょうね。

 

しばらくは、目につくもの、耳に入って来るもの、

すべてを否定せず、入れていきたいと思います。

 

 

 

☆それでは今日もよい一日を。

 

 

感謝します。

すべては上手くいっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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それと同じように、

2023年07月05日 | 日々つつがなし

どうしてもひっかかる言葉があります。

 

それは、「命ど宝(ぬちどたから)」というものです。

 

これは、先の大戦で、沖縄が戦場になり、

多くの命が失われたことによるものです。

 

もちろん、この言葉に対する否定はありませんが、

私は、この言葉を聞いた時に、「そうだな」という気持ちと、

「でも、ちがうな・・・」という漠然とした違和感を感じていたのです。

 

そうして、沖縄人が言うならまだしも、全然関係ない人達が、

この言葉をまるで金言のように使うことに理不尽な思いになっていました。

 

〝おめー、関係ねーだろ?〟と。

 

確かに、沖縄の人たちにとって、関係ない日本戦に巻き込まれ、

多くの命が失われたことは、不幸なことです。

それゆえ、とにかく「生きていて欲しい、生きてさえいればなんとかなる」

という心の底から出た言葉であることは、否定できません。

 

それは、大切なことですが、

それを利用して、なんでもかんでも、「命ど宝」という人達の

態度はどうなのか?という気がします。

 

もっと言えば、沖縄人以外、使って欲しくない言葉だと思います。

 

そして、もう一つの違和感としては、「本当にそうなのだろか?」ということが

あるのです。

 

本当に、「命は宝なのだろうか?」「何にもまして、生きてさえいればいいのだろうか?」

という疑問です。

 

誤解を招くようで申し訳ないのですが、私は長生きをしたくはありません。

長生きすることに意味を感じないからです。

それよりも、「どう生きたか?」「何をなしたか?」の方が大事だからです。

 

確かに命は宝かもしれない。

けれど、与えられた命を、どう活かしたのか?

何をしたのか? の方が大切で、

「私は、こう生きた」と胸を張って答えられなければ、

意味がないと思います。

 

それは、何か偉業を成し遂げたということではありません。

その人が、何を信条とし、生きてきたのか。

他人に親切にできたのか、

美しく生きたのか、が重要になってくるのです。

 

なので、年月は関係ないのです。

少ない命でも、生き切れば、それで充分なのです。

 

逆に、生きる事に執着して、

ただ、生きながらえることだけが大事だと考えるのは、

「人生」と言う点を考えると、意味がない気がします。

 

私たちに大切なのは、

生きる事、ではなくて、

どう生きたのか、なのだということを、

今一度、考え直さなければならないと思います。

 

 

☆それでは今日もよい一日を。

 

感謝します。

すべては上手くいっている。

 

 

※もう一つ、思うのは、やはり、

沖縄の人たちの痛みでしょうね。

自分達が、日本から見捨てられた、

本土人に馬鹿にされたという思いです。

盾にされたというね。

 

なので、映画やテレビで描かれる日本軍は、

米兵よりも、酷い人物に描かれることが多いですよね。

 

その悔しさが、「命ど宝」という言葉を生み出したのではなかったでしょうか。

 

けれどね、本当にそうだったんでしょうか?

本当は先の戦争で何があったのか?

本当に日本軍は「悪」だったのか?

そろそろ、見直さなければならなくなっているのではないでしょうか。

 

そうして、あの戦いで命を落としたすべての人達に、

祈りを捧げなければならないと思います。

 

☆それでは今日もよい一日を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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しーっ!言ってはいけない言葉

2023年07月05日 | 日々つつがなし

橘玲さんの「言ってはいけない」を読んでいた時に、

議論を打ち止めにしたいときに使う言葉として、

「差別」というものがある、と書いてあり、

そうか~!と唸ってしまいました。

 

私も「差別、差別」という人たちの〝差別意識〟にうんざりしていた一人なので、

なるほど、まるで黄門さまの印籠のように、この言葉を遣うと、

誰もがだまっちゃうな・・・と納得してしまいました。

 

ようするに、相手を打ち負かしたいときに、使うと有効な言葉なんですね。

相手が、差別意識を持っていようが、もっていまいが、検証もできないことで、

攻撃するという、まことに、卑怯なやり口だと思います。

 

それと、同じような言葉に、「上から目線」というものがあります。

私、この言葉も嫌いで、いつからか、この言葉が蔓延してしまいましたよね。

だから、私も、何か意見を言う時には、枕詞に「上から目線かもしれませんが」と

わざわざつけなければならなくなりました。

 

人の意見を聞きたくない、という人が、この言葉を流行らせたようです。

 

まったく困ったものですね。

 

これからは、「差別」と「上から目線」撲滅運動をしていかなければなりませんね。

 

なんだか変な言葉たちでした。

 

 

☆それでは今日もよい一日を。

 

 

感謝します。

すべては上手くいっている。

 

 

 

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