彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、
イエスが「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
彼らが焼いた魚の一切れを差し上げると、イエスはそれを取って、
みんなの前で食べられた。
(ルカによる福音書第24章第41節 )
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「いのち」。それも「いのち」まるごと主イエス・キリストの復活の御姿(みすがた)である。
「いのち」は食べる、「いのち」は話す、「いのち」は考える、「いのち」は歩く、「いのち」は物を見る、「いのち」は物を作る、「いのち」は眠る、「いのち」は起きる、そして「いのち」は一日一日を積み重ね、わたしたちフツーのクリスチャンの信仰では「主イエス・キリストの復活の御姿」にされていゆく。
復活の主イエス・キリストの御手(みて)によってわたしたち人間も他の生き物も「創造されつづける、永遠に」。
わたしたち人間は主イエス・キリスト以外いわゆる「完成品」はいない。ただのひとりもいない。復活の主イエス・キリストの御手によって、いわば「完成」されてゆく。
説明の仕方を変えれば、復活の主イエス・キリストに日々「いのち」をいただきながら生かされ、主イエス・キリストに似た者とされるように日々お祈りをしながら生かされる、日々復活の主イエス・キリストから「愛」をいただきながら生かされてゆく。
復活の主イエス・キリストに「いのち」をいただくということは「愛そのもの」をいただくことだ。そしてだんだん(これはわたし自身、今もなお永遠に経験してゆくことであるが)復活の主イエス・キリストに少しでも近い者にしていただくのだ。
だからフツーのクリスチャンの信仰では「いのち」ある者は「永遠に復活の主イエス・キリストの御手により、より完成される者として創造されつづける者」である。
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「いのち」は食べる、「いのち」は話す、「いのち」は考える、「いのち」は歩く、「いのち」は物を見る、「いのち」は物を作る、「いのち」は眠る、「いのち」は起きる、そして「いのち」は一日一日を積み重ね、わたしたちフツーのクリスチャンの信仰では「主イエス・キリストの復活の御姿」にされていゆく。
復活の主イエス・キリストの御手(みて)によってわたしたち人間も他の生き物も「創造されつづける、永遠に」。
わたしたち人間は主イエス・キリスト以外いわゆる「完成品」はいない。ただのひとりもいない。復活の主イエス・キリストの御手によって、いわば「完成」されてゆく。
説明の仕方を変えれば、復活の主イエス・キリストに日々「いのち」をいただきながら生かされ、主イエス・キリストに似た者とされるように日々お祈りをしながら生かされる、日々復活の主イエス・キリストから「愛」をいただきながら生かされてゆく。
復活の主イエス・キリストに「いのち」をいただくということは「愛そのもの」をいただくことだ。そしてだんだん(これはわたし自身、今もなお永遠に経験してゆくことであるが)復活の主イエス・キリストに少しでも近い者にしていただくのだ。
だからフツーのクリスチャンの信仰では「いのち」ある者は「永遠に復活の主イエス・キリストの御手により、より完成される者として創造されつづける者」である。
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