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おせっちゃんの今日2

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折々のことば・・・伊東四朗

2024-05-22 13:43:14 | 言葉

ず~っと「折々」にもたれかかってばかりです。今日もまた・・・です、お許しください。
私は、全くその道に入ったことが無いのですが、伊東四朗氏の言葉と、その解説に使われた言葉に、妙に心を打たれましたので、メモ代わりに記します。

『わたしは汗をかく熱演というのがどうも苦手なんですよ』  伊東四朗

「けろっとした顔でやって、終ったとたん、どっと汗をかく」というのがプロだと俳優は語る。
「軽~く器用にこなすのは嫌だけれど、懸命に稽古してきましたっていうのが表に出ちゃうのも嫌」
「汗が出るのは演技の最中に自分のこだわりが残っているからで、役に徹すれば汗もかかないと」と。

プロはやっぱり違う、演技を考え考えた末に、それを実際に体全体で表し、観客に、なんだ、ただ普通に立っているだけではないかと思わせるところまで自然体で努められるように、仕上げてのことなのだろうと、分からないままにも、思いいたすのです。

俳優の汗という時、頭に残っている言葉があります。私は結婚するまで、山口県の片田舎に、暮らしました。すでに幾度も書きましたけれど、時代は戦後で、日本が貧しい時代、我が家は、父が追放され、貧窮の時代でした。新生活を始めた福島市から、東京に出てきて、舅に会うことがありました。舅は、私をお芝居に連れて行ってくれました。確か、水谷八重子の「女の一生」だったと思います。

幕が上がると茶店のようなところで、何人かが雑談をしているよう。そこへ八重子氏の登場です。この時の場の変化が、今も私の脳味噌のしわに刻み込まれています。一瞬劇場全体の空気が変わったのでした。

後にお芝居を観に出かけることもしましたけれど、夏の盛り、今ほど冷房完備でもないところで、涼しい顔で勤める女優さんに感心したものです。後に雑誌か新聞かで読んだ知識だと思いますが、大女優が「あせは出ない!!」と思えば出ません。帯の下には出ても、顔には出ないものです。と言い切っていて、これも私の折々のことばのひとつとして残っています。


古代ギリシアの哲学者・アリストテレスの言葉

2024-05-21 13:49:52 | 言葉

不勉強で、名前だけは知っているけれど‥‥??と言ったところです。

『人は建築することによって大工となり、琴を弾ずることによって琴弾となる』 アリストテレス

ここは解説者の解説で哲学者に近づいてみよう。

人は正しいことをする中で正しい人になり、節度あることをする中で節度ある人に、勇敢な行為をする中で勇敢な人になると古代ギリシアの哲学者は言う。
「人となりというときの「なり」も、生まれもったものではなく、ある行為の形(なり)を繰り返しなぞる中で人がなりゆくもの。その習いを怠れば直ぐに崩れてしまう。

自分が理想と思うものに近づくには、それに向かって一歩一歩努力を重ねることだろう。その努力の中で、自らの身体も、心も理想の形に形づけられ、それがその人の「人となり」にまで昇華するのでしょう。


12日間も・・折々の言葉から

2024-05-20 13:30:19 | 言葉

『俺たちはこれで12日間も旨いものを食っているんだ』  ジョン・E/・スタインベック

暁の道で綿摘みをする季節労働者のキャンプに出くわす。夫人が赤ん坊に乳を吸わせながら朝食の用意をしている。焼き立てのパンとベーコンと熱いコーヒー。誘った一人が冒頭の言葉をくちにした。

今日の言葉は、12日間もの「も」に尽きると思います。これが「しか」だったら、この夜明けの美しさも、働く喜びも、充足した労働も、全く違うものになってしまうだろう。
決して豊かな、楽な生活ではないだろう。満足だけの生活ではないだろう。でも、搾取されることのない労働、充足感があったのです。


子供との会話・・気をつけなくっちゃと思います

2024-05-18 14:11:56 | 徹子の部屋出演者

gooブログを書き始めて、20年は超えたでしょうか。途中、私の過ちか、どうかがはっきりしませんが、10年以上のものがきれいさっぱり消えてしまったのです。そこでもうやめよう!とも思ったのですが、数少ない読者の方からのお励ましに豚が木に登り、今日に至っています。

gooブログでは、事務局の方のご努力で、投稿者に1年前の投稿文を知らせてくださるのです。自分が書いたものなのに、すっかり忘れていることもあり、、こんなことを考えていたのか、生意気にも書いていること!!などと思いながら読むのはまた楽しいことです。ありがとうございます。

昨日のことだったと思います。いつもの私流の文で、「折々のことば」を種にして書いておりました。

最相葉月さんの「言葉が可哀想で、恐れさえ覚える」が主文に取り上げられていました。
人が発する言葉が、時に耐えがたいほど軽くなっている、とのご感想。その尻馬に乗って、私が算成文を書いているのは笑止のことですが。

人間は、考えるという動作は、言葉で行うものだと思うのです。言葉がなければ考えられないと思うのです。その言葉全体が、どうにも、怖くなるほど軽いとおっしゃるのです。たしかに「すごい」「無茶苦茶」だけでは考えるところまではたどり着けない気がします。

折々のことばと匹敵するほど、よく見るテレビ番組に「徹子の部屋」があります。お名前を忘れましたが、女優さんでした。最近お子様を出産なされ、子育てに奮闘。周囲の理解もあって新しく女優の道を再び歩み始めたと言っておられました。

その方がつくづく言っておられました。「子供が、びっくりするほどのスピードで、言葉を覚えるのです。私が自分の言葉に気をつけていないと、ついつい若い方々の今風言葉が混じってしまうのです。子供はこれを本当に素早く取り込みます。私は、半分出掛かった口を押さえるようにして話すことたびたびです」と。

そうなんですよね。若者中心で、流行のものが蔓延するのは仕方がないともいえるし、もしかしたら、言葉の発展の一過程かも知れないのです。でもそれに年長のものがへつらって、自分の言葉を捨ててしまって迎合してはいけないと思うのです。時代時代に生きた言葉があるのは当然のこと。自分の言葉を発して日本語を守りましょうよ。お若い方も、流行に乗ることばかりが、かっこいいのではなく、時には怒りさえ買うこともあるのだと知って、考えてみてください。

 


魚を取る方法を教えよ・・幸せへの近道

2024-05-17 13:50:16 | 言葉

『人間はね、人に希望を与えるような生き方をせな、あかん!』

4月19日の折々のことばには、バイマ―ヤンジンの義母のこの言葉が取り上げられていました。
浅学でバイマ―ヤンジン氏を知らないけれど、チベット人で日本人と結婚し、大阪で暮らし始めた人のようです。
「魚が欲しい人には、魚を与えるのではなく、それを獲る方法を教えよということわざを知り、教育の重要性を痛感し、アルバイトで得た給料を貯めて故郷に注ぎこみ、学校を作った人のようです。

このことわざ、コマーシャルでも使われていて、耳になじんでいました。教育を短絡的でなく、長い目で見て、問題を根本から解決する方法を考えることの重要さを言っており、私の頭にもきちんとしまわれています。一体いつから諺として多くの人に知られたのだろう。私の子どものころには、聞いたこともなかったけれど。

今、AIだの、ネットだので、あっという間に正しいと(思われる)解答が得られます。確かに便利です。でもあまりにお手軽過ぎないかと思うこともあります。学生・生徒はググって、素早く苦労もなく回答を得るようです。
速いことはいいことだとばかり、斜め読みに読み散らし(倍速読みというらしい)、コピーして終わりと言う手軽さに落ち込むようです。

はたしてこれでいいのかしら。学生時代から手紙が続いているボーイフレンドは、趣味でずっと小説を書いていますが、倍速読みを怪しからんとお怒りです。ゆっくり、じっくり読み解き、自分の考えも理解し直し、作者の真の思想を読むという作業もなく、読み飛ばすのか、と。

人間、知識らしきものを手に入れたような気がしているだけで、本当の教育など受けるすべさえ知らないまま短い一生を消化してしまうのでしょうか。命を無駄に投げ捨てることにならないのでしょうか。