しばられ地蔵は、林泉寺のほか南蔵院にもあります。
南蔵院
葛飾区東水元2-28-25
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《珍獣の館内
昔話の舞台を訪ねて「縛られ地蔵」 》より
大岡越前(おおおかえちぜん)の名裁き。地蔵を縛って盗賊を一網打尽の巻。
昼寝中に反物を盗まれる
室町の越後屋八郎右衛門の店に出入りしている者で、弥五郎という荷担ぎがおりました。
それは真夏のこと。お天道さんはギラギラと照りつけて、ひどい暑さでした。
弥五郎はフラフラしながら山のような荷物を背負って歩いていました。松戸郷から室町の越後屋さんまで白木綿を運ぶ途中でした。
本所中の郷というところにさしかかると、ある寺の大きな木の下に石のお地蔵さんあって、とてもいい木陰になっていました。
弥五郎は、これ幸いと荷物をおろし、石地蔵の台座によりかかって休んでいると、急に眠気をもよおして、すっかり眠り込んでしまいました。
ふと目を覚ますと、すっかり日がかたむいて、通りには人気がなくなっていました。
こりゃ寝過ごした。すぐに出発しなければと、かたわらにおろした荷物を見ると、どうしたことか見つかりません。
あわてた弥五郎は寺にとびこんで、白木綿の反物を持ち去った者を見ませんでしたかとたずねましたが、お坊さんたちも気の毒そうな顔をしながら
「さあ、そういう者は見なかったねえ」
と、言いました。
この上は死んでおわびを…
しかたなく、室町の越後屋へ帰りわけをはなしましたが、
「昼寝をしていて荷物を持っていかれたってかい。そんなマヌケな話を信じられるもんかい。おおかた勝手に売り払って遊女か博打にでも使ったんだろうさ」
といって、誰も信じてはくれません。おまけ反物の代金を弁償しろといわれ、弥五郎はすっかり困ってしまいました。
反物は五百反ありました。そんなにたくさんの白木綿を弥五郎ひとりで弁償できるはずがありません。荷担ぎの元締めにも相談してみましたが、元締めもギリギリの生活をしていますから、かわりに弁償してやるわけにもいきませんでした。
思えば自分が油断して寝こんでしまったのがいけないのです。この上は死んでおわびをするしかないと、弥五郎は親しい友人に別れを言いに行きました。
友人はたいそう驚いて、弥五郎の話をすっかり聞いてしまうと、
「よしわかった。死ぬ覚悟があるならいくらでも方法があるってもんだ。
南町奉行所の大岡様は名奉行だって評判だから、奉行所へとびこんで死ぬ気で訴えてみろ。
何があっても引いちゃならんぞ。大岡様のお耳に入るまで、一歩も動かず死ぬ気で訴えりゃ、直々にお取り調べとなって、万事うまくおさめてくださるさ」
と、言いました。
弥五郎はそれを聞くと、大喜びで奉行所へとんで行き、大きな門の前で声をはりあげて言いました。
「私は室町の越後屋さんに出入りしている荷担ぎの弥五郎と申す者でございます。
本所中の郷の石地蔵の前で居眠りをしていたところ、大事な荷物を何者かに持ち去られてしまいました。
越後屋さんは反物を弁償しろとおっしゃいましたが、五百反もの白木綿を弁償できるあてもありません。
この上は入水しておわびをと決心しましたが、私が死ねば責任は荷担ぎの元締めにふりかかってしまいます。
どうか大岡様じきじきのお取り調べをお願い申しあげます。お聞き届けいただけない時には身を投げて死ぬ覚悟でございます」
大岡様といえば南町奉行所でいちばん偉い人です。ただの町人がいきなり駆け込んで、大岡様に会わせてほしいといっても簡単にはとりついでもらえません。弥五郎は三日のあいだものも食べずに座り込んでいました。
そのうちやっと、役人が弥五郎のことを大岡様のお耳に入れたところ、
「人の命を救うことより重い仕事はあるまい」
と、さっそく弥五郎を呼んで、事の次第をくわしく聞いてくださいました。
悪いのは地蔵である
大岡様は弥五郎の話をすっかりお聞き届けになると、おもむろにこうおっしゃいました。
「ふむ、なるほど、あいわかった。
地蔵菩薩といえば国土を守る仏である。その方は地蔵にあずければ安心と思い、荷を下ろして休んだのであろう。
その方の油断にも責任があるが、地蔵ともあろう者が目の前で盗みをはたらく者を見て見ぬふりをするとはけしからん。
さっそく縄をうち、引っ捕らえて吟味(取り調べ)せねばならん。あるいはこの地蔵こそ盗人とつるんで悪事を働いているのかもしれぬ」
こうして地蔵は縄でぐるぐる巻きにされ、大八車にのせられて両国のほうへとガラガラと引かれていきました。
大岡様が地蔵をお取り調べになるという話はたちまち評判になり、一体なんの罪でしょっぴかれるんだろうと、江戸の町民たちがぞろぞろと集まってきました。
やがて地蔵は奉行所に到着しましたが、ついてきた野次馬たちも大八車のあとについて奉行所に入っていきました。
さて、お白州に引き出された地蔵に、お奉行様は恐い顔をして言いました。
「その方、人々から南無地蔵大菩薩と尊敬をうけ、人々を慈悲にて救わねばならぬ身でありながら、目の前で盗みをはたらく者を見過ごすとは不埒千万である。知っていて止めぬは盗人と同じである。今すぐ盗賊を白状いたせ。さもなくば入牢申しつけるぞ」
けれど相手は石のお地蔵さんですから返事をしません。
見物人から罰金をとる
ことの次第を見物していた野次馬たちも、大岡様は一体どういうおつもりかと、ひそひそと話しはじめました。
それを見て大岡様は言いました。
「ええい、この者たちはなんじゃ。お白州に勝手気ままに入り込み、吟味を見物するとは不届き千万。前後の門を閉じよ。ひとりも逃すな」
野次馬たちは大騒ぎ。どうかお許しくださいとお慈悲を願いましたが大岡様は許してくれません。いったんは家に帰されましたが、あとできついお仕置きがあるぞと全員にきびしく言い渡されました。
それから十四、五日たって、奉行所からお達しがありました。
「奉行所に勝手に入り込むことは不届きであるが、分別のない若者のしたことであれば重罪とはいえぬ。
もとは木綿の吟味からはじまったことであるから、木綿一反の科料(罰金)を申しつける。三日のうちに持参いたせ」
牢屋に入れられるんじゃないかと思っていたので、そんなことで済むのならばと、ほっと胸をなでおろしながら木綿を持って奉行所へ行きました。
集まった反物の中に盗品が
こうして三日のうちに白木綿の反物が山と積みあげられました。
そこで大岡様は弥五郎を呼んできて、
「この中から盗まれた反物を見分けることができるか」
と、おっしゃいました。
弥五郎が反物をしらべていくと、中に二反だけ盗まれた反物がまじっていました。
そこで大岡様は反物を持ってきた町人に「これをどこで買い求めたのか」とおたずねになり、さらに売り主を問いただしたところ、本所表町に住む者が盗賊と判明しました。
盗まれた反物も、そっくりもどってきました。
大岡様は弥五郎に反物をわたし、
「これはその方に返すゆえ、今後は油断して仏に苦労をかけてはならんぞ」
と、言いました。
また、野次馬たちから集めた反物も、いちいち持ってきた者に返して、
「これらの反物はその方らに返そう。また地蔵も赦免申しつける。中の郷に持ち帰り安置するように」
と、言いました。
この話はたちまち知れ渡り、この地蔵に頼めばどんなことでも叶うと評判になりました。大岡様のお裁きにちなんで荒縄で地蔵をしばり「願いが叶ったら縄を解きます」と願を掛けるようになったということです。
◆こぼれ話◆
大岡裁きについては東洋文庫『大岡政談(1)(2)』という本に詳しくまとめられている(縛られ地蔵と子争いの話は、この本の(2)にある大岡政談小話という部分に収録されている)。上に紹介したお話はこの本の内容を読みやすく書き下したものである。
舞台は本所中の郷(浅草の近く)ということになっているが、地蔵のあった寺は関東大震災で焼けて昭和のはじめに葛飾区に移転している。地蔵も健在で今でも人々の願いをうけて荒縄でぐるぐる巻きにされている。
ただし、大岡政談はあくまでフィクションで、ほとんどは作り話だったとも言われている。地蔵と木綿の話は『本朝藤陰比事』などの古典にほとんど同じ話が収録されている。
この話では地蔵が盗賊とつるんで悪事をはたらいているとして、近隣の住民に交代で地蔵を見張れと命令する。石地蔵が盗みをはたらくわけがなく、いつまでも無駄な見張りをさせられたんじゃたまらないと、住民が相談して一反ずつ木綿を持ち寄って「これであきらめてくれないか」と持ちかけると、木綿屋が反物をしらべて盗品をみつけ、その入手ルートをたどって盗賊をつかまえる。
この話にはさらに元ネタがあるらしく、中国の古典で『棠陰比事』という裁判記録を集めた本にも似たような話が出てくる。
ある人が騾馬に鹿肉を干したのをのせて運んでいると、途中で親切そうな人と道連れになった。そのうち、干鹿売りが疲れて歩けなくなり休んでいると、道連れが鹿と荷物を持ってどこかへ逃げてしまった。このことを訴え出ると、取り調べにあたった判事は街中から干鹿を買い求めて盗品を見つけ出し、盗人をつかまえた。
《珍獣の館内
昔話の舞台を訪ねて「縛られ地蔵」 》より