〈リバイバル・アーカイブス〉2024.1.29~2.12
原本:2020年10月10日
2020年8月27日 13:50 富田林市彼方滝谷
暑いさなか、「太神宮」灯籠を調査する「富田林百景」のあやしきメンバー
4年前に富田林百景の40名のメンバーで2年かけて調査した時に、富田林市に33基の民衆信仰の石灯籠が見つかりました。その後も調査は続けていましたが、新たな灯籠はなかなか見つかりませんでした。
14:22 西板持の道標のあやしい集団
今年、富田林の「おもしろのスポット」ウォークラリー地図を作る目的で、4つの班に分けて富田林市域をくまなく巡っています。
しかし暑い!ペットボトル5本空け、コンビニごとにジャンボチョコモナカやガリガリ君を食べながらの行進。
15:36 東板持町二丁目 厳島神社
今度11月30日から始まるNHK連ドラ「おちょやん」のモデル 浪花千栄子の生家のあった東板持。先祖の墓(南口家)がある板持共同墓地、その丘陵の西の崖を上がったところに厳島神社があります。
明治40年(1907)に建水分神社に一旦合祀され、現在はこじんまりした神社ですが、それまでは石川郡板持村(東板持)の村の氏神として、江戸後期には2120坪の除地を持っていました。
境内には灯籠がこじんまりした石灯籠が1対。
向かって右側の灯籠は正面に「御神燈」と記銘されています。
脇にはよく読めませんが、どうやら「天明」年間(江戸中期)と彫られているようです。
もう1基、左の石灯籠も同じと思っていたのですが、よく見ると同じ神前型ながら、やや細面です。
銘を確認すると、「太神宮常夜燈」とあるではないですか?
ということは、百景が4年前に確認できなかった伊勢灯籠になります。
「こんなところにあったんや。」
メンバーの驚きの声があがり、蚊の大軍に襲撃されながら調査開始!
右脇には「享和四年(1804)甲子正月吉日」と記され、江戸後期の灯籠であることが分かります。ほかには銘は記されていないようでした。
この灯籠は私たちが調査した富田林の灯籠で、25基目の伊勢灯籠、34基目の民衆信仰の石灯籠になります。
富田林の民衆信仰の灯籠分布とその種類 「とんだばやし灯籠めぐり」2018.3.
富田林中央公民館 市民大学講座『富田林百景+(プラス)』の仲間たち より
これに新たに1基加わります。
時代別に置き換えると次のようになります。
富田林の民衆信仰の灯籠は江戸中期の「明和」「安永」年間ごろに各村で造られ始め、幕末までに多く建之されました。明治以降は3基と少なくなります。
南河内での最初の民衆信仰の灯籠は、河南町神山にある馬場地蔵脇の「太神宮夜燈」で、宝暦四年(1754)の築造。
それから10年後に富田林でも多く作られ始めます。
江戸中期の頃から、民衆の参詣の旅が盛んになり始め、伊勢、金毘羅、愛宕、高野山、大峯山上、西国観音霊場など講や村をあげて、お金を積み立て毎年行くメンバーを選出してお参りしたようです。道中記にもその様子がうかがえます。
そしてそうゆう背景から、村の中や街道筋に参詣の神社仏閣を記した民衆信仰の灯籠が健之されたようです。
近くの板持共同墓地には、鎌倉後期の立派な板持十三重石塔(重要美術品 旧国宝)があります。
やっぱりあやしい中高年探偵団「富田林百景」。
帰りに板茂神社に立ち寄り参拝。
こちらは錦部郡板持村(西板持)の氏神さん。
佐備川をはさんで、東に東板持(石川郡板持村)、西に西板持(錦部郡板持村)があり、学区も異なります。(東板持:大伴小学校、西板持:彼方小学校)
これも発見!板茂神社の鬼門(東北の方向)に賽の神の祠のようなものが...
祠の中に丸石がいっぱい入っていて、外にいくつもはみ出しています。
外から侵入する厄、魔物、邪気、病魔などを払いのける意味合いがあるようです。
関連記事:南河内で一番古い太神宮灯籠 2019.5.7.
2020年10月10日 HN:アブラコウモリH
地蔵さんに興味を抱き富田林の地蔵尊を
調べていたのですが、たしか甘南備の遍照寺付近に
それらしいものを見たような気がします。
見間違いかもしれません。
あてになりませんが、すいません。
情報、ありがとうございました。
ところで、遍照寺の境内にあるコンクリート製の小さな大楠公騎馬像、とってもいいですね。