死刑囚の方の記事を読んで、
気分が塞いでしまった。
結局、厳しい生い立ちや、
幼、小、中、高のいじめ体験などが原因で罪を犯してしまったのだ。
いじめと言うのは、本当に人の心を壊してしまう。
虐められた本人は勿論のこと、やがて虐められた人は、復讐の為に、誰かを傷つけてしまい、そして傷つけられた人はまた誰かに復讐すると…、
際限なくループが続いていくのだ。
だから決して人を虐めてはならないのだ。
それは巡り巡って、いつかは自分に返ってくるかもしれないのだから。
自分ではなくても、自分の子孫など、大切な物に返ってくるのだ。
だから心して生きていかなければならない。
けれど、そんな罪を犯してしまった人を、果たして私たちが裁いて良いものだろうかとは、いつも悩んでしまう。
そうしてこの世から消してしまう事で、解決するのだろうかとは、疑問に思うのだ。
そうしてしばらく今日は憂鬱な気持ちでいたのだけれど、ふと思ったのは、これも学びだという事だった。
死刑囚の方は、たとえ過去、悲惨な人生だったとしても、そして罪を犯して苦しんだとしても、そこから何か学べば、また来世には違った人生が用意されていると感じたのだ。
この世の出来事は全てが学びで、そこから気づいて自分を変えていくしかないのだという事だった。
もちろん、この事件を通して、私たちだって、たくさん変えていかなければならない事はあるのだが、
例えば、
いじめをなくす事を実践するとか、
いじめをみたら、被害者、加害者双方が、納得する様な方法で介入するとか、
そういう事を実践するのも大事だけれど、
一番は当の本人が、どうするのかが、大切になってくるような気がするのだ。
そこからどう立ち上がるのか、何を得るのか、そういう事が大切だと感じた。
これは決して突き放す事ではないのだけれど。
やはり、自分の問題は、自分でしか解決できないとは、感じた事だ。
そうして、私たちは「死」に対して、色々と思いすぎだと。
誤解を招く事を承知で言えば、
この死は良くて、この死は悪い、と思い過ぎなのでないか、と感じたのだ。
死は、死に過ぎない、
と思ったのだ。
その事に対して、他の人が、ああだ、こうだと判断する事は出来ないのだ。
誰だって死は怖い。
悲惨な亡くなり方をする方は、沢山いる。
けれど、そこにランクをつけてはいけない気がするのだ。
誰にとっても死は尊い物だ。
誰にとっても死は平等に訪れる。
それはもしかすると平安なのかもしれないのだ。
突然の不幸に見舞われたって、それまでの人生を否定する事にはならないと思う。
もっとその人のそれまでの人生を大切に思って欲しいのだ。
その死の一瞬だけに、フォーカスするのではなく。
私たちの人生は誰の人生だって尊い物だ。
一人一人が、自分の人生、そして、誰かの人生を大切にしたら、
死はそれだけの事ではないかという気がする。
この死刑囚の方も、人を殺めたのは事実だけれど、そこから何を学んだのかで、最後が決まるような気がするのだ。
もちろん、それは被害者の方を貶めるような事ではなく…。
それはよく言われる、反省とか、後悔とかいう物ではなくて、自分自身を愛するという事。
そこへ到達したのならば、けっしてこの方の人生は無駄な物ではなかったと思った。
自分を愛する事ができる人は、決して人を傷つけない。
それが分かったのなら、彼は被害者の方の心情も分かっただろう。
そこから彼は変われるだろう。
結局、私たちが残せるものはこの、何を学んだのかという事しか無いのだ、
と閃いたので、
拙い言葉で記させていただきました。
関係者皆様の心の平安を祈ります。
☆それでは今日もよい一日を。