富田林市の地区(旧地区はいまでもムラとよんでいます)には、現在もひとつふたつムラに民衆信仰の灯籠があります。
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今もこの享保期の灯籠のパーツは観音堂の礎石として再利用されています。
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昭和30年代半ば頃、毛人谷(えびたに)地区の私の周りには4軒の藁葺き屋根のお家(うち)がありました。その1軒は私のお家(うち)です。
そのうちの1軒では真っ黒なでっかい牛を飼っていて、田んぼの力仕事はその牛に頼っていました。そして、田んぼに行くのにうちの家の前を通るのですが、たまにでっかいウ○チを落としていくことがありました。
小学生の低学年のある日、小学校に行く道すがら、よそ見をしていてそのウ○チを踏みつけたことがありました。
犬のウ○チならともかく、どんぶりいっぱいの牛のそれを踏みつけた時には、言い難いほど気持ちが悪く、その不快感は60年を経た今も昨日のことのようによみがえります。
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私の家は藁葺き屋根でした。昭和30年代ではじないまち富田林やその周辺ではもう珍しい存在で、1クラスに1人か2人しか藁葺き屋根お家(うち)はありませんでした。
それで、わんぱく坊主が「おまえの家は藁葺き屋根、風が吹いたら飛んでしまう。」と童話の「三匹の子豚」のように揶揄することがありました。そのことをお母さんに話したら、家を建て替えてくれました。
藁葺きの屋根には立派な苔が生えていて盆栽をしている人が「苔を取らしてほしい」と言ってくることがありました。
つらいのは夏です。本来藁葺き屋根は、薪(まき)を燃やして天井に煙を入れないと虫が湧きます。当時はもうプロパンの時代でしたから煙が出ません。夏場に天井からヤスデ(ムカデのなかま)が寝ていると落ちてくるのです。
夢心地であやまってつぶしてしまったら、クサいのなんの...よく父親が空き缶に落ちてきたヤスデを拾い集めていました。
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幕末頃の富田林市域の領主と石高はこちらをごらんください。
私の生まれた地区(むら)は毛人谷(えびたに)と言って、富田林市でも彼方(おちかた)や廿山(つづやま)とともに超難読地名の地区でした。今は住居表示変更で「富田林市本町」になりました。
60年以上経た今でも子供心によく覚えていることは年賀状によく毛入谷(もうにゅうたに)とか手入谷(てじんだに)とか誤って書かれてきたことです。
富田林市には民衆信仰の石灯籠が34基あります。そのうち「太神宮灯籠(伊勢灯籠)」が25基(74%)と非常に多く、次に「金毘羅灯籠」が5基(15%)と続きます。そのほか、愛宕山灯籠や大峯山上常夜燈、秋葉大権現灯籠、弘法大師夜燈が各1基あります。
*この記事は「とんだばやし灯籠めぐり」(2018.3.7 「富田林百景+」の仲間たち)より引用したものです。
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石灯籠❤(20)
2024年1月2日 (HN:アブラコウモリH )
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