・・【 orionの首飾り】★★★

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鎌倉・北条高時 腹切りやぐら 画像14枚

2014-11-13 09:44:00 | 22🔵江ノ島 鎌倉🔵
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東勝寺跡地です。
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⇦祇園山ハイキングコース
鎌倉駅⇨


■Wikipediaより引用しました。■
東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。

背景
経過

各地で敗走した鎌倉勢は、鎌倉の七切通しを封鎖。新田勢は関口を本拠に、小袋坂、化粧坂、極楽寺坂の三方から攻撃することとし、義貞はそれぞれの指揮を執る将を新田一族で固めた。小袋坂は山側で鎌倉勢の執権・赤橋守時が守るのに対し新田勢は堀口貞満らが攻め、中央の化粧坂には金沢貞将に対し新田義貞、脇屋義助が率いる主力が攻める。七里ヶ浜に面する海側の極楽寺坂は大仏貞直が守り、大舘宗氏らが攻めた。戦いは膠着し、特に極楽寺坂では指揮を執る大舘宗氏が戦死するほど苦戦する。

義貞は切通しの突破を諦めて、干潮を利用しての稲村ヶ崎から海岸線ルートでの鎌倉侵攻を試みる。(室町時代に成立した軍記物語『太平記』によれば、義貞が海神に祈願すると潮が引き、新田勢は由比ガ浜へ進入、鎌倉へ進攻できたとされる。)背後を突かれた形となった幕府軍は鎌倉市街や切通しなどで大仏貞直、大仏宣政、金沢貞将、本間山城左衛門、そして当時の執権赤橋守時(北条守時)などが戦死した。

北条高時らは東勝寺に追い詰められ自害した。『太平記』によれば寺に篭った北条一族と家臣は、長崎高重、摂津道準から順にそれぞれ切腹、最後に高時、舅の安達時顕と自害したという(他に第13代執権の普恩寺基時(北条基時)、内管領の長崎高資、第15代執権の金沢貞顕(北条貞顕)など)。『太平記』には、自害した人々は283人の北条一族と家臣の870人とあるが、文学的誇張もあると推察される。

腹切りやぐら

現在の東勝寺の旧跡の北方には「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらが存在している。東勝寺旧跡での発掘調査では三つ鱗の入った瓦などが見つかるものの遺骨の発見はなく、新田勢や時宗の僧らによって遺体が処理されたと考えられている。腹切りやぐらは、その名称から東勝寺での戦死者と何らかの関係があるとされていて、今でも供養会では卒塔婆が立てられる。ただ高時の首塚を伝えるやぐらは、各所に存在する。

鎌倉でのこの戦闘の後、この地で死んだ北条一族を弔うため、足利尊氏によって宝戒寺が建てられた。宝戒寺の地は、もとの北条執権邸の地である。

鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷奥山頂部には、「宝戒寺二世普川国師入定窟」と伝える巨大なやぐらを中心に釈迦堂奥やぐら群と称する多数のやぐら群が存在した。やぐら群には多量の生焼けの人骨があった。昔から東勝寺での戦死者の遺体をこのやぐら群に葬ったとの伝承があった。昭和40年代の宅地開発の際にやぐらが破壊され、「元弘三年五月廿八日」の銘のある五輪塔の一部が発見された。まさに東勝寺合戦の初七日の供養をしめすものであり、伝承が事実であったことがわかった。やぐら群は昭和40年頃に宅地造成によって主要部が破壊されたが、一部は現存しているという。

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