・・【 orionの首飾り】★★★

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鎌倉 杉本寺 画像16枚

2014-11-14 04:54:34 | 22🔵江ノ島 鎌倉🔵
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■Wikipediaより引用しました。■
杉本寺(すぎもとでら)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある天台宗の寺院。山号は大蔵山。本尊は十一面観音で、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所の第1番札所である。鎌倉最古の寺とされている。

歴史

寺伝によれば、天平6年(734年)行基が十一面観音を安置して創建したのに始まるという。文治5年(1189年)堂宇が焼失しているが、このとき観音像は自ら本堂から出て、境内に避難したと伝えられる。『吾妻鏡』によれば、中世には大倉観音堂と呼ばれ、文治5年(1189年)の火災時には別当浄台房が炎の中から本尊を持ち出し無事であったという。同書には建久2年(1191年)源頼朝が当寺を参拝し、修理料を寄進したとある。

背後にはかつて杉本城があり、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長(?-1337年)が拠ったが、南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺で自害している。

境内

本堂前の苔むした石段
金沢街道から石段を上った先に山門(仁王門)が建ち、さらに上ったところに本堂(観音堂)が建つ。山門から本堂へ上る正面の鎌倉石の石段はすり減っていて通行禁止となっており、参拝者は左側の新しい階段を使用する。本堂の裏山は杉本城跡であり、本堂右手前には杉本城の戦いで戦死した斯波家長と一族の供養塔とされる石塔群がある。

山門(仁王門)
切妻造、茅葺の八脚門。左右に金剛力士(仁王)像を安置する。江戸時代、18世紀半ば頃の建立。
本堂(観音堂)
寄棟造、茅葺、方五間(正面側面とも柱間が5間)の密教仏堂である。棟札から延宝6年(1678年)の建立と判明する。堂内奥には本尊として3体の十一面観音像を安置し、他に前立十一面観音像、新十一面観音像、観音三十三応現身像、毘沙門天立像、地蔵菩薩立像(2体)などを安置する。
十一面観音立像(3体)
本尊として3体の十一面観音立像を安置する。中央の像(像高166.7センチ)は寄木造、漆箔仕上げで、円仁(慈覚大師)作と伝承され、衣文に平安時代風を残すが、鎌倉時代に入っての作とみられる。中尊の左(向かって右)の十一面観音立像(像高142センチ)は寄木造、漆箔仕上げで、源信(恵心僧都)作と伝承されるが、実際の制作年代は鎌倉時代である。右(向かって左)の十一面観音立像(像高153センチ)は行基作と伝承されるもので、素木の一木造であり、3体の中ではもっとも古様で、平安時代末期の作と推定される。作風は素朴で、ノミ痕を残す部分もあり、専門の仏師ではない僧侶の作かと推定されている。中央と左(向かって右)の像は国の重要文化財に指定されている。伝・行基作の十一面観音像は、伝説に基づき「覆面観音」「下馬観音」の別称がある。昔、馬に乗ったまま杉本寺の門前を通ろうとすると必ず落馬したが、蘭渓道隆(大覚禅師)がこの観音像の顔を袈裟で覆ったところ、落馬する者はいなくなったとの伝承から、前述の別称が生じた。3体の観音像は格子戸の奥に安置されており、間近での拝観はできないが、毎月1日と18日に開帳が行われる。このほか、前立十一面観音像は源頼朝の寄進と伝えられるものであり、新十一面観音像は昭和期に当時の住職が造像したものである。


鎌倉・北条高時 腹切りやぐら 画像14枚

2014-11-13 09:44:00 | 22🔵江ノ島 鎌倉🔵
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東勝寺跡地です。
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⇦祇園山ハイキングコース
鎌倉駅⇨


■Wikipediaより引用しました。■
東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。

背景
経過

各地で敗走した鎌倉勢は、鎌倉の七切通しを封鎖。新田勢は関口を本拠に、小袋坂、化粧坂、極楽寺坂の三方から攻撃することとし、義貞はそれぞれの指揮を執る将を新田一族で固めた。小袋坂は山側で鎌倉勢の執権・赤橋守時が守るのに対し新田勢は堀口貞満らが攻め、中央の化粧坂には金沢貞将に対し新田義貞、脇屋義助が率いる主力が攻める。七里ヶ浜に面する海側の極楽寺坂は大仏貞直が守り、大舘宗氏らが攻めた。戦いは膠着し、特に極楽寺坂では指揮を執る大舘宗氏が戦死するほど苦戦する。

義貞は切通しの突破を諦めて、干潮を利用しての稲村ヶ崎から海岸線ルートでの鎌倉侵攻を試みる。(室町時代に成立した軍記物語『太平記』によれば、義貞が海神に祈願すると潮が引き、新田勢は由比ガ浜へ進入、鎌倉へ進攻できたとされる。)背後を突かれた形となった幕府軍は鎌倉市街や切通しなどで大仏貞直、大仏宣政、金沢貞将、本間山城左衛門、そして当時の執権赤橋守時(北条守時)などが戦死した。

北条高時らは東勝寺に追い詰められ自害した。『太平記』によれば寺に篭った北条一族と家臣は、長崎高重、摂津道準から順にそれぞれ切腹、最後に高時、舅の安達時顕と自害したという(他に第13代執権の普恩寺基時(北条基時)、内管領の長崎高資、第15代執権の金沢貞顕(北条貞顕)など)。『太平記』には、自害した人々は283人の北条一族と家臣の870人とあるが、文学的誇張もあると推察される。

腹切りやぐら

現在の東勝寺の旧跡の北方には「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらが存在している。東勝寺旧跡での発掘調査では三つ鱗の入った瓦などが見つかるものの遺骨の発見はなく、新田勢や時宗の僧らによって遺体が処理されたと考えられている。腹切りやぐらは、その名称から東勝寺での戦死者と何らかの関係があるとされていて、今でも供養会では卒塔婆が立てられる。ただ高時の首塚を伝えるやぐらは、各所に存在する。

鎌倉でのこの戦闘の後、この地で死んだ北条一族を弔うため、足利尊氏によって宝戒寺が建てられた。宝戒寺の地は、もとの北条執権邸の地である。

鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷奥山頂部には、「宝戒寺二世普川国師入定窟」と伝える巨大なやぐらを中心に釈迦堂奥やぐら群と称する多数のやぐら群が存在した。やぐら群には多量の生焼けの人骨があった。昔から東勝寺での戦死者の遺体をこのやぐら群に葬ったとの伝承があった。昭和40年代の宅地開発の際にやぐらが破壊され、「元弘三年五月廿八日」の銘のある五輪塔の一部が発見された。まさに東勝寺合戦の初七日の供養をしめすものであり、伝承が事実であったことがわかった。やぐら群は昭和40年頃に宅地造成によって主要部が破壊されたが、一部は現存しているという。

稲村ヶ崎 画像17枚

2014-11-08 04:18:47 | 22🔵江ノ島 鎌倉🔵
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稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地の碑
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稲村ヶ崎の碑
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水平線に見えるのは、江の島です。
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あずま風?の建物から江の島と富士山が見えてるようです。(^^)
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この日、稲村ヶ崎でテレビ局のロケがありました。江ノ電の駅から海岸線に出て、遠くから見てました。すぐに極楽寺方面に徒歩で移動したので、誰かわかりませんでしたが、そこにおられた観光客に聞いたら長谷川理恵さんだったそうです。(長谷川理恵さんの地元?らしいです。)
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■Wikipediaより引用しました。■
地名の由来は、稲穂を重ねたように見えるためだと言われている。古来良質な砂鉄が採取できることで知られ、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたと考えられる。

歴史

中世
鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月に上野国(群馬県)新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸河原の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉にせまった(鎌倉の戦い)。5月18日極楽寺口より攻撃を加え、21日には義貞みずから稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が『太平記』に記されている(ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている)。

近世以降
幕末には外国船監視のための台場が置かれ、長州藩が防衛にあたった。

1928年(昭和3年)、県道片瀬鎌倉線(後の国道134号)の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれた。また、第二次世界大戦中には伏龍隊の地下基地があった。

1960年代から付近の丘陵地が大規模住宅地として開発され、1969年には旧大字極楽寺から分離され、稲村ガ崎一-五丁目として住居表示が実施された。

現代

現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成中学校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑(『真白き富士の根』の歌詞を刻む)、コッホ博士記念碑などもある。サーフィンのメッカとして有名であると同時に、海水浴場としても使用されてきたが、近年、砂の流出が進み、2003年(平成15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなった。