origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

木村陽二郎『原典による生命科学入門』(講談社学術文庫)

2008-11-14 20:38:31 | Weblog
ヒポクラテス、アリストテレス、ハーヴィ、デカルト、ベルナール、ラマルク、ダーウィン、メンデル、モーガン、ワトソン&クリックと生命科学の著名な学者たちの原文(日本語訳)を、著者の解説を交えて載せた文庫である。生命科学の歴史を考える上で重要なガレノスやヴェサリウスに関しては原文までは載っていないものの、解説で言及されている。
デカルトの動物機械論を遠く受け継いだフランスの生物学者ベルナールは、生体内の各器官相互の調和関係に目を向け、高等な生物の生命に纏わりつく神話を解体しようと試みた。高等生物の恒常性(ホメオスタシス)を保つのは、各器官の機械的な動きであり、無機質の研究方法は高等生物の研究方法にも通じるのである。
ラマルクは、後天的な性質が遺伝によって受け継がれると論じたが、彼の獲得形質の遺伝という論は歴史の中で葬り去られた。しかし歴史的には進化論の提唱者として彼の存在は重要であり、ラマルクの批判者として知られるダーウィンも彼の功績は高く評価していたという。

森安達也『近代国家とキリスト教』(平凡社新書)

2008-11-14 19:23:38 | Weblog
宗教改革以後のキリスト教の歴史について論じた書である。冒頭で中世ヨーロッパにおけるマイナー宗派だったワルドー派やカタリ派について触れている。とはいってもミルトンのようにワルドー派をプロテスタントの祖と見なすのではなく、それがアッシジの聖フランチェスコの思想に近いものであると位置づける。
ヨーロッパ近代は非キリスト教化が進んだ時代であり、またキリスト教という宗教が国家的なものへと変貌していった時代である。著者は一般的な見解を鵜呑みにする危険性を認識しつつ、カトリック・プロテスタント・東方正教の三宗派が近代においていかに変貌を遂げたかを論じていく。三位一体以外のマイナー宗派に関する記述はそれほどない(アリウス派系のポーランド兄弟団に関する記述はあり)。
宗教改革は三位一体の教義の範疇にとどまりつつも、カトリックの絶対性を揺るがした重要な歴史的出来事である。ルターやカルヴァンのプロテスタントはドイツ、フランス、北欧など西ヨーロッパの至るところで信者を得て、カトリック側も対抗改革を打ち出して、発展途上国にも(半ば強引な)布教を広めていた。この対抗改革の担い手となった修道会がイエズス会である。
カトリックかルター派か領主に宗派を選ばせることを決定した1555年のアウグスブルクの和議は、近代キリスト教を考える上で象徴的な出来事である。ここでは世俗的な権力が宗教的な権力をも兼ねる近代国家の体制の萌芽が見受けられる。ヨーロッパ近代においては宗教者は公務員化し、官僚組織に組み込まれていくこととなった。
カトリック・プロテスタントが国家との結びつきを強くしたように、ロシアの東方正教も同じ命運を辿ることとなった。しかし、東方正教の特徴は聖職者と平信者を分け隔てなく考える非権威主義的なところにある。東方正教においては、教会の外部から、レフ・トルストイやベルジャーエフのような思想家が登場した。反対に、東方教会の内部からはそれほど多くの世界的に高名な神学者を輩出していない。この点で東方正教は、カトリックやプロテスタントとは一線を画している。著者はキリスト教に対して冷徹な視線を注いでいるが、相対的には東方正教をカトリック・プロテスタントよりも高く評価しているようだ。

荒俣宏『奇想の20世紀』(NHKライブラリー)

2008-11-14 19:16:12 | Weblog
19・20世紀には「未来」が流行した。ジュール・ヴェルヌ、コナン・ドイル、アルベール・ロビダといった作家たちは来るべき20世紀の未来を描き出し、多くのファンを得ることとなった。その「未来観」はキリスト教的な終末観とは真逆な楽観的なものであることが多く、高層ビルが屹立しロボットが動き回る先進的な科学文明が築かれた未来を多くの人々が心に待ち望んだ。ロビダのような風刺作家は、未来の負の側面も描こうとしたが。
著者が本書でまず注目するのが1900年のパリ博覧会である。20世紀への希望の溢れたこのパリ博こそが、20世紀的な未来観の発端であったという。1909年に詩人マリネッティは『未来派宣言』を著し、前衛芸術運動である未来派の先鞭をつける。「科学の進んだ未来」という発想自体が20世紀的なものであり(それは明らかに啓蒙主義を発端としているものの)、それは21世紀において必ずしも存続するものではない、と著者は論じる。
ヴェルヌはラング監督の『メトロポリス』を批判的に見なしたのに対して、ドイルは肯定的に評価したという。霊感を重んじたドイルとは違い、リアリストであったヴェルヌは未来社会に労働者と資本家の和解が訪れるなどとは思わなかったのだろう、と著者は推測している。
restaurantはrestoreから来たらしい。

戸口幸策『オペラの誕生』(平凡社新書)

2008-11-09 02:23:38 | Weblog
フィレンツェのカメラータでのギリシア悲劇の復興運動、マントヴァのモンテヴェルディ、バルベリーニ劇場でのカトリック的オペラ、ヴェネツィアの市民オペラ、ナポリのオペラ・セリア、グルック、フランスのリュリとラモー、イギリスのパーセルとヘンデル、イタリアのオペラ・ブッファとインテルメッゾ、オペラ・コミックとジングシュピール、そしてハイドンとモーツァルト…。17・18世紀のオペラについて叙述した新書。オペラの歴史がいかにイタリアを中心として展開されてきたかが理解できる。オペラという言葉自体が、もともとイタリア語の「作品」の複数形だという。
イギリスのオペラ・コミックもドイツのジングシュピールもイタリアのオペラ・ブッファをもとにして成立したものなのだ。
『皇帝ティートの慈悲』という物語を題材に多くの作曲家がオペラをつくっていたという話は初めて知った。モーツァルトのティートもその伝統の上にあるのだ。
以下年表より。
1600カヴァリエーリ『魂と肉体の劇』
1607モンテヴェルディ『オルフェーオ』
1627シュッツ『ダフネ』
1642モンテヴェルディ『ポッペーアの戴冠』
1672プロヴェンツァーレ『妻の奴隷』(オペラ・セーリアの代表的作品)
1689・90 パーセル『ダイドーとイニアス』
1711ヘンデル『リナルド』
1724ヘンデル『ジューリオ・チェーザレ』
1762グルック『オルフェーオとエウリディーチェ』
1782モーツァルト『後宮からの逃走』

荒俣宏『新編 帯をとくフクスケ』(中公新書)

2008-11-09 02:18:19 | Weblog
今更荒俣にはまっている。高度な図像学を展開しているのに、そうと感じさせない巧みな話術がすごい。この本は彼の講義をもとにしているのだが、あまりの面白さに次々とページを捲らされる。
「エロティックになる勉強」はケレン味の溢れた章。ヨーロッパでは長い間、古代ギリシア的な豊満な肉体がエロティックだと考えられてきた。しかし19世紀にオリエンタリズムが広がり、「未開」の女性の裸体の美しさが注目されることとなった。ギリシア的なエロティシズムと非ギリシア的なエロティシズム。ヨーロッパ美術におけるこの2つのエロティシズムの相克を探る。
「美人の恥ずかしい姿」は、ヌード画における女性のエロティックなポーズについて論じている。ヌード画・ヌード写真において胸と性器を隠した女性。その女性のポーズについても、ヨーロッパと近代日本では違いがあったという。
「額縁の裏側の見方」は、18世紀のショイヒツァーが『神聖自然学』で描いている額縁を含めた模写絵を扱っている。なぜ絵の中に額縁があるのか。そこには額縁を通して別世界と接するというヨーロッパ的な認識論が潜んでいた。ヨーロッパでは日本と違い、ショーウインドーの中も別世界的である、と著者は指摘している。
ヨーロッパでは水は固体として認識されており(水は物質であった)、中国では水は液体として認識されていた、という指摘は目から鱗が落ちた。

米本昌平他『優生学と人間社会 生命科学の世紀はどこへ向かうのか』(講談社現代新書)

2008-11-03 23:04:34 | Weblog
「優生学」と聞くと、多くの人は、ヒトラーのナチス・ドイツや、渡部昇一の「神聖な義務」のような、圧倒的にマイナス・イメージの事柄を思い起こすだろう。私もこの本を読むまでは、「優生学」を専ら排除すべきものとして見なしていた。しかしこの思想は20世紀医学・行政に密接に関っており、簡単に排除可能なものではないのである。
本書は、20世紀において「優生学」が様々な国において様々な形で国家の政策に採用されてきたことを明らかにしている。優生学というとドイツのイメージが強いが、むしろ第一次世界大戦までは優生学思想はあまりドイツでは盛んではなかったらしく、むしろ社会福祉政策を重視している北欧国家にてこの思想は採用されていたという。「健全な」遺伝子のみを後世に残すことによって、障害者の絶対的な数を減らし、その上で質の高い社会福祉政策を行おうとしたのである。
「生まれるべき子と生まれるべきでない子が存在する」という考え方は差別的である。そのような考え方を肯定するわけにはいかない。しかしその差別的な考えから抜け出すことの難しさを、この本は示している。
>>
一人の異常児はその子や家族の不幸だけでなく、社会全体の負担になることも考えれば、私たちは良識をもって、少しでもこの不幸を少なくする義務があります。
(205)
<<
上記の文章は戦前のものではない。1972年の『婦人生活』に掲載されたものだ。「私たち日本人」は現代でも、渡部昇一の「神聖な義務」という差別主義から、思ったほどには遠い位置にはいないのではないか。
[http://list.room.ne.jp/~lawtext/1948L156-old.html:title=優生保護法](母体保護法の前身)の条文も改めて読み返してみる必要がある。

三原弟平『カフカ「断食芸人」〈わたし〉のこと』(みすず書房)

2008-11-03 22:18:17 | Weblog
理想の教室の一編。カフカの短編小説「断食芸人」を通して、この不条理作家の一面を探り出した本である。著者はカフカと近い作家として葛西善蔵を挙げており、彼の文学の私小説的な面を浮かばせようとする。……とはいえ、全体的にはカフカと葛西が似ているとは思えなかった。
非人称性をテーマとしているようなカフカの文学が「私」を描いたものであるという逆説は面白かった。カフカは(キリスト教的な)人間としての「私」が公民としての「私」に侵食される様を描いていると言うことができるかもしれない。彼は労働保険庁の役人であり、人間を数字として把握する行政の内部にいたのだ。

別宮貞徳『翻訳と批評』(講談社学術文庫)

2008-11-03 21:06:58 | Weblog
本書でなされているのは、翻訳の質の向上を目的とした翻訳批評である。原文である英語を的確に訳せているか、日本語としての誤りはないか、そして大学生にでも読めるよな平易さが保たれているか。著者は社会科学・人文科学の翻訳文に対してメスを入れ、その欠点を鋭く指摘している。
著者は翻訳を演奏にたとえている。大衆文学の翻訳はジャズの演奏であり、即興が許される世界である。それに対して純文学の翻訳はクラシックの演奏であり、きちっとした楽譜の解釈がなされていなければならない。即興も大衆文学ほどには許されていないのである。そして何よりも純文学の翻訳は、翻訳文そのものが純文学でなければならない。ホロヴィッツの弾くベートーヴェンを聴くとき、ベートーヴェンを聴く人もいればホロヴィッツを聴く人もいる。その双方を満足させるのが優れた演奏であり、優れた翻訳もまたそのようなであるべきである。
『国富論』の翻訳を巡って訳者と論争したり、ポー『モルグ街の殺人事件』の佐々木訳を批判したり、カポーティ『カメレオンのための音楽』の野坂昭如訳を擁護したりと、翻訳批評家としての著者の旺盛な批評活動を知ることができる。
著者が訳したというチャールズ・ホーマー・ハスキンズの『十二世紀ルネサンス』は読んでみたいものだ。

フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』(平凡社新書)

2008-11-03 16:52:27 | Weblog
カフカの夢日記やアフォリズム、散文詩などを収録した新書。特にアフォリズムが興味深く、「お前と世界との決闘に際しては、世界に介添せよ」を始めとして彼の思想家としての特異性を明らかにする言葉が溢れている。主体性の哲学やロマンティシズムの文学に従わず、彼は近代に向き合った。カフカの見た近代は、ウェーバーの見た近代に近いのかもしれない。それは、キリスト教的な「人間」が同時に行政的な「公民」であるという矛盾を抱えた時代としての近代である。
「どうやって世の中のことをうれしく思えるだろうか、そこへ逃げてゆくとき以外に?」(158)
「彼の疲労困憊は、死闘を終えた古代ローマの闘技士のそれである。彼の仕事は、お役所の執務室の片隅を、白い漆喰で塗ることだった」(162)
カフカ自体が労働災害保険庁という役所に勤めていた。彼の文学と人間一人一人を無機質な市民として見なす役所的システムは強く結びついている(はず)。
「よく太陽を引き合いに出して悲惨を否定する人がいる。彼は悲惨を引き合いに出して太陽を否定する」(207)
「書くこと、祈りの形式としての」(242)

書くこと

2008-11-03 15:12:56 | Weblog
書くことは酔うことに似ている。書くことで物事を明らかにしたり真実を陽のもとに晒したりするのは、徒労だ。書いている間、書き手は酔う。ローレンスが言うように、苦痛から逃れるために、人は書くのだ。そうして多くの文章が生み出される。