人の血を流す者は、人に血を流される、
神が自分のかたちに人を造られたゆえに。
(創世記 第7章 第6節 )
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上記の聖書の言葉はいわゆる「因果応報」の思想ではない。
わたしはフツーのクリスチャンとして最も重い罪は「殺すこと」だと思っている。以前にも書いたが、人間は他の生き物を命あるものを殺さなければ生きてゆけない。
つまり動物を殺して食べること、植物を殺して食べなければ生きてゆけない。
わたしのようなフツーのクリスチャンにとっては命とは主イエス・キリストの命だ。主イエス・キリストより与えられた命だ。主イエス・キリストという神さまの命だ。主イエス・キリストが創造した命だ。命とは愛だ。命とはまさに神の愛そのものだ。
だからはかり知ることが出来ないほどに重く、大きく、全宇宙そのものと言っていい。その「愛」を殺さなければわたしたちは生きてゆけない。これは悲しいことだが、一方では「命というものの素晴らしいシステム」だとも思う。
だから主イエス・キリストは「汝、(これ以上)殺すなかれ」と言うのだ。
上記の聖書の言葉の「人の血を流す者は、人に血を流される」は、要するに「あなたが、もし人を殺したらそれはあなたの命を殺したのと同じだよ」と主イエス・キリストは言いたいのである。
わたしたちは主イエス・キリストの命を頂きながら生きている。そのことを自覚しなければ私たちは救われないだろう。日々の糧を与えたまえと祈るとき、わたしたちは、主イエス・キリストの命を頂くための祈りをしている。
わたしたちは現代という時代に生きて、人をさえ殺すことの片棒を担がされている。わたしたちに罪なしなどと高見の見物を決め込んでいることの恐ろしさ。
罪をおかしているのに、そのことを悔い改めないなら、もちろん罰が与えられるだろう。とにかく悔い改めて祈ることだ。
悔い改めないところには、当座は罰さえも与えられないに違いない。だからこの世は「悪人」が栄えている。武器商人さえ教会で跪いて祈っている。何の罪の意識も持たずに。
しかし驕るなかれ!
驕る者は愚かなるものなのだから。
「蝮の子らよ」という言葉が聞こえないか?
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↓:まむし。
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わたしはフツーのクリスチャンとして最も重い罪は「殺すこと」だと思っている。以前にも書いたが、人間は他の生き物を命あるものを殺さなければ生きてゆけない。
つまり動物を殺して食べること、植物を殺して食べなければ生きてゆけない。
わたしのようなフツーのクリスチャンにとっては命とは主イエス・キリストの命だ。主イエス・キリストより与えられた命だ。主イエス・キリストという神さまの命だ。主イエス・キリストが創造した命だ。命とは愛だ。命とはまさに神の愛そのものだ。
だからはかり知ることが出来ないほどに重く、大きく、全宇宙そのものと言っていい。その「愛」を殺さなければわたしたちは生きてゆけない。これは悲しいことだが、一方では「命というものの素晴らしいシステム」だとも思う。
だから主イエス・キリストは「汝、(これ以上)殺すなかれ」と言うのだ。
上記の聖書の言葉の「人の血を流す者は、人に血を流される」は、要するに「あなたが、もし人を殺したらそれはあなたの命を殺したのと同じだよ」と主イエス・キリストは言いたいのである。
わたしたちは主イエス・キリストの命を頂きながら生きている。そのことを自覚しなければ私たちは救われないだろう。日々の糧を与えたまえと祈るとき、わたしたちは、主イエス・キリストの命を頂くための祈りをしている。
わたしたちは現代という時代に生きて、人をさえ殺すことの片棒を担がされている。わたしたちに罪なしなどと高見の見物を決め込んでいることの恐ろしさ。
罪をおかしているのに、そのことを悔い改めないなら、もちろん罰が与えられるだろう。とにかく悔い改めて祈ることだ。
悔い改めないところには、当座は罰さえも与えられないに違いない。だからこの世は「悪人」が栄えている。武器商人さえ教会で跪いて祈っている。何の罪の意識も持たずに。
しかし驕るなかれ!
驕る者は愚かなるものなのだから。
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