・・【 orionの首飾り】★★★

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稲村ヶ崎 画像17枚

2014-11-08 04:18:47 | 22🔵江ノ島 鎌倉🔵
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稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地の碑
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稲村ヶ崎の碑
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水平線に見えるのは、江の島です。
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あずま風?の建物から江の島と富士山が見えてるようです。(^^)
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この日、稲村ヶ崎でテレビ局のロケがありました。江ノ電の駅から海岸線に出て、遠くから見てました。すぐに極楽寺方面に徒歩で移動したので、誰かわかりませんでしたが、そこにおられた観光客に聞いたら長谷川理恵さんだったそうです。(長谷川理恵さんの地元?らしいです。)
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■Wikipediaより引用しました。■
地名の由来は、稲穂を重ねたように見えるためだと言われている。古来良質な砂鉄が採取できることで知られ、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたと考えられる。

歴史

中世
鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月に上野国(群馬県)新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸河原の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉にせまった(鎌倉の戦い)。5月18日極楽寺口より攻撃を加え、21日には義貞みずから稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が『太平記』に記されている(ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている)。

近世以降
幕末には外国船監視のための台場が置かれ、長州藩が防衛にあたった。

1928年(昭和3年)、県道片瀬鎌倉線(後の国道134号)の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれた。また、第二次世界大戦中には伏龍隊の地下基地があった。

1960年代から付近の丘陵地が大規模住宅地として開発され、1969年には旧大字極楽寺から分離され、稲村ガ崎一-五丁目として住居表示が実施された。

現代

現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成中学校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑(『真白き富士の根』の歌詞を刻む)、コッホ博士記念碑などもある。サーフィンのメッカとして有名であると同時に、海水浴場としても使用されてきたが、近年、砂の流出が進み、2003年(平成15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなった。