富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉河南町辺りをブ~ラブラ

2017年10月09日 | 南河内の遺跡・史跡

〈リバイバル・アーカイブス〉2022.5.30~6.13

原本:2017年10月9日

先ずは、「白木陣屋跡」を訪問

 陣屋の建物は明治時代の絵図によると、表門・長屋・土蔵・牢屋などが敷地

いっぱいに建つ豪壮なものであったと思われます。

 明治維新後も、中心の建物は「白木小学校」として明治20年まで使われて

いました。そして、今は草に覆われた石垣のみが残されています。

白木陣屋跡01

草を刈ったら、こんな感じかも。

陣屋跡に建つ、旧家

陣屋跡から「金剛・葛城」方面を望む

「金山古墳公園」へ

 「金山古墳」は大小二つの円丘を合わせた双円墳という全国的に珍しい

形で、6世紀末から7世紀初期、ちょうど前方後円墳がつくられなくなった

頃の古墳です。

 

 北丘には、長さ10.6mの横穴式石室がみられる。

「金山古墳」全景。遠くの山は、金剛山

 昔の写真を見ると、外周には12m程度の周濠の存在を感じさせる水田が見える。

 

「千早赤阪村」へ、越境して「御旅所古墳」へ

千早赤阪村の水分にある円墳

 建水分神社(たけみくまりじんじゃ)の秋の祭礼に際して、地車が集まり

「にわか」を奉納する御旅所には、御旅所古墳・御旅所北古墳の2基の古墳

があります。

道中で見つけた森屋のマンホール

「村の花 こごせゆり・村の木 楠・菊水の家紋」、”こごせ”とは金剛山

のこと

「森屋地蔵」

 森屋は四つの川、「千早川・足谷川・水越川・内田川」が合流している。

 交通の要地で、千早街道・金剛山道・滝谷道」が出会う。

 付近には、料亭・旅籠・芝居小屋等もあったそうな。

 

 森屋地蔵前にある道標

右 とんだばやし ・ 左 多記だに(たきだに)

地元で功績のあった、「菊井為治郎」氏の顕彰碑

 顕彰碑の前の小川。下へ降りる階段があるこちから、昔は家事に利用して

いたかも。 きれいな水!!

 千早川に架かる、金剛橋のたもとに「馬場地蔵」がある。

千早街道を少し北へ行くと「鴨習太神社(かもならいたじんじゃ)」の石柱が

見える。

 祭神は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)・高皇産霊神(たかみむすびのみこと)

 隣接する「森屋」は以前は「守屋」であった。物部守屋の守屋と結びついて

いるかも

「庚申さん」

 庚申信仰は、道教や仏教、神道、民間信仰など様々な要素が集まった信仰で、

日本各地で広まっていました。

 「庚申待」とは、庚申(干支でいう「かのえさる」の日に集まって徹夜をする

行事で、民間信仰の一つです。

庚申の日の夜、人間の体にいる三尸(さんし)の虫が、天の帝釈天(閻魔大王)に

日ごろの行いを報告すると言われます。

行いによっては地獄に落とされてしまうので、寝ずに語り合ったり酒盛りを

したりして虫を天に昇れないようにするものです。一度参加してみたい。

 ここで、見落とせないのが一つあります。

 一つ前の画面の右端にあった屋根に使われている石。

 古墳時代の「石棺の蓋」です。どこから持って来たのでしょう?

「大峰登山」の碑

本日の最終目的地「寛弘寺古墳公園」へ行きます。

 農地開発事業に伴う、この地域の遺跡の発掘調査は、昭和57年にはじまり

平成12年まで実施しました。

 発掘調査によって確認された古墳は総数92基。4世紀中ごろから7世紀後半

にかけて作られたようです。

 寛弘寺古墳群の出土遺物は「大阪府立近つ飛鳥博物館」で、保管・展示されて

います。

   河南町広報誌Web版 「てくてくかなん」

   史跡案内パネル

   「楽しい古墳めぐり」 出版:松籟社  等を参照しました。

  ありがとうございました。

 次回は、何処へ!

 辰じいでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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