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ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

言の葉(A・J・ツワルスキー:4):高慢の罪。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

2020年08月31日 00時03分00秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
     中には災難が降りかかることを予想して、
     悪いことが起きるとホッとする人もいます。
     少なくとも現在のところ、立派に苦しんで
     いるのだという気持ちになるからです。

        (「スヌーピーたちの性格心理分析」ツワルスキー著)



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 わたしはごくフツーのクリスチャンとして、上記のツワルスキー博士の言っていることは、まことに耳が痛い。
 わたしはわたしの心身に災難が降りかかると、「フツーのクリスチャンの習性」で「ああ、わたしも主イエス・キリストの苦しみをいただける身分になったのだ。わたしもクリスチャンとして捨てたもんじゃないんだな」などという気持ちになる。まさに上記に引用させていただいたツワルスキー博士の言うとおりだ。
 こんな時わたしは「主よ、高慢よりももっと高慢なわたしをお許し下さい。主イエス・キリストの御名によってお願いいたします」と、ただただわたしが主の主、王の王として信仰する主イエス・キリストに膝をかがめてお祈りすることにしている。人間にとって高慢ほどに重い罪はないと自覚させていただいているから。
 高慢のままでいると、主イエス・キリストの御力で生かされているという信仰が消されてしまう。それはいろいろな意味でわたしにとって危険なことだ。
 だって「自分は主イエス・キリストの御力によって生かされている」のに、そのわたしの「生命の根源」がなくなってしまうことになるのだから。ちっぽけなわたしの愛、全宇宙を愛する愛が根こそぎなくなってしまう。すべてのものに対する愛、愛したいという意思がなくなってしまう。
 これは異教徒に改宗させられるよりも、はるかにわたしにとって悲しむべきことだ。
 「高慢」には、よくよく注意しなければいけない。



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     ↓;高慢。
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