origenesの日記

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イェーリング『権利のための闘争』(岩波文庫)

2008-01-13 20:30:35 | Weblog
近現代の法律の底流をなすのは権利であり、いかに権利というものが重要なものであるかを、法学者ルドルフ・フォン・イェーリングはこの代表的な著書の中で主張する。そもそもドイツ語においては「権利」(right)と「法」(law)は同じ単語(recht)で表現される不可分な概念であり、その入り組んだ関係性を解きほぐすことが、まずは、この本を読む学徒に求められることとなる。では、この「法学書」の主題となっている権利について、著者は具体的にどのようなことを主張しているのであろうか。
序文においては、権利を自覚せず、また怠慢によって希求することをやめた人々への痛烈な罵倒の言葉が含まれているのだが、それと呼応するように本論考は以下のように始まる。
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権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対応しなければならないかぎり―世界が亡びるまでにその必要はなくならないのだが―権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
(29)
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恒久の目標としてカント的理念に基づく「平和」を掲げた後すぐに、強い口調で闘争の必要性を呼びかけるこの冒頭の一文は、一見矛盾しているようにも思えるが、「絶対的な平和」という考えがあまりにも夢想的過ぎた19世紀の動乱の時代にあるヨーロッパにおいては、「平和」という理念とそれに至るまでの過程としての「闘争」の峻別は、必要なことであった。世界が終わるまで、闘争が不要になることはない、と主張する文には、夢想性の欠片もなく、冷徹なリアリズムに即している。権利のために徹底的に闘争を呼びかけるイェーリングの背景には、普墺戦争・普仏戦争を経てヨーロッパ屈指の強国となったビスマルク時代のドイツの政治的・社会的状況が存在している。この著作が書かれた時期は1894年、鉄血宰相ビスマルクが皇帝の前に出てプロイセンの改革を行っていた時代である。「平和」という目標が「闘争」よって勝ち取られねばならない、という彼の主張は確かに、強国である立場を維持するために富国強兵政策を行っていたプロイセンの時代精神とも呼応していた。そしてその時代性から影響を受けた彼は、その時代性の思想を普遍性に持ち上げ、強固にこう主張する。「その後の歴史においては、平和と享受は絶えざる刻苦の結果としてのみ可能なのである」(31)その後の歴史、とは人間がエデンの園を追われた以後の歴史であり、それ以来、平和というものは自然と与えられるものでは決してなかったという。この主張の正誤はともかくとして、「絶えざる刻苦」という一節はこの著作の核となるべきものだろう。
興味深いことに、この「権利のための闘争」を読者に語り伝えるために、著者は論考の中盤から、自分の思想性に隣接する文学作品について触れる。ウィリアム・シェイクスピアの代表的な喜劇である『ヴェニスの商人』は善良な男アントーニオが、ユダヤ人の悪徳金貸しシャイロックから借金した友人のために、自分の胸1ポンドを担保とする話である。後半の裁判のシーンにおいて、借金を返還する能力を失った友人のために、アントーニオの胸の肉1ポンドを差し出すべきかどうかが取沙汰される 。この時の裁判において、シャイロックは「私は法律を要求します」という台詞を発するが、これによって才人シェイクスピアは主観的意味の権利と客観的意味の法との関係性を描いているという。このようにイェーリングは、法を意識しつつ権利のために闘争することを望むシャイロックの人物造型を高く評価するが、反面、終結部において、アントーニオを救い出すために男装して裁判の場に赴く裁判官ポーシャの詭弁を鋭く批判する。
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ポーシャ 待て、まだあとがある。この証文によれば血は一滴も許されていないな――文面にははっきりと「一ポンドの肉」とある。よろしい、証文の通りにするがよい、憎い男の肉を切りとるがよい。ただし、そのさい、クリスト教徒の血を一滴でも流したなら、お前の土地も財産も、ヴェニスの法律にしたがい、国庫に没収する。
(116-117)
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 才媛であるポーシャは上記の台詞によって、「一ポンドの肉」を借金の肩代わりにしたアントーニオを救い出すのだが、イェーリングが指摘するまでもなく、この裁判はあくまでもフィクションであり、作中で名裁判官と評されるポーシャの論理も詭弁である。しかし、その著者の批判する視点は興味深いものである。「しかし、人道のためであれば不法は不法でなくなるものであろうか?」(18)シェイクスピアが人道のために、ポーシャを詭弁へと導き、アントーニオをシャイロックから救い出したことについて、著者は批判の目を向けている。「法は最低限の道徳である」と言うが、アントーニオを救うという表層的な人道主義を取ってしまったとき、シェイクスピアは道徳の基盤となる法を揺るがしてしまう危険性に陥ってしまったのではないか。「悪法は法でない」とシャイロック・アントーニオ間の約款に曲がった解釈を与えてしまうポーシャは、近代法治国家に住む人間から見れば、むしろ危険な存在なのではないか。著者の、人道を法よりも重きものと扱う安易な人道主義に対する批判は、今尚有用性を失っていない。
人道と法の峻別は、『ヴェニスの商人』の後で、19世紀ドイツの文豪ハインリヒ・フォン・クライストの『ミヒャエル・コールハース』 を論じる箇所でも見受けられる。主人公ミヒャエル・コールハースは、シャイロックと同じく「不当な」裁判によって自らの権利が傷つけられたと感じ、倫理的権利感覚 に基づいた闘争に、身を投じる。ポーシャの詭弁に敗北を喫して闘争をやめたシャイロックは魅力的ではあるが中途半端な人物であり、それに対してミヒャエル・コールハースは、死に至るまで権利の希求をやめることのなかった逸材であり、芸術的にイェーリングの思考を体現した存在であった。「私がこうして〔ミヒャエル・コールハースの〕影を冥府から呼び出してみせたのは、理念的な次元にまで高められた力強い権利感覚が法制度の不備のおかげで満足を受けられない場合、まさにそのような権利感覚によって脱線の危険が生じるということを、一つの感動的な実例に即して明らかにするためであった」(101)この一文こそが、なぜ著者が文学に重きを置いているかを象徴していると言えよう。実例が必要とされている。ただの実例ではなく、感動的な、そして芸術的な実例が必要とされているのである。
終末部分で「けだし、文学・芸術にとっては、さまざまな形態の闘争ほど強い魅力を示すことができた素材はまずないのだから」(139)とイェーリングは喝破する。自らの透徹した論理を、論理的な一貫性が必要とされない文学作品の中に見出すこの法学者の論考は、今尚、読者を魅力してやまないものがある。

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