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大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉久宝寺寺内町を訪ねて

2017年06月22日 | 南河内の遺跡・史跡

〈リバイバル・アーカイブス〉2022.4.18~5.2

原本:2017年6月22日

「JR久宝寺駅」から、出発です。

寺内町の案内Mapを頼りに、先ずは「許麻神社(こまじんじゃ)」へ向かいます。

・6月30日(木) 夏越の祓い(なごしのはらい)~茅の輪くぐり~八尾市内の神社各   所(訪問日は翌日7月1日)

「ちの輪」のくぐり方

「許麻橋地蔵」久宝寺最古のお地蔵さん

「浅野家住宅」

「高田家住宅」

ミナミの名所「道頓堀」を造った男:「安井道頓の碑」

安井道頓は、本名を安井成安、通称は市右衛門という。出身は大阪河内とも摂津国平野郷ともいわれている。剃髪後に道頓と名乗った。戦国時代から江戸初期にかけて活躍した商人である。代々、河内の久宝寺城に住み、大坂城築城の折に外堀の掘削や猫間川の整備工事などを担当した。豊臣秀吉からその褒美として、現在の道頓堀一帯の城南の地20万坪を下賜されたといわれている。

久宝寺御坊「顕証寺」御門

顕証寺本堂

古くはこの地を橘島久宝寺といい、早くから親鸞聖人の高第信願房法心の建てた慈願寺があった。 文明二年(一四七〇)蓮如上人がここに布教し顕証寺(久宝寺御坊)を建てた。この御坊を中心に周囲に二重の堀と土屏をめぐらし、街路は基盤の目のようになっていた。 このようにして本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ門徒の団結をはかる寺内町を作った。この町では御坊が一切の支配権をもち、久宝寺城主安井氏がこの権を委された。いわゆる中世末期浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した集落である。

顕証寺は、真宗西本願寺別院で連枝の格式をもち、河内十二坊の総支配をつとめた。

当寺は龍興山金剛乘院念佛寺と云い、融通念仏宗に属します。暦応四年、(一三四一)辛己八月、盤龍上人によって創建されました。 本堂は落慶に融通念仏宗の中興上人法明和尚の霊跡があり、宗門きっての古刹です。もと、この寺院は聖徳太子の建立した久宝寺の末院で、念佛勧進聖堂場として栄えていたのをのち、聖僧の盤龍が今の地域に定めて本堂を建てたと伝えられています。聖徳太子作と伝わる十一面観音菩薩・不動尊もお祀りしています。また、河内西国霊場第二番札所でもあります。

安産地蔵尊(念仏寺前地蔵)

 建立された慶応4年(1868)には、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて大阪港から

江戸へ向かって船出した年です。

「古口地蔵尊」

寺内町北西の出入り口にあります。地蔵堂は宝形作りで「歯痛」に霊験ありとか。

像は高さ30cm幅25cmの座像です。

「西口道標」 文政8年11月(1825)建立の道標です。

「左 平野 大阪道」「右 八尾地蔵 信貴山道」

久宝寺寺内町の街並み

「北口地蔵尊」寝たきりの病にご利益があるとか。

「久宝寺城跡」

久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。麟角堂を創建し又毎年七月十四・五日は城内で精霊祭を催し、領民は五日間盆踊りをしたと言う。満貞の嫡子の光重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、天正五年、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。城址は寺内町西北の出隅に「城土居」の地名を残している。 「久寶寺村誌」より 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、角谷彰彦 文、乾房子 書、1996年)】 

大手町通り

今口地蔵尊(樋之上地蔵尊)

今口地蔵尊は、寺内町の今口門のあった所で東口と共に八尾へ通じる道筋です。

像高60cm、花崗岩製で半肉彫の地蔵立像です。

長曾我部盛親物見の松

この場所は、今口といい、久宝寺寺内町の今口門があって東口とともに八尾に通じる道筋でした。徳川幕府が豊臣家を滅ぼした大坂の陣は、慶長19(1614)年の冬の陣と、慶長20(1615)年の夏の陣からなり、夏の陣における八尾・若江の戦いでは、大坂方の木村重成、長宗我部盛親の軍勢と徳川方の藤堂高虎、井伊直孝の軍勢が激しい戦いを繰り広げました。

「久宝寺遺跡」碑

八尾市立久宝寺小学校の中に入って、正門横にあります。

「見守り隊」の人に断って、中へ入れていただきました。

東口 道標

「右 和州信貴山 八尾地蔵尊道」「右 大坂平野道」

“麟角堂創建遺址”の碑があります。戦国時代久宝寺城主渋川満貞の創建といわれ、堀川屋敷に学者を招き、講筵(こうえん)を設けたことに始まります。天正3年(1575)安井定重これを復興し、堺の学者今村道和を招いて、孔子像をまつり、漢籍の講義がありました。江戸時代には伊藤仁斎や東涯も招かれて講筵を開きました。大正2年安田覚三郎再び復興し、西村天因を招いて開講、同11年には私立学舎の認可を受けて漢学の講義を開いたこともありました。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

長瀬川はもと大和川の本流で古くはおよそ二〇〇メートルの川幅があり、人と物資の運搬で川舟が往復した。 宝永一年(一七〇四)大和川の付け替え後は井路川となり、八尾と久宝寺の人々の共同出資で剣先船が人や米、木材などを京橋まで運び、年貢米の運送や、大阪、淀などへの往復でにぎわった。 こちらの八尾側の方を八尾浜むこうの久宝寺側を船着場とよび、ともに祭礼のときのお旅所であった。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協)

北面 「北 左信貴山道」

西面 「右 かしはら国分 すぐ信貴山道」

南面 「すぐ玉造道」

東面 「右 大坂道すぐひらの天王寺」

八尾市のマンホール

八尾市だから八角形、周囲に市の花キクと河内木 綿の実、内側には糸車で糸を紡ぐ姉さんかぶりの女性。 河内木綿の伝承の地八尾市を象徴しています。

辰じいでした。

最後まで見ていただいてありがとう。

2017年6月22日UP Photoは昨年7月1日撮影です。

追記

Youtube UPしました。

良かったら、見てやってください。

タイトルをクリックして下さい。

「叡福寺の桜」 10分

「弘川寺と桜」 13分

ありがとうございました。

 


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