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朝倉義景館
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■一乗谷朝倉氏遺跡■
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。
■Wikipediaより引用しました。■
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唐門(現在の朝倉館跡西門)
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朝倉義景館前に流れている一乗谷川です。
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五代朝倉義景公の墓所
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一乗谷炎上■Wikipediaより抜粋しました。■
天正元年(1573年)8月8日、信長は3万を号する大軍を率いて近江に侵攻する。これに対して義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとするが、数々の失態を犯し重ねてきた義景はすでに家臣の信頼を失いつつあり、「疲労で出陣できない」として朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否する。このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣した。
8月12日、信長は暴風雨を利用して自ら朝倉方の砦である大嶽砦を攻める。信長の電撃的な奇襲により、朝倉軍は大敗して砦から追われてしまう。8月13日には丁野山砦が陥落し、義景は長政と連携を取り合うことが不可能になってしまった。このため、義景は越前への撤兵を決断する。ところが信長は義景の撤退を予測していたため、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受けることになる。この田部山の戦いで朝倉軍は大敗し、柳瀬に逃走した 。
信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受けてしまう。 義景自身は命からがら疋壇城に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死してしまった。
義景は疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。8月15日、義景は一乗谷に帰還した。ところが朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていた。義景が出陣命令を出しても、朝倉景鏡以外は出陣してさえ来なかった。
このため義景は自害しようとしたが、近臣の鳥居・高橋に止められたという。8月16日、義景は景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、東雲寺に逃れた。8月17日には平泉寺の僧兵に援軍を要請する。しかし信長の調略を受けていた平泉寺は義景の要請に応じるどころか、東雲寺を逆に襲う始末であり、義景は8月19日夕刻、景鏡の防備の不安ありとの勧めから賢松寺に逃れた。
一方、8月18日に信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、手当たり次第に居館や神社仏閣などを放火した。この猛火は三日三晩続き、これにより朝倉家100年の栄華は灰燼と帰したのである。
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朝倉館跡の奥側、湯殿跡庭園に通じる坂道の上から見た風景です。
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朝倉館跡庭園(特別名勝)
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朝倉館跡全景、手前下方に朝倉館跡の案内板があります。