ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

主イエス・キリストの祈りの姿。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

2020年11月28日 00時11分28秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
    イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、
    この井戸のそばにすわっておられた。

      (ヨハネによる福音書第4章6節 )


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 わたしたちフツーのクリスチャンは主イエス・キリストを「人間となってくださった神」という信仰をもっている。だからわたしは上記の聖句を悲痛な思いで読む。主は地上にいてくださった時「疲れていた」のである。それがどれほその「ひどい疲れ」か、わたしのようなフツーのクリスチャンにも理解させていただいている
 この拙文を読んでくださっているあなたも「ひどい疲れ」を覚えたことがあるに違いない。だって「人間だから」。
 主イエス・キリストは「人間となってくださった神」である。
 人間の性を着て下さっている、そして天の父なる神に仕えているのである。その「ひどい疲れ」は想像を絶するものがあったとわたしは思う。
 上記の聖句の「井戸のそばにすわっておられた」の「この井戸」は天の父なる神のことであるとわたしは解釈している。つまり「天の父なる神といつもいて、いつもお祈りしていてくださっていたのである」。そして主イエス・キリストご自身疲れていたから「天の父なる神のそばにすわって疲れをいやしていただいていた」とわたしは解釈させていただいている。
 クリスチャンは「神のそば近くに存在していたい」などという。しかし「人間のなった神」、主イエス・キリストも「神のそばに近く存在していたい」という想いをもってお祈りしていてくださったのである。ひとりの人間として。
 このような主イエス・キリストの謙虚さを祈り求める者でありたいと切にわたしは思っている。



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