エミール・クストリッツァ監督の結婚騒動コメディ『黒猫・白猫』を見ていたのだけど、何となく「ガルシア・マルケスの小説みたいだなあ」と思った。クストリッツァは『パパは出張中!』『アンダーグラウンド』で有名なセルビアの監督であり、マルケスはコロンビアの小説家である。セルビアとコロンビア。直接何の関係もない。なぜ、私は『黒猫・白猫』をマルケスのようだと思ったのだろう。あれこれと考えてみたけれども、どうもそれはクストリッツァの映画もマルケスの小説も、登場人物の心理を事細かに描いていないということが理由なのだと思う。
『黒猫・白猫』の登場人物たちの内面描写というものはほとんど存在しない。この喜劇的な映画は、父親と息子、息子の恋人、男と3人の妹たちの姿をコメディ・タッチで描く。彼らは物事を深く考え込み、行動することはしない。もし深く考えていたのだとしても、その心理状態が描かれることはない。この映画のメインとなるのは彼らのドタバタとした行動であり、彼らの内面ではないのである。だから、私はこの映画を見ながらマルケスの『百年の孤独』を思い出したのだと思う。
クストリッツァの映画やマルケスの小説とは異なり、近代の小説は一般的に自意識を扱う。登場人物たちはハムレットやラスコーリニコフのようにあれこれと悩み、考えながら行動していく。近代においては、登場人物たちの意識こそが文学において描かれるべきものであった。ソンタグが皮肉半分に指摘するように、「私的な自己と公的な自己が乖離し、公的な自己が私的な自己を押しつぶす」という物語構造こそが、近代小説においては頻繁に見られるものであった。『三四郎』以降の夏目漱石や『死の家の記録』以降のドストエフスキーはその好例である。
かつてギリシア悲劇の登場人物においては私的な自己と公的な自己の乖離はなかった。アキレスは俊足の英雄アキレス以外の何者でもなかったし、ヘレネも絶世の美女ヘレネ以外の何者でもなかった。彼らには自意識と呼ばれるものはなかったのである。しかし、ハムレットやエミーリア・ガロッティはそうではない。ハムレットは、「ハムレット自身」でありなおかつ「復讐する王子」である。そして、「ハムレット自身」が「復讐する王子」を演じているのだ(ライオネル・エイベル『メタシアター』)。ここでは私的な自己と公的な自己は乖離している。あるいはドン・キホーテ。ドン・キホーテは自身を「姫君を助けに行く騎士」だと考えているが、実は「阿呆な行動で笑いを巻き起こす男」に過ぎない。ドン・キホーテは公的な自己の姿を知らずに、私的な自己が真実だと思い込んでいる男である。アキレスの像はただ一つしか存在しなかったが、ハムレットやドン・キホーテの像は複数存在しているのである。そしてこの複数の像の存在こそが、多くの近代小説を作り上げてった。
自意識に拘泥する「近代」は乗り越えられたのだろうか。クストリッツァの映画やマルケスの小説は、自意識の近代を軽やかに乗り越えた。しかし、それらを鑑賞する私自身はどうか。どうも、なかなか近代から逃れることはできそうにない。
『黒猫・白猫』の登場人物たちの内面描写というものはほとんど存在しない。この喜劇的な映画は、父親と息子、息子の恋人、男と3人の妹たちの姿をコメディ・タッチで描く。彼らは物事を深く考え込み、行動することはしない。もし深く考えていたのだとしても、その心理状態が描かれることはない。この映画のメインとなるのは彼らのドタバタとした行動であり、彼らの内面ではないのである。だから、私はこの映画を見ながらマルケスの『百年の孤独』を思い出したのだと思う。
クストリッツァの映画やマルケスの小説とは異なり、近代の小説は一般的に自意識を扱う。登場人物たちはハムレットやラスコーリニコフのようにあれこれと悩み、考えながら行動していく。近代においては、登場人物たちの意識こそが文学において描かれるべきものであった。ソンタグが皮肉半分に指摘するように、「私的な自己と公的な自己が乖離し、公的な自己が私的な自己を押しつぶす」という物語構造こそが、近代小説においては頻繁に見られるものであった。『三四郎』以降の夏目漱石や『死の家の記録』以降のドストエフスキーはその好例である。
かつてギリシア悲劇の登場人物においては私的な自己と公的な自己の乖離はなかった。アキレスは俊足の英雄アキレス以外の何者でもなかったし、ヘレネも絶世の美女ヘレネ以外の何者でもなかった。彼らには自意識と呼ばれるものはなかったのである。しかし、ハムレットやエミーリア・ガロッティはそうではない。ハムレットは、「ハムレット自身」でありなおかつ「復讐する王子」である。そして、「ハムレット自身」が「復讐する王子」を演じているのだ(ライオネル・エイベル『メタシアター』)。ここでは私的な自己と公的な自己は乖離している。あるいはドン・キホーテ。ドン・キホーテは自身を「姫君を助けに行く騎士」だと考えているが、実は「阿呆な行動で笑いを巻き起こす男」に過ぎない。ドン・キホーテは公的な自己の姿を知らずに、私的な自己が真実だと思い込んでいる男である。アキレスの像はただ一つしか存在しなかったが、ハムレットやドン・キホーテの像は複数存在しているのである。そしてこの複数の像の存在こそが、多くの近代小説を作り上げてった。
自意識に拘泥する「近代」は乗り越えられたのだろうか。クストリッツァの映画やマルケスの小説は、自意識の近代を軽やかに乗り越えた。しかし、それらを鑑賞する私自身はどうか。どうも、なかなか近代から逃れることはできそうにない。