origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

フーコーとグリーンブラット

2008-01-15 00:20:23 | Weblog
浅田彰は『構造と力』の中で脱二元論的な社会組織分析にふれ、アルチュセールの例を出した後で、こう言った。「そして言うまでもなく、フーコーの詳細を極めた権力装置分析―その具体的を疑う者はひとりもいない―が、すでにこの方向で巨大な一歩を踏み出しているのである」(123)。浅田の言っていることは半分以上、正しい。フーコーの権力装置分析は詳細を極めたもので、著名なジェレミー・ベンサムのバノプティコンに対する論を始めとして、具体性を伴いながら考察されたものである。しかし、この分析そのものの具体性を疑うかどうかは別として、彼の権力装置分析は80・90年代にサイードとスピヴァクという2人の有力な論者から鋭い批判を受けることとなった。ミシェル・フーコーは60年代以降、現代思想の中で最も重要な哲学者として扱われてきたけれども、現在、どのように読まれているのだろうか。そう思い、少しだけ調べてみた。
http://cruel.org/other/foucault.html
英仏文学者や社会学者が好むミシェル・フーコーの研究が、実は欧米アカデミズムの世界では疑問視されている、という話は聞いたことがある。(私にはよくわからないが)社会学的な面白さがあったとしても、肝心な歴史研究に厳密さが欠けているらしい。彼の「考古学」「系譜学」を具体的に批判したサイトを読んでなるほどなあと思った。フーコーの「ヴィクトリア朝の禁欲的な道徳が逆説的に性への言説を増殖させた」とか「人間というのは近代になってつくられた存在であり、数百年後には消え去るかもしれない」などという刺激的な仮説を、私は20歳くらいの頃に初めて知り感動を覚えたものだけれども、確かにそれは厳密な「歴史」であるとしたらあまりにも魅力的・文学的ものだった。この状況において、シニカルな笑いを好む英米系の学者であれば、きっとこうでも書くのだろう。ミシェル・フーコーという哲学者の影響は「やがて波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう」。
私はこのようなアカデミズムの世界でのフーコー批判は妥当なものだと思うし、それと同時にフーコーがこれからも一つの研究方法の到達点として読み継がれるべき存在なのだろうとも思う。しかし私が最も気になるのはフーコーが価値ある存在かどうかということなどではなく、この伝統的な歴史学者と先鋭的な哲学者の対立の構図である。
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私は自分がフィクションしか書いたことがないことは十分に認識しています。でも、だからといってそこに真実がないというつもりはありません。フィクションが真実として機能する可能性はあると思うし、フィクション的な言説が真実としての効果を持てると思うし、真実の言説が育むものを育む、つまり何か未だ存在していないものを「捏造」するをこともできると思うんです。人は歴史を「創作する」に際して、それを真実にする政治的現実を根拠にして創作するのだし、歴史的真実を根拠にしてまだ存在していない政治を「創作する」のです
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もし私がこの言葉だけを読めば、決してフーコーの言葉だとは思わないだろう。おそらく、ルネサンス研究で有名な現代の英文学者、スティーヴン・グリーンブラット(Stephen Greenblatt)をこの言葉の発言者として推測したと思う。「新歴史主義」(New Historicism)の代表的な存在である英文学者グリーンブラットも、伝統的な「歴史主義」の批判者である。日本ではあまり触れられることはないけれども、彼は、歴史の客観的記述の不可能性に着目し、反相対主義を批判した文化人類学者クリフォード・ギアツから影響を受けていることを公言している。エリザベス朝期の研究者であるグリーンブラットも、ギアツのように、単一の「歴史」にも、マルクス主義的な「歴史の目的」にも拘泥することはなく、様々な角度からエリザベス朝の文学を彼独自の「歴史」の文脈の中で読み直そうとする。「歴史」の客観的記述が不可能であるならば、伝統的なマーロウ・シェイクスピア・ジョンソンを中心としたエリザベス朝文化観から抜け出し、エリザベス朝のパンフレットや現在では下位文化だと考えられている物見小屋などから当時の「歴史」を改めて見直しても良いのではないか。その立場こそが「新歴史主義」という名称の所以である。
合衆国を代表するイギリス文学者、グリーンブラットの研究は確かに有益であり、研究対象を高級な文化に限定しないことで新たなエリザベス朝の像を築くことに成功している。しかしグリーンブラットの研究もフーコーと同じ批判を受けるべきものなのだろう。そしてそれに対して文学者として何か応答ができるのであれば、フーコーのように「私は自分がフィクションしか書いたことがないことは十分に認識しています。でも、だからといってそこに真実がないというつもりはありません」と答えるしかないのではないか。ニュー・クリティシズムの作品と作家の切断だって考えてみればフィクションだった。ロラン・バルトの「作者の死」だって緻密なフィクションだ。だって「現実」では文学作品を書くのは明らかに作者であって、作者が意識的に考えていることがそこには大なり小なり表れているはずではないか。しかし、そのフィクションが文学研究の優れた実績を数々生み出してきた。
優れた人文科学の研究がすべてノン・フィクションであるわけでもないし、そうである必要はない。しかし優れた人文科学の研究がフィクションであるとき、フーコーやグリーンブラットの著作が直面しているような、フィクションと伝統的な意味での「歴史」との間に起こった亀裂からは、埋め難い深遠が顔を覗かせる。

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