さて、江戸学のススメの「江戸の価格」の中で「下駄」が高い事に驚いた様だった。
これでも大分安くなったのだ。
さて天狗の下駄は歯が一つだ、ところが普通は二つだよね?何故?
回答っぽい奴=「昔の加工技術が低く、元々の天狗の下駄は板でなく、丸木を割ったもので、平らな所を足に、丸い方に歯を入れた。だが、それが2つ入れると割れた可能性がある」
つまり使用する木材が「へき解性」で割って作ったからなのであろう。(つまり推測)
では江戸時代は?
ここで、重要な事。この時代、日本のみならず世界的に木工技術が特に造船技術が飛躍的に進歩したのである。何とはなれば、イギリスは最高速度30ノットのカティーサーク号を作ったのも、この頃だ。
何故か?
理由は鋸(のこ)と鉋(かんな)の進歩にある。それまでも鋸はあったが、正直「使い物にはならなかった」のである。大体、木を加工する技術と言うものはシュメールの時代から大問題であって。良くオリエントの時代で「レバノン杉の伐採」とあるが、最初の頃、エジプトの古王朝時代には鉄が存在せず、またシュメールも最初斧は「青銅」だった。青銅は刃物としては鋭くて、ある種鉄を越えたものだった。だが斧となると、全く使い物にはならず、硬い木には使えず、柔らかい木にも、暫く切込みを入れると、金槌で叩いて整形する有様であった。
鉄が出来て、ようやく森林伐採が「簡単に出来る」ようになった。実は、この鉄の進化は中国と無関係ではない。中国の文化は、紀元前3000年の頃に商王朝が成立したが、この商王朝が出来た頃には中国は森林だった。黄土高原も同じく。その中、木を切れない為に文明が広がらなかった。虫獄4000年の歴史と言うが、オリエントは8000年ぐらいある。インドも同じくである。
つまり中国は文明として「新参者」なのである。その中国の文明発展を妨げていたのが森林だった。それが伐採されるようになって、ようやく中国の王朝が何とか形になったのである。その森林は最初畑を作るためにきっていたが、その後鉄が戦争に必要になり加速度的に減少し、黄土高原は漢王朝成立頃に砂漠化していたので、恐らく戦国時代に切り落とし果てたのだろう。
実は同じようにして砂漠化したのがスペインでドレークによって「口ほどにも無く惨敗」した「無敵艦隊」を作る為に国内の森林を切り落として砂漠化が進行した。スペインにとって黄金境からの黄金の入手は却って自分の首を絞めたのだ。もっと問題なのは1990年以降この砂漠化は急激に進行しており、それが止まったと言う知らせは聞かない。
この鉄器の進歩は必ず木工細工と共になっている。或いは森林伐採と対になっている。それは鉄の精錬にコークスを使うようになっても変わっていない。鉄の形態の変化は必ず、森林=材木と影響を及ぼし合っているのである。
最初の鉄は、鋭さと強靭さを求めていて、3000~3500年前にヒッタイトが鉄を作って以来、鉄の調質が問題となっており、戦争の刃物としての進化が先で、その技術の延長線上で木材加工の道具が出来た。
宮大工は何時の時代も大工の最高峰だが、この宮大工は、江戸時代になるまで平鉋(ひらかんな)は使わず、鑓鉋や手斧(ちょうな:同番組で材木問屋を説明するイメージビデオで使われていたのが「ちょうな」である。)を使って材木の表面を削った。また、五重塔などは、往々にして荒い木質を見えない所に隠している。それは鉋と鋸が使われず、使われない理由は質が悪かったのである。
特に鋸は、昔からあるにはあったが、凡そ使い物にならなかった。すぐに歯は欠けるし、直に錆びた。また綺麗な平らの鋼の板をしなやかに作れる事はなったのだ。
その最たるものが北斎の富嶽三十六景の中の板材を鋸で切る絵である。この鋸で板材が作られるのが、日本の戦国時代の前ぐらいで、それまでは割り材で作る事が多かった。その為船の船体を薄くて強い板で構成するのは、殆ど出来ないか、削り出しでやる手間のかかるものだったのである。
実は大きさだけならオリエントの時代に菱垣廻船程度は作っていたが、直に沈んだ。理由は、強度が話にならないからだ。だから外洋に出る船は鈍重ででかかった。
そこで下駄の話となる。
下駄に使われているのは、横4~5寸、長さ6~8寸程度。この程度の厚さ1寸の板材は大変高価だった。何故なら太さ1尺以上の丸太で無いといけないからだ。同番組で紹介されたように、材木は高かった。その材木の値段は太さで決まる。当時の柱では平屋で4寸角程度で、これが材木の規格となる。この材木が1尺なら4本取れる。それに比べると、下駄の板材は、鋸を入れる長さなどを考えても手間と技が要るもので、到底安くは出来なかったのだ。
また下駄に比べ草履は減り易く、消耗品で、下駄は耐久消費財である。履物と言うくくりで見ている時点で考え方が間違っているのである。更に言うと、下駄は歯を何度も変える。この歯は身と違い、小さな為に棒手振りの小資本でも買えたのである。だから容易に変えられたのだが、身の方は代々使われたようである。
更には、下駄は雨の時にも足が濡れ難い為に、上級の人が履くステイタスの高い履物だった。例えば花魁は高下駄を履いているが、それはステイタスを証明するものなのである。また、この頃普通に下駄を履いているのは、坊主である。この坊主も社会の寄生虫として、無意味に保護され、裕福を謳歌した。
さて、そう言うと、よく時代劇で子供が下駄を履いているじゃないか?と言う馬鹿が出てくるだろう。
大きさを考えろ!横2寸、縦5寸。つまり薪に毛の生えた程度の用材で作れる。だから子供用は比較的安くで入ったのである。
さて、最後にだが、宿代だが、金を払う宿では250~300文程度を出す。それでは4500円で大層高いではないか?と謂うだろう。そこが森永卓郎君が江戸時代の論説が無理なのである。
江戸時代の旅と言うのは往々にして木賃宿に泊まり、米やおかずは買ったり、取ったりして、自前で用意するのである。また木賃宿どころか、タダの宿も多かった。これを「善根宿」と言い、街道沿いにはあったのである。この善根宿を修行僧や六部(一般人が、坊主のような事をやりながら、旅をすること)が利用したが、一般人も別に差別は無い。
ただ伊勢講を旅の全てと言うのもどうかと思う。また出発起点により、費用がまるで違う。この伊勢講は遠くからの旅は命がけで、街道沿いには、旅の途中で死んだ人間の処理が、担当の藩の役目となり、これが結構な手間だったそうだ。基本的には、同じ出所の人間を関所で見つけると、故郷の近所か?と聞いて、後事を託すのである。その時持っていたものはきちんと取ってあって形見として渡されたと「泉光院」の旅日記にありました。
因みに、伊勢などの有名な所や廻船の止まる港などでは、関係が深い藩の問屋がありました。昔問屋は、その国=藩の品物を一括して扱う「国問屋」が一般的で、その後、商品ごとの「問屋」が整備されました。つまり十組問屋などが整備された後の話なのです。
その後も国問屋は地方政府の出先機関として残り、「泉光院」の出身「佐土原」と言う小藩でも国問屋は長崎、江戸、大阪などに存在した。旅の途中で死んだ人の後事は、この様な国問屋でも請け負った可能性がある。この後事は、死んだ人に世話した手間賃の払いもあるので、この辺は生臭い。
そんな感じで、色々書いていますが、まだまだ知らない事が山ほどある。もう、江戸時代は深い深い。
実際、時代劇が書かれない訳が分かった。
凄く手間がかかるし教養も深いものが必要だが、これが売れない。私は幾つもの立派な小説を見つけたが、これが初版で絶版絶版絶版の嵐。全く、このニッポンには、小説のよしあしの分かる奴が居ない!と思って憤慨する私でした。