大関暁夫の“ヒマネタ”日記~70年代大好きオヤジのひとりごと

「日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記」でおなじみ大関暁夫が、ビジネスから離れて趣味や昔話を語ります

嗚呼、洋楽生活40年(その12)

2013-07-08 | 洋楽
久々再開です。75年のお話です。最初のポール・マッカートニー来日騒ぎ。

その当時は今にもまして、元ビートルズと言えば言わずもがなの大物でした。しかしながら、66年のビートルズ来日以来、誰一人として、パフォーマーとして日本の地を訪れた者はなく、ツアー活動をしていなかったジョンとリンゴはハナから期待薄、ジョージも74年のUSツアーの散々な評価に当分ツアーには出ないと宣言、唯一精力的なライブ活動をしていたのがポールでした。

その来日騒ぎは突如降って湧きました。我々の情報源はスポーツ新聞だったように記憶しています。「ポール来日」の噂はあっという間に仲間の間で広まり、いかにしてチケットを手に入れるか、我々の相談はチケット争奪戦へと移って行きます。呼び屋さんのウドーから武道館三回公演の正式なアナウンスが流され、文化放送で発売日と発売場所が公表されるという発表があり、その日から毎日夜から深夜にかけて文化放送にかじりつく日々が始まりました。

当時ポールはウイングスを従えて、まさしくロックバンドのリーダーとして脂の乗り切った活動をしていました。私もアルバム「バンド・オン・ザ・ラン」と「ヴィーナス&マース」を持っていましたし、特に「ヴィーナス&マース」はいまだにポールの最高傑作と信じてやまない大傑作として大のお気に入りでした。その冒頭を飾る「ヴィーナス&マース~ロック・ショウ」はライブ・ステージのために作られた最高のオープニング・ナンバーでもあり、生で聞けるかもしれないという期待感に胸が高鳴りました。

文化放送は深夜放送の「セイヤング」をはじめ、得意分野ではありましたので、毎晩聞くことに何の問題もなかったのですが、その間時々うたた寝をしてしまい「今、聞き逃したんじゃないだろうか」と不安になることがたびたび。翌日学校に行っては仲間たちと、「昨日はまだ放送されていないよな」と確認しあったりしておりました。ちなみに、その時連日これでもか状態でオンエアされていたのが、「ヴィーナス&マース」からの来日記念シングル「ワインカラーの少女」でした。

この来日騒ぎの間、恐らく我々高校生を中心にどこかの私立学校のヤツが流していたのであろう整理券配布情報なるデマがまことしやかに流されて(僕らのところにも、他の学校のヤツが言っているという噂が何度か耳に入りました)、都内の各所で突如行列や人だかりできる騒ぎがあったとも記憶しています。そうこうするうちに、チケットの発売方法を発表する日時がラジオで公表されました。

いよいよ臨戦態勢で僕らはドキドキしながらその日のラジオに耳を傾けました。しかし、なぜか発表数日延期のアナウンスが…。翌日学校では、どうしたのか訳がわからない、という話で持ちきりでした。そして記憶ではそのさらに翌日、「入国管理局がポールの入国を拒否」というニュースが一斉に流され、ポール来日話は夢と消えたのです。来日のアナウンスから約1カ月ほどのお祭り騒ぎだったように思います。直後に、ポールが日本のファンにお詫びをするビデオがテレビで流されました。「ブルー・バード」を弾き語りしながらのメッセージで、この曲を聞くたびに今でもあのメッセージ・ビデオを思い出します。

あんなに見たいと思ったライブも少ないのではないかと思えるほど、75年のウイングスは本当に見たいライブでした。今でもあの時代のウイングスは見ておきたかったと思うことしきりです。だからでもあるのですが、翌76年のリリースされた3枚組のライブ・アルバム「ウイングスUSAライブ!」は、数あるライブ盤の中でもかなりフェバリットな1枚です(10年ほど前に紙ジャケ3枚組CD(=写真)で出たのを入手したのは本当にうれしかった!)。この5月には、3CD+DVD+豪華ブックレットのデラックス盤が発売になったとか。もしかするとこのデラックス盤、我々日本のウインウス・ファンが世界で一番思い入れをもって受けとめる作品かもしれません。