日本というのは極めて奇妙な国で、先ず天皇の詔で「奴隷」が居ない。最高権威は変わらない(天皇制)。
それよりも変なのは通貨の使い方が恐ろしく下手だったくせに15世紀から極端に活発化し18世紀には今の経済学者が驚く程の発展を遂げました。
マネー経済は、基本的に経済にコミットメントしない幕府の元での、限定的な管理の下、発展をしましたが、それらを皆さんが正確に知ることはないでしょう。
先ず池上ハゲ嘘彰の寝言。これがまともと思っているようですね?ハゲ嘘は「両替商」を「銀行」と言いたがるのですが、先ず、それが馬鹿の馬鹿たる所以です。
日本には金融機関として質屋があり、これが当時の存在として銀行に近いのです。
また相対取引で金融をする事も多く、例えば女衒(慶応の母体)です。また医者(当然免許なんか無いが儲けたらしい)や、信じられないでしょうが「坊主」が悪辣な金貸しをしていたのです。
これは江戸時代の生類憐れみの令を発した徳川綱吉が生まれ干支が犬だからと言われていますが、実は、この頃に至るまで、坊主の「肉食(犬・猫を好んだ。まるでチョンだが事実)」を禁じる為のものであり、一部の僧侶以外は坊主は「嫌われ者の強欲でケチでレイプする奴ら」と言うのが現状でした。
綱吉を尊敬し捲っている吉宗は、その精神を受け継ぎ、初めて「乱行坊主」を「僧籍から外す」と言う事をしだして、主に淫乱の基本「一向宗(浄土宗・浄土真宗)」をぶっ叩きました。
また、これら日本の歴史的経済(通貨を中心にしたもの)は日銀通貨研究所のディスカッションペーパーを下にして話しています。
さて、日本という国は、妙に通貨の概念がないのです。その一方で、貿易は結構盛んだったとは信じられないでしょうが事実です。
分かるでしょう?貿易が盛んだったと言う事を意外と思う事は日本史をまともに知らないと言う事です。
皆さん知らないでしょうが、平安時代末期頃から貿易はかなり確固たる国家の収益になっていました。
それは外国の珍品を欲しがる権力者と日本の金銀銅を求める外国との関係でした。
日本の経済的威力は、フビライハーンですら下手にでさせるほどのもので、相当でした。泉元彌のやった北条の対応は基地外並でした。
この馬鹿が居た間を除いて、日本は常に貿易を行っていたのですが、先ず950年頃に朝廷の貨幣鋳造の失敗を受けて、清盛の出てくる頃まで、通貨経済は殆んど存在しなかったのです。
笑えない問題の糞馬鹿は知りません。
この通貨を気にしなくて良い時代は、権力者が貿易を一手に握っていました。
例えばNHKの大河ドラマ「炎立つ」で、平泉が妙に京都から苛められたのは、独断で貿易をしていたフシがあるのです。
それって分かりません?
当時通貨の中で王様は純度がほぼ100%の砂金なのです。それを持っている平泉は、野心があれば、幾らでも京都の連中を叩けたのです。
それをしなかっただけ東北の人は優しく野心がないと分かるでしょう、まぁ青森の「羽柴秀吉」って名乗っている馬鹿以外ですが。
先ず室町時代は妙な時代でしたが、この状況を結構正確に表しているのがアニメ「一休さん」でした。
この頃、文、貫などの単位で通貨が流通しました。
その効力に目をつけたのが日野富子でした。所謂通行税ですね。
そして、国が荒れると、貿易を自分らでやろうとする連中が出てきました。
この時日本の最初の「株式会社」が出来たのです。
日本の会社組織は西暦500年頃ぐらいからある宮大工などの会社がありますが、それは株式会社ではありません。
しかし室町時代の会社は資本を坊主に出させて(この時代日本の資産は武家+朝廷と坊主が折半で持っていた。)貿易会社を作ったのです。
それが堺などの商人でした。
商人は、近くに寄ってきたヨーロッパ人からイタリアの商業都市の話を聞いて、商業に拠る自治権の確保を行い、同時に商業に拠る通貨の流通を行いました。
その最初が二日市とか四日市とかの日付市であり、その後北条氏の行う、商業経済に惹かれ、日本国中が経済的に潤う事を戦争と同時にやって来たのです。
最終的に楽市楽座となりましたが、それは、それまでの市に対する諸国の動きを見て信長が判断した結果であります。
毎度糞馬鹿文化系大学出の糞馬鹿教師+日教組は、勘違いさせますが、北条氏も武田信玄、上杉謙信なども決して市場経済を無視していたわけではなく、何よりも「敵に塩を送る」の故事でも分かりますが塩の流通は存在しており、送ると言うのは経済システムが狂っていた証拠で、その中塩不足の信州に塩を送ったと言うのは経済的異常事態と何故説明しない?
理由が分かりません?って言うか、これがどんな事態かって学校の糞馬鹿教師知らないの?
また、この時代、重要な問題が発声します。
それは日本への大量の鉄の輸出です。
日本側では「輸入」ですが、大量の鉄が朝鮮と中国から大量に送り込まれました。
まぁチョンは鉄を作る能力も大分落ちていたから、流通の中迂回をしていただけでしょうが、この頃の日本は、荒っぽくて海賊が(倭寇)商社の面をして金を払わず手にした鉄も相当量あったようです。
この鉄の大量入荷は武器になり、その後、刀刈りで、農具に鋳込み直されました。
この時に役立ったのが鍛冶屋でした。
実は、江戸時代になる前には鍬は石鍬でした。
石鍬は、重く、壊れやすく、また効率的に耕せませんでした。
それが鉄になると、って言うか木に鉄を被せる(これが江戸時代初期の鍬)形で、使われると軽く簡単に耕せるようになりました。
これは秀吉が行った偉業の一つで、その事を延々と糞馬鹿文化系大学出は馬鹿だから知らない、低能だからわからないのです。
鎌倉時代、鉄鍬は存在しましたが往々にして荘園主や領主の所有物で農家の手持ちの土地は石鍬で耕されており全体の生産量が増えませんでした。
つまり戦国時代は日本に「市場の活発化・効率化」と「鉄の大量の輸入を促した」そして「武器の鉄から農具の鉄に代わった」と言う変化を起こしたのです。
これは経済を活発化させるに十分でした。この功績を載せない教科書という白痴調教化文書を幾ら読んでも事実が分かりません。
戦国時代は太陽の活動が応仁の乱で落ち始め、戦国時代で上昇に転じた後関ヶ原で太陽活動は部分的最大になります。
その後島原の乱ぐらいから低下します。
太陽活動の低下を「マウンダー極小期」と言います。
このマウンダー極小期の間ヨーロッパは、飢饉の山でしたが、日本には3回しかありません。
それは日本の農業行政が「徹底されていた」と言うことです。
長くなったので続きます。