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スピルバーグと映画大好き人間、この指とまれ!

カフェには、映画が抜群に良く似合います。
大好きなスピルバーグとカフェ、アメリカ映画中心の映画エッセイ、
身辺雑記。

スピルバーグが影響を受けた人達

2008-01-30 05:35:05 | 連載コラム~スピルバーグ~

 黒澤 明

 最近、クロサワ作品が日本においてリメイクされている。うれしいことだ。テレビでは、「生きる」「天国と地獄」をやったり、映画では、昨年の12月に織田裕二主演で「椿三十郎」、そして、今年は阿部 寛主演で「隠し砦の三悪人」が公開される。やはり、世界の監督たちから尊敬されるだけはある。もちろん、わが愛すべき監督であるスピルバーグも敬愛してやまない。

 スピルバーグが、尊敬し影響を受けている最たるものは、もちろん技術的な面もあるが、それよりも映画作りに向かう精神的な面、映画哲学とでも呼ぶべきものだ。

 スピルバーグは、クロサワ監督について『黒澤映画の美術』(1985年学習研究社発行)の中で、「私が最初に出会ったクロサワの映画は『蜘蛛巣城』だった。私に言わせれば、あの映画の素晴らしさは作品全体に漂う気品と、美しいイメージの連鎖にあった。彼の作品を貫いているのは人間賛歌―英雄であれ悪人であれ―である。黒澤作品のベスト・スリーをと言われれば、私は『隠し砦の三悪人』『蜘蛛巣城』『生きる』の3つを挙げる。私が彼の作品に期待するもの、それは美、苦悩、生命への愛、死、再生、教訓、裏切り、視覚的メタファー、アクション、流れ、勇壮さ、広大さ、微妙なニュアンス、夢、悪夢、子ども、知恵、運命、そして、希望だ。」と語っているように幅広い側面に対して尊敬している。

 黒澤は、1910年3月23日に東京の現在の品川で生まれる。学生時代は、絵描きになることを夢見て勉強に励み二科展に入選したこともあった。しかし、絵では食っていけないことを知った。 そこで、以前から好きだった映画鑑賞と第1期映画黄金時代を迎えていた映画界へ入った。P・C・L映画製作所(現・東宝)に入社。エノケン映画で有名な山本嘉次郎監督の下で助監督を務めその傍ら脚本も書いた。そして、1943年に「姿三四郎」で監督デビューする。以後、娯楽作や社会派ドラマなど数多くの名作を監督する。主な作品として、三船敏郎の黒澤映画デビュー作「酔いどれ天使」(1948年)「野良犬」(1949年)「羅生門」(1950年)「生きる」(1952年)「七人の侍」(1954年)「蜘蛛巣城」(1957年)「どん底」(1957年)「隠し砦の三悪人」(1958年)「用心棒」(1961年)「椿三十郎」(1962年)「天国と地獄」(1963年)「どですかでん」(1970年)「影武者」(1980年)「乱」(1985年)「夢」(1990年)そして、遺作となった「まあだだよ」(1993年)などがある。海外での受賞歴も数多く、主なものでも「羅生門」がヴェネチア国際映画祭金獅子賞とアカデミー特別賞、「生きる」がベルリン国際映画祭銀熊賞、「七人の侍」がヴェネチア国際映画祭銀獅子賞、「隠し砦の三悪人」がベルリン国際映画祭監督・国際映画批評価賞を獲得している。彼が、尊敬していた監督は、西部劇の神様であるジョン・フォードである。ハリウッドに行ってジョン・フォード本人に会ってアクション演出、とりわけ馬が疾走する迫力ある演出方法を学でいる。これによって、黒澤は「時代劇の神様」となった。

 絵描きになろうとしていたところから彼は、スピルバーグ同様に映像派の監督である。しかし、スピルバーグと大きく違うところは、脚本をほとんどの作品で手がけており、しかも、それを映像化する際に重要な絵コンテを自らラフスケッチではなく画家のような腕前で精巧に書く力がある。 

 彼の特徴を挙げればきりがないが、私は、「巨匠の映画に学ぶビデオ撮影術」(1994年)の著者である西村雄一郎氏が指摘している点に尽きると思う。まず、「男性的でわかりやすいこと。はっきりしていること。自然を使った演出。雨ならどしゃぶり、風なら突風、太陽ならぎらぎらと照りつける。季節感のある演出。特に夏と冬。ストーリーは、簡単でディーテールには凝る。ダイナミズム。その頂点は、「七人の侍」であり、そのほかには「用心棒」「隠し砦の三悪人」「野良犬」「天国と地獄」などがある。ダイナミズムを作り出すには、①全域にピントのあったパン・フォーカスの使用②縦の構図を駆使する③重厚感を表現するのに超望遠レンズを使用し、密閉感や人を多く見せる④マルチ・カメラ方式を使い緊張感を生み出す。⑤移動のカメラワークとして疾走するシーンのパン撮影で、スピード感を出すためにコマ落としをする。編集に重点を置く」。

 スピルバーグの受けた技術的側面の影響は、彼が視覚的メタファーと呼んでいるもの、たとえば、映画の象徴的シーンに雨のシーンを使うこととアクションシーンの演出だ。視覚的メタファーとしては、「未知との遭遇」の冒頭の真っ暗な画面からいきなり砂嵐で始まるシーン、「ジュラシック・パーク」で最初にティラノサウルスがハリケーンの中登場するシーン、「シンドラーのリスト」で全編モノクロ撮影のなか小さい女の子が歩くシーンでその子の姿のみ赤色で色を着けて撮影している。また、「宇宙戦争」でトライポットが現れる前兆となるシーンに嵐や雷の稲光を使っている。

 一方のアクションシーンだが、これはインディジョーンズシリーズを始めとする移動カメラ撮影やクレーン撮影を使用している。

 私が黒澤 明監督作品で好きなものは、「野良犬」「七人の侍」「用心棒」「天国と地獄」「どですかでん」「夢」である。

 「野良犬」は、刑事ドラマの原点とも呼ぶ傑作だ。黒澤のサスペンスタッチの演出と設定が魅力である。私がこれまた好きな「太陽にほえろ!」もこの作品に多大な影響を受けている。最高の刑事ドラマであり、コンビ刑事映画である。拳銃を盗まれた若い新米刑事が、先輩と一緒にその拳銃が犯罪に使われる前に犯人を逮捕する話。特に素晴らしいのは、拳銃で殺人を繰り返す犯罪者を夏の炎天下の中、新米刑事の三船敏郎と先輩刑事の志村 喬が粘り強く捜査を展開しては犯人を突き止めようとする姿である。まさに刑事魂とはこれだ。また、この2人のキャラクターも見ごたえがある。若い新米刑事を中心にストーリーが展開されるのもいい。

 「七人の侍」は、戦国時代、貧しい百姓たちが雇った七人の侍が野盗化した野武士たちの襲撃から村を守る話。アクション大作、時代劇の大作の風格を持った作品。あの西部劇の名作「荒野の七人」ののもとになった作品として知られている。七人の侍の個性的なキャラクターと大雨の中の合戦シーンがいい。特にこの大雨のシーンは、雪解けの泥水が地面にたまる環境の下で黒澤監督は、大雨を降らす機材を使って演出した。また、早坂文雄の作曲した侍のテーマ曲もヒロイズムと悲愴感漂う侍たちの描写に多大なる影響を与えていて印象に残る。

 「用心棒」は、宿場町を牛耳る2組のやくざを桑畑三十郎の浪人が知恵と剣術を武器に相打ちさせる痛快娯楽活劇大作。桑畑三十郎の型破りなキャラクターとそれを演じる三船敏郎の存在感のある演技が印象に残っている。迫力とスピード感にコミカルなテイストがブレンドされた私の一番好きな作品である。特に宿敵やくざを演じる仲代達矢と三船敏郎の決闘シーンは、忘れられない。仲代達矢は、首にマフラーを巻きつけ懐にピストルといういでたち、一方の三船敏郎は、手裏剣や刀を使って立ち向かう。また、佐藤 勝の音楽も印象に残る。

 「天国と地獄」は、社会派ドラマ・サスペンス映画の傑作である。子どもの誘拐事件を題材にしてトリックや謎解きが楽しめるディテールにこだわった作品。また、なぜ犯人が犯行に及んだかが興味を惹き人間ドラマとしても充分に堪能できる。

 

 「どですかでん」は、初のカラー作品であり、架空の街に生きる貧しい人々を優しく見つめたオムニバス的作品。それぞれのエピソードが魅力的でそれが積み重なって哀しくもあるがかすかな希望があるところが素晴らしい。また、特に印象的なのは、オープンニングの小学生が描いた電車の絵のクローズアップで映画が始まりそのバックに流れる武満 徹のファンタジックな音楽である。

 「夢」は、『こんな夢を見た』で始まる8つの幻想的なエピソードのオムニバス作品で、黒澤監督の自伝的要素が濃い素敵な作品。演ずるは、寺尾 聡。そして、製作の援助をしているのはスピルバーグである。どれも魅力的な作品だが、特に気に入っているのは、第3話「雪あらし」第5話「鴉」第8話「水車のある村」の3本である。「雪あらし」は、雪山登山隊の隊長となったわたしが猛吹雪の中で雪女の妖怪と出会うもので、黒澤作品の中で一番怖い作品。スピルバーグの「ジョーズ」や「エクソシスト」「エイリアン」に匹敵する恐怖が味わえる。特に音響効果とメイクアップと衣装が素晴らしい。「鴉」は、画家志望のわたしが、ゴッホの絵の中に入りゴッホに麦畑で出会う話。

ゴッホ役にはマーチン・スコセッシ監督が扮している。彼も黒澤監督を尊敬する一人である「水車のある村」は、わたしが自然の中で穏やかに暮らす村人たちの姿を追う中で自然の大切さを知る作品。特に最後の祭りで村人らが、朗らかに踊るシーンが印象に残る。

 

 

 

 

 


スピルバーグが影響を受けた人達

2008-01-29 05:28:52 | 連載コラム~スピルバーグ~

ジョン・スタージェス

 ジョン・スタージェスは、1911年1月3日にアメリカはイリノイ州オーク・バークに生まれる。マリン・ジュニア・カレッジを卒業後、RK0に入社し美術、編集、製作助手を経て監督となる。アクション映画の巨匠と言われ「OK牧場の決闘」(1957年)などの豪快な西部劇で60年代のハリウッド娯楽映画をリードし、スティーブ・マックイーンを大スターにした。主な作品は、上記の他には「戦雲」(1959年)「荒野の七人」(1960年)「大脱走」(1963年)がある。

 この作品郡のうちでスピルバーグが大好きな作品として挙げているのは「大脱走」である。この作品についてスピルバーグは「これは素晴らしい映画で、脱獄アクションもの以上の映画として評価すべきだと思います。10人の人物の1人1人についてはほとんど語られていませんが、2時間たつと私たちは彼らを深く知るようになるのです。アクションの手ぎわの良さを勉強するのに絶好の映画です。」そして、続けて「ジョン・スタージェスは、超一級の監督です。」と語っている。

 今ではジョン・スタージェス監督の名前よりも作品の方が有名な感じがあるが、スピルバーグにとってスタージェスは、間違いなく自分に影響を与えている。彼が語っているように複数の登場人物を映画が終わるころには魅力的な印象に残るように映像で語る手法である。スピルバーグの「カラーパープル」「太陽の帝国」「シンドラーのリスト」「ターミナル」「ミュンヘン」などがそうである。「大脱走」は、私も大好きな作品でベスト10に入る作品。スティーブ・マックイーンの大ファンになった忘れられない作品でもあり今もマックイーンは一番好きな俳優である。

 ハワード・ホークス

 ハワード・ホークスは、1896年6月5日にアメリカのインディアナ州ゴーシェーンに生まれる。コーネル大学卒業後、美術係としてハリウッド入りする。脚本家を経て1925年に「栄光への道」で監督となる。第一次大戦に空軍に入ったためその体験から航空映画、戦争映画にすぐれた演出力をみせた。しかし、何と言っても彼の魅力は「リオ・ブラボー」(1958年)などの西部劇でジョン・フォードと並んで男を描いてファンをわかせたアクション映画の名匠であること。男の友情や闘いをテーマにしたダイナミックなタッチが特徴であった。主な作品には上記の他に「赤い河」(1948年)「エル・ドラド」(1966年)「リオ・ロボ」(1970年)がある。

 スピルバーグは、彼から特にアクション映画における主人公たちの性格描写に大きく影響を受けており、また、主要登場人物が3人であるのも彼が好きな証である。「ジョーズ」「インディ・ジョーンズ3部作」や「オールウェイス」。そして、「宇宙戦争」を作る時に参考にした作品は、彼が少年のころから好きだったホークスのSF映画「遊星よりの物体X」だった。


スピルバーグが影響を受けた人達

2008-01-27 05:33:20 | 連載コラム~スピルバーグ~

フランク・キャプラ

「ストーリー・テーラー」であり、「性善説」を説く人。元気が出る監督。エピソードの積み重ねが上手い。人の世の愛情や正義の美しさを社会風刺を織り込んでジェームス・スチュアートに託して訴えかける作品を作った監督。普通の人がヒーローになる映画が多くそこにスピルバーグは惹かれた。

 フランク・キャプラは、1897年5月18日にイタリアのシチリア島パレルモに生まれ6歳の時に家族とともにアメリカへ移住。彼が、イタリア系アメリカ人なので家族の絆を大切にする。ユダヤ系アメリカ人であるスピルバーグが家族をテーマにした作風を自分の後の映画に散りばめているのは、キャプラからの影響があるのかもしれない。人間愛、家族愛、そして、理想主義的ヒューマニズムの賛歌の映画を描いては、べストワンの監督であった。「或る夜の出来事」「我が家の楽園」「スミス都へ行く」で3度アカデミー監督賞受賞。主な作品は、「或る夜の出来事」(1934年)「オペラ・ハット」(1936年)「失われた地平線」(1937年)「我が家の楽園」(1938年)「スミス都へ行く」(1939年)「群衆」(1941年)「毒薬と老嬢」(1944年)「素晴らしき哉、人生!」(1947年)などがある。スピルバーグの好きな作品は、本人も折に触れて語っているが「素晴らしき哉、人生!」である。スピルバーグにとってキャプラは「ヒューマニズム映画の神様」であるのだ。先ほども触れたがキャプラの道徳観を自分の映画に取り入れているのだ。そして、演出面でも「失われた地平線」は、「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」の冒頭のインディらを乗せた飛行機が雪山へ衝突するシーンに受け継がれているし、「群衆」は「太陽の帝国」の上海通りの群衆シーンに影響を与えている。

 私の好きな作品は、「我が家の楽園」「スミス都へ行く」そして、「素晴らしき哉、人生!」である。いずれの作品もジェームス・スチュアート主演だ。「我が家の楽園」は、一家の家庭を通して人生を楽天的に生きることの大切さをコミカルに描いた秀作。そして、「素晴らしき哉、人生!」であるが、自分の人生に絶望した主人公が天使の力によって「自分は意味のない人間ではなく誰かの役に立っている。誰かを幸せにしている」のだと気がつき再び前向きに生きてゆく話で、その誰かとは、家族であり近所の隣人たちである。人生の応援歌のような映画でスピルバーグ同様に毎年一回は観たい映画の一つだ。

 アルフレッド・ヒッチコック

 アルレッド・ヒッチコックは、1899年8月13日にイギリスのレイトンストンに生まれる。ロンドン大学で美術を専攻し、広告代理店で働きその後、サイレント映画の字幕書きで映画界に入る。1921年から監督となり1940年「レベッカ」でハリウッド入りしアカデミー作品賞を受賞する。スリラー映画、恐怖映画の神様と言われている。イギリス時代の作品「暗殺者の家」(1934年)からスリラー映画を一貫して作り出す。主な作品は、上記の他に「海外特派員」(1940年)「断崖」(1941年)「白い恐怖」(1945年)「汚名」(1946年)「ダイヤルMを廻せ」(1954年)「裏窓」(1954年)「泥棒成金」(1955年)「知りすぎていた男」(1956年)「めまい」(1958年)「北北西に進路をとれ」(1959年)「サイコ」(1960年)「鳥」(1963年)などがある。

 スピルバーグが好きな作品は「海外特派員」「めまい」「北北西に進路をとれ」「サイコ」「鳥」である。これらの作品をスピルバーグは大学時代に映画館で夢中になって見た。特に「サイコ」は、数百回見て編集技術を研究した。また、「引き裂かれたカーテン」の現場をのぞこうとしてユニバーサル撮影所へもぐりこんだ有名なエピソードもある。そこで、ヒッチコックのハラハラドキドキさせ、怖がらせ笑わせながらロマンチックな雰囲息を堪能した中からスピルバーグは、演出テクニックの多くを学んでいる。そして、彼が映画作りをプロとして始めるにあたり模倣した監督はヒッチコックである。「映画は、娯楽だ。」と語るスピルバーグの志向にとってはやはり、ヒッチコック。それは、デビュー当時から現在に至るまで多少変遷はあるにしろ脈脈と彼の中にある。だから、スピルバーグ作品の基本的な楽しさはヒッチコックの影響がとても大きい。それは、オマージュに近いものである。「海外特派員」は、「マイノリティ・リポート」の雨の傘のシーン、「めまい」は、「ジョーズ」のブロディ署長がアミティの浜辺でサメの監視をしているときにサメの出現に驚く顔の表情を演出するのに「めまいカット」と呼ばれているカメラワークを応用している。「北北西に進路をとれ」は、「インディ・ジョーズ/最後の聖戦」のインディ親子が突然に無防備な状態でドイツ軍の戦闘機に命を狙われるシーン、「サイコ」は、「マイノリティ・リポート」のプリコグの目のクローズアップ、そして、「鳥」は「ジョーズ」のサメの登場の仕方に影響を与えており、また、ラストに鳥を登場させてたり「ジュラシック・パーク」のラストシーンにも鳥を登場させているが何と近作の「宇宙戦争」にも鳥を登場させている。それは、フェリーの船つき場にトライポットが姿を現すシーンで鳥が逃げるようにして夜空を飛び、また、ラスト近くでトライポットのシールドが消えるシーンの象徴として鳥がトライポットの周りを飛んでいる。

 まず、映像第一主義の監督であったヒッチコックは、デティールとカメラ・ワークにこだわった。特に、カメラ・ワークは、カメラの動きがそれ自体生きているような躍動感があり様々な動きを実験的に取り入れて完成したものにしている。また、間違いや偶然からスートーリーが始まる設定をしてサスペンスと冒険の世界へ連れてゆく。そして、計算されたサスペンス・ショッカー演出と小道具に凝った。

 スピルバーグは、脚本以上に映像を重視するのが好きな監督であるので当然ヒッチコックが好きになった。そして、彼が自作に普通の人を主人公にしてその人物が事件に巻き込まれそれに立ち向かってゆく設定をとり、鳥を始め夕日、車のミラーなどを繰り返し登場させているのは明らかにヒッチコックの影響が見られる。

 私が好きなヒッチコック作品は、「裏窓」「泥棒成金」「北北西に進路をとれ」「鳥」である。「裏窓」は、カメラマンであるジェームス・スチュアート扮する主人公が足を骨折し自宅で療養中にふと目の前のアパートの住人たちの暮らしぶりを窓からのぞいているとある部屋で殺人事件が発生したのを目撃する。そして、グリース・ケリー扮する恋人の助けを借りて警察へ通報する。しかし、その殺人犯が主人公を殺そうとする話。設定が素晴らしく上手く、ハラハラドキドキのサスペンスが味わえる。そして、主人公は、足を骨折していて車椅子生活なので退屈でしょうがないので他人の家をのぞき見る楽しさから恐怖に変る姿を主人公の目線を使ったカメラワークで見事に演出している。それに加えて主人公と恋人の二人三脚による犯人探しや主人公がやがて犯人に襲われるのを身をもって防ごうとする恋人役のグレース・ケリーの演技と美しさなど見所満載だ。」「泥棒成金」は、ケーリー・グラント扮する宝石泥棒がこれまたヒッチコックの愛する女優グレース・ケリーを起用してこの2人の恋模様と泥棒の様子をコミカルに描いた秀作。「北北西に進路をとれ」は、ケーリー・グラント扮する主人公が広大なとうもろこし畑で何の前触もなく飛行機に襲われるシーンのサスペンス演出を始めアクション満載の作品。「鳥」は、鳥が突如、人間を襲うシーンの数々の演出、なかでもガソリンスタンドの上空を俯瞰撮影を利用して鳥が、地上へ舞い降りてくるカメラワークが素晴らしい。

 


スピルバーグが影響を受けた人達

2008-01-26 05:18:28 | 連載コラム~スピルバーグ~
 スピルバーグが尊敬する監督、影響を受けた監督は、皆独特のスタイルを自ら持っている人。スピルバーグ自身のスタイルは「家族の絆」である。 スピルバーグの映画には、特に初期の映画にはウォルト・ディズニーの影響が見られるがスピルバーグの少年期からの映画体験と中期以降の作品から彼がディズニーから離れていったことを考えるとスティーブン・スピルバーグ監督のベースにはまず、ジョン・フォード、フランク・キャプラ、アルフレッド・ヒッチコック、ハワード・ホークス、ジョン・スタージェスらのアメリカ映画の伝統的な監督たちの影響がありその上にディズニーの影響が重なっている。そして、近年に至ってはデビッド・リーン、イングマール・ベルイマンなどのヨーロッパの監督の影響が見え始めている。それでは、順を追って彼が影響を受けた人を紹介して行こう。

 ウォルト・ディズニー

 スピルバーグは、「バンビ」「白雪姫」を8歳と11歳の時に見て、悲鳴をあげながら家に帰った。ディズニーを敬愛するスピルバーグの愛している作品は「白雪姫」(1937)、「ピノキオ」(1940)、「ファンタジア」(1940)「ダンボ」(1941)、「バンビ」(1942)、「ピーターパン」(1953)。彼の初期の作品に数多く影響を残しているが、その中でも特にディズニー精神が盛り込まれた映画は、「未知との遭遇」「E.T」である。ディズニーの作った映画は老若男女を問わず童心に帰れるところが素晴らしい。

「未知との遭遇」では、冒頭の方で家族で何の映画を観にゆこうか話し合う場面が出てくるが、主人公である一家の父ロイは、間髪入れずに「ピノキオにしょう。子供の頃に観たピノキオが素晴らしくて忘れられないんだ」というセリフがあるし、エンディングには主題歌「星に願いを」が流れる。また、「E.T」は、ハロウィンの夜にエリオットがE.Tといっしょに満月の中を飛ぶシーン、自転車に乗った少年たちが空を夕日をバックに飛ぶシーンやエリオット少年の母が、娘のガーティーを寝かしつけるのに読んでいた本が「ピーターパン」であった。他にも「1941」でこれから戦争が始まるというのに映画館で「ダンボ」を観て涙ぐむ将軍のシーンがあった。私が、ディズニーの中で好きな作品は、「ピノキオ」と「ファンタジア」である。ディズニー映画の素晴らしさを知ったきっかけとなるものだった。そして、この2作品は私の好きな「ジョーズ」や「未知との遭遇」のエッセンスがある映画で、特に「ピノキオ」は、おじいさんを鯨から救おうと鯨と闘うシーンは迫力があり大好きなシーンだ。

 ところで、これは余談になるが以前に「ディズニー・アート展」を観に家族と行き、スピルバーグ同様あらためてディズニーの偉大さを感じた。

 ジョン・フォード

 ジョン・フォード監督というと思い浮かべるキーワードは、西部劇、モニュメント・バレー、荒野にかかる大空の雲。時間の流れとともに大群の雲が動く様子を画面いっぱいにロングショットで雄大に撮る。ジョン・ウェイン扮する西部男が馬に乗り、その馬を画面の奥からロングショットでとらえ画面手前でクローズアップになる。その映像は、土の中に穴を掘ってカメラを設置したカメラワークで臨場感溢れたものだ。

 ジョン・フォードは「西部劇の神様」と言われている。1895年2月1日アメリカのメイン州の生まれで高校卒業後、俳優だった兄フランシスを頼って映画界入り。大道具係を経て1917年から監督になり以来130余の作品を監督する。ジョン・ウェインとの名コンビによる西部劇とともに男を描いてはこの監督の右に出る者はなかった。「男の敵」「怒りの葡萄」「わが谷は緑なりき」「静かなる男」でアカデミー監督賞4度受賞は、未だに彼だけの快挙である。主な作品は「男の敵」(1935年)「駅馬車」(1939年)「怒りの葡萄」(1940年)「わが谷は緑なりき」(1941年)「荒野の決闘」(1946年)「逃亡者」(1947年)「アパッチ砦」(1948年)「黄色いリボン」(1949年)「幌馬車」「リオ・グランデの砦」(1950年)「静かなる男」(1952年)「捜索者」(1956年)「荒鷲の翼」(1957年)「騎兵隊」(1959年)など。ともかくあらゆる種類の映画を撮った職人監督でもある。そこには、「戦後公開アメリカ映画大百科/監督編アメリカ映画の伝統」(1979年日本ブックライブラリー)から刊行された書物のなかで著者の一人である深澤哲也氏が、フォードについて「自分の仕事をきちんとやりとげる人間への愛情、正義心、素朴で豪快な人間描写、詩情溢れる荒野の描写」を特徴として挙げており、作風については「西部劇の叙情性、軍隊劇の友愛精神、そして、社会劇の反権力精神に大別される」と語っているがまさに私もその指摘のとおりであると思う。スピルバーグは、あるインタビューで「僕は職人監督に憧れている」と語っているがその際たる人こそジョン・フォードでありスピルバーグが大好きな監督である。その理由は、深澤哲也氏が指摘した作風からであろう。そして、繰り返しになるがフォードは、「西部劇の神様」である。

 スピルバーグは、今ではほとんど作られなくなった西部劇の神様であるフォードの西部劇におけるサスペンス演出を自分の映画のアクション場面に取り入れている。言うならば、スピルバーグにとっては、フォードは「アクション演出の神様」であるのだ。フォードからのインスピレーション、オマージュは、「ジョーズ」、「レイダース/失われたアーク」。「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」は「駅馬車」から「E.T」には「静かなる男」、「カラーパープル」は「捜索者」、そして、「プライベート・ライアン」は「三人の名付親」からである。

 わたしの好きな作品は「駅馬車」「怒りの葡萄」「三人の名付親」「捜索者」である。「駅馬車」は、馬車にいろんな過去をもった人間が乗り込み様々な人生模様を見せてくれるし、最後のアパッチインディアンの襲撃シーンは映画史に残る名場面だから。「怒りの葡萄」は、ジョン・スタインべックが原作の映画化でアメリカ南部の大恐慌時代の農村を舞台にして大地主と小作人一家との闘争を描いたもの。一家の逞しい母親と息子の愛情が胸を打つ。そして、その息子を演じたヘンリー・フォンダの演技は数ある彼の映画の中でもわたしはベストワンだ。「三人の名付親」は、実は特に好きな作品である。荒野に捨てられた赤ん坊をジョン・ウェインを始めとする男三人が試行錯誤のうえ母親の元へかえしてやる心温まる作品である。「捜索者」が好きな理由はスピルバーグと同じく風景が登場人物たちの心の有様を上手くサポートしている演出が素晴らしいからである。

 

  

 

 

 


「青年時代」

2008-01-25 05:59:51 | 連載コラム~スピルバーグ~
 まず、ここでは、1959年から1964年ごろ、スピルバーグ13歳の中学1年生から高校を卒業するまでの一番多感な頃の彼の人生を追っていってみょう。
1959年のスピルバーグは、彼にとって大きな意味を持つ年だった。これは、彼がバルミツバーを受けた年である。この頃から、父親が仕事ばかりに夢中なっていること、頑固なまでに几帳面で規律を重んじることに対して彼はあからさまに反抗するようになった。また、この年は、10月からCBSでテレビ番組「トワイライトゾーン」が始まった。番組の製作と脚本を担当したのが脚本家として有名だったロッド・サーリングで毎週ホスト役をつとめた。スピルバーグは、テーマ曲が聞こえるとテレビ食い入るように見た。この想い出は、「E.T」や映画版「トワイライトゾーン」に反映されている。
 1959年から1960年にかけては、出版業界でSFが流行ったこともあってB級なSF映画が数多くつくられた。そして、スピルバーグの父アーノルドが、コミック漫画や雑誌を愛読していたが、その影響を受けたスピルバーグが特に素晴らしいと思ったのは、ジャック・アーノルド監督の「縮みゆく人間」「イット・ケイム・フロム・ジ・アウター・スペース」「宇宙の子供」「大アマゾンの半漁人」。また、A級作品では、「宇宙戦争」や「遊星よりの物体X」も好きだった。
 スピルバーグは、また、この頃は、飛行機映画「ファイター・スクアドロン」という作品をつくる。これは、キャッスルフィルムズなどの会社が第二次大戦のドキュメンタリーを8ミリで販売したものを切り取って使った映画。
 そして、1960年、スピルバーグ14歳のときに「エスケープ・トゥ・ノーウェア」をつくる。この作品は、40分の戦争映画で、後の「プライベートライアン」や、第二次大戦下のりベリア砂漠でアメリカ軍がナチの追跡から逃れるストーリーとのことなので、「インディ・ジョーンズシリーズ」の第1、3作目や「シンドラーのリスト」を作る下地がこの頃あったのかもしれない。
 ところで、スピルバーグの映画作りは、家族、友達を巻き込んでのものだった。いい例が、今挙げた「エスケープ・トゥ・ノーウェア」である。これは、父が余剰軍需品のジープを買ってきたのがきっかけ。ドイツ軍のヘルメットの複製を何個か手に入れて友達にかぶせ、カメラの前をゆっくり行進させた。母のリアは、ジープを自ら運転したり、ドイツ軍のグレーの制服を作った。また、妹や友達がその制服を着てマシンガンで撃たれたり、北アフリカの砂漠という設定の丘を転げ落ちるシーンを何度もやらされた。この作品は、キャニオン・フィルム・フェスティバルで受賞し、賞品は16ミリカメラだった。しかし、16ミリフィルムの現像費がまかなえなかったのでH8の機能がある8ミリボレックスと交換した。
 高校は、スコッツデール・アーカディア高校へ入学。入学すると、スピルバーグは、母のリアがピアノに夢中なっていたこともありクラシック音楽に興味を持ち始めクラリネットを習い始め、学校のブラスバンドに入った。父に援助してもらってボレックス・ソーンライザーを買い磁性帯フィルムにサウンドトラックを入れることができるようになった。このような環境の中、彼が好きだった音楽は映画音楽だった。これは、よき仕事仲間であり友人となる映画音楽の作曲家ジョン・ウィリアムズとの出会いを早くも予感させる。この頃から、自分のクラリネットで演奏した音楽を自らの映画につけていたが、結局は、母に頼んでピアノ用に編曲してもらって録音したものをサウンドトラックとして使った。
 この時代に約15本のストーリー映画を作った。アイデアは、地元のキバ映画館で観たハリウッド映画から生まれた。どの映画もスピルバーグの教科書になったのだろうがその中でも特に影響を与えた作品は、ジョン・フォード、フランク・キャプラ、そして、アルフレッド・ヒッチコック監督のものだ。そして、何時間もひとり自宅にこもり、映画のシナリオや絵コンテを夢中で書いた。
 そして、スピルバーグが映画監督になることを決意させることになる作品と出会う。1962年に見たデビッド・リーン監督の「アラビアのロレンス」である。この作品は、今でもスピルバーグの中でベスト10内に入る作品。なぜ、彼がそれ程までに絶賛するのか?彼自身が映像派の監督であるからだ。これは、青年時代のアマチュア映画を撮っていたころと変りはない。彼の言葉を借りよう。「僕にとって映画は、完全に視覚的なものなんだ。イメージや雰囲気を表現することのほうが面白いと思う。映像がストーリーを語るという考えかただね」
「アラビアのロレンス」を見てからというもの映画作りに情熱をかたむけるようになりスピルバーグ16歳のときに初の長編映画をつくった。「ファイアーライト」と言う作品でSF冒険もの。脚本の第一稿は、一晩で書き上げた。主人公の科学者たちが、宇宙に輝く光を研究していたところ宇宙人を刺激してしまう。そして、宇宙人が地球を侵略しようとやってくる。ある町をそっくり奪い取り別の星に持って行ってその町を組み立てなおすというストーリー。科学者たちが研究しているものが「光」というのも映画的だし、また、このストーリーは「未知との遭遇」や「宇宙戦争」に似ている。この作品はフィルムを140分に編集して近くのアリゾナの大学生にアフレコを頼み、居間の壁に張った紙に映像を映し、それにあわせてセリフを吹き込んでもらった。そして、アーカディア高校のブラスバンドが音楽のいくつかを録音した。その後、この作品のことを近くの都市、フェニックスの新聞「ガゼット」が記事にした。1年がかりで作成し、脚本を自分で書いた。出演者も自分で探し、妹のナンシーが出演。製作費500ドルで、スコッツディルの映画館で一晩だけの興行が出来た。家族で入場券を売り歩いて100ドルの利益を生んだ。
 そのころ、一家は、アリゾナ州スコッツディルに住んでいたが、カリフォルニア州サラトガへ引っ越す。ここで、両親が離婚する。スピルバーグは、この両親の別居に心を痛め、結婚に対して不信感を募らせ喪失感を味わう。これはよく言われることの一つだが、そうした気持ちを反映してか彼の映画には父を探し求める息子や家族を失った子供が多数登場する。
 サラトガでは、スピルバーグは以前以上に差別やいじめにあった。自習室でペニー硬貨を投げられたり、体育館でひどくからかわれて以来スポーツは一切しなくなった。1963年の夏休みになると彼は、父を説き伏せてロサンゼルス郊外のカノーガ・パークに住む叔父の下で過ごす。なぜなら、ユンバーサル・スタジオに行きたかったからである。


※参考にした文献『スピルバーグ 筈見有弘著 講談社現代新書』『地球に落ちてきた男/スティーブン・スピルバーグ伝 ジョン・バクスター著 角川書店』

 

「子供時代」家族力、古い映画、視覚力~4

2008-01-24 06:12:26 | 連載コラム~スピルバーグ~
 スピルバーグの両親の夫婦仲は、あまり良くなかった。実は、この不幸な家庭環境が、後のスピルバーグ作品に色濃く現われて、作品を魅力あるものにしている。特にアーノルドが、競争の激しい新興業界であったコンビュータの仕事に就いてからというもの夫婦喧嘩がたびたびあった。アーノルドは、同僚を自宅に招きトランジスターの打ち合わせ、リアは、ピアニストになれなかったのは、アーノルドと結婚したためと感じるようになり、そのはけ口を居間でやる演奏会に求めていた。お互いにストレスをためるようになった。
 スピルバーグは、初めのころ両親が喧嘩するのが嫌いでどうしたらいいかわからなったが、やがて、怒りや恐怖を自分で調整できるようになった。部屋にこもり、ドアを閉めて床との隙間にタオルを詰め、エアフィックスのボビーキットでプラモデルの飛行機を作るのに熱中した。そのときの心境を後に語っている。「ぼくは長いこと孤児のような態度をとっていた。親なんて必要ないって、無理していたんだ。」
 この時代のスピルバーグが、夢中になったものがテレビである。『地球に落ちてきた男/スティーブン・スピルバーグ伝 ジョン・バクスター著 角川書店』によると、フィルム・エディターのラルフ・ローゼンブラム言わく、「スティーブン・スピルバーグもそうだが、若い監督たちの中には、テレビ時代に育ったせいで映像のリズムや可能性について直感的なセンスを備えている人たちがいる」と言っている。スピルバーグも「まず漫画に熱中したよ。それから映画も数え切れないほど見た。いまでもそうだけどね。すぐれた文学作品やその他の活字になっているものはほとんど読まなかった。」と語っている。読書が嫌いであった。それよりも、ここが彼のすごいところだと感心するが、テレビで放映される古い映画を数多く熱中して見たことだ。テレビが、彼の映画学校だった。特に、スピルバーグが好んで見たものは1930年代のハリウッド映画である。この時代の映画は、アメリカの大恐慌時代の不景気を反映して夢や楽しさを与える名作が数多く生まれた時期で、アメリカ映画の精神の基本「やったらやれる。」があった。そして、スピルバーグは、特にキャプラ作品の「素晴らしき哉、人生!」に多大な影響を受けた。ジェームズ.スチュアート主演で、ベッドフォード・フォールズという田舎町の銀行に勤める貯蓄ローンのマネージャーが、他人のためによかれと思ってしたことがすべて裏目に出てしまい、すっかり自信を失い、人生に絶望し自殺を試みようとするが、そこへ、天使があらわれ、彼の善意がなければ町が楽しくない冷たく味気ないものとなっていたことを見せる。そして、彼は再び生きる自身を取り戻すというストーリー。
 そして、時代は遡るが、スピルバーグの記憶にある最初の思い出は視覚的なものだった。人生のスタートからして映画監督になるために生まれてきたような気がする。それは、父親がシンシナティのハンディックのユダヤ教寺院に未だ幼くベビーカーに乗っていたスピルバーグを連れて行ったときである。そこへ着くとスピルバーグは、ユダヤ人の男たちがいる部屋へ行った。そこで、彼が見たものは姿聖所から溢れだす燃えるような赤い光だった。この光の印象は、彼の心に強く残った。スピルバーグは、語っている。「僕は神の光となずけたものをずっと愛してきた。空や宇宙船から降りてくる光線や戸口から差し込む光だ」。また、一人でいるときは、天井に自分の手の影を映して自分を嚇かすことに熱中した。この時の体験が、スピルバーグに視覚力を育ませた。なにしろ、映画は、光と影の芸術であるから。


※参考にした文献『地球に落ちてきた男/スティーブン・スピルバーグ伝 ジョン・バクスター著 角川書店』


















 

「子供時代」家族力、古い映画、視覚力~3

2008-01-23 05:19:32 | 連載コラム~スピルバーグ~
 スピルバーグ家では、休日になると家族でよくホワイト山脈やグランドキャニオンへキャンプへ行った。母が大好きでハイキングへも行った。スピルバーグの後の映画人生に影響をあたえる出来事が起きた。ムービーカメラとの出会いである。彼、11歳の1957年、キャンプ旅行の時だった。
 父の日のプレゼントとに母のリアが、コダック製の8ミリカメラを父のアーノルドに贈った。父は、あらゆるものを撮ったが、そのうち、テレビの映画で映像感覚を磨いていたスピルバーグが、父の撮った映像は上手くないと批判した。そこで、父は、ついに何とカメラを息子に譲った。以後、家族の映画は、スピルバーグが撮った。
 それから、彼の本格的な映画人生が始まる。カメラの取り扱い方を最初に教えたのは、もちろん父、アーノルドだろう。
 ところで、わたしのようなスピルバーグファンや多くの映画ファンにとって、彼がどうやって小さい時からカメラを動かし撮影し監督していたのか知りたくてしょうがないでしょう。
『地球に落ちてきた男/スティーブン・スピルバーグ伝 ジョン・バクスター著 角川書店』によると母言わく、「スティーブンとカメラのことで最初に思い出すのは、主人と私が休暇を取って出掛けたときのことです。キャンピングカーが車まわしを出てゆくところを撮影するようスティーブンに頼んだのです。すると、あの子は、地面に腹這いになってホイールキャップを撮っていました。わたしたちは、大きな声でいいました。”早くしてちょうだい!もう行かなきゃ。急いでよ”出来上がりを見てみると、回転するホイールキャップのアップからだんだんカメラを引いて、キャンピングカー全体をちゃんと画面に収めていました。スピルバーグ流の作風をはじめて見たのがこのときです。」と語っている。いゃーあ、この話だけでも後の映像派の監督として巨匠となる彼の少年時代が想像できるし、今でもそうだがカメラを自由自在に動かしていろいろな映像をとることが好きでたまらない彼の姿が目に浮かぶ。
 その後は、キャンプ場でしたことをカメラに撮り続けた。「薪を割る父」「トイレ用の穴を掘る母」。「右目に刺さった釣り針を抜く妹」は、スピルバーグがはじめて作ったホラー映画である。また、「藪の中の熊」という怖い短編も作った。そして、はね上げ式のファインダーと35秒の手巻きのモーターがついたコダック製の一眼カメラで、技術的なことをすべて知り尽くしてしまうと、父を説得して三眼タレットつきの上位モデルを買ってもらった。ロングショットからミディアムショットやクローズアップまでできた。そのころ撮った映画のことをスピルバーグは、「ぼくが作った最初の映画は、見えない恐怖を体験するというものだった。森の中の散歩だよ。200メートルの距離を最初から最後までドリーショットで撮ったもので14分の映画だった。」最初の作品に恐怖を題材にしたところは、注目に値する。なぜなら、彼の名がプロの映画監督として世界中に知れ渡る作品が「激突!」、「ジョーズ」であったからである。
 そして、すぐにストーリー映画を作るようになる。最初の作品は、やはり11歳の時でちょうどボーイスカウトのころで題名は定かでないが、3分半の西部劇だった。入植者と地主の決闘を描いたものというからスピルバーグも西部劇の大ファンでアクション映画がお気に入りだったのだろう。後に、インディ・ジョーズシリーズを撮っているのがその事を物語っている。製作費に8ドル50セント。近所の家のオレンジの木を一本につき75セントで消毒してその費用をまかなった。ボーイスカウトの仲間たちにプラスチックのリボルバーを渡して演技してもらった。また、煙草を持っている大人に頼んで銃身の中に煙を吐き出してもらったので、エンディングは煙をあげるピストルをシェリフがホルスターに入れるシーンを撮ることが出来た。スカウトの友達がこの映画を気に入り、スピルバーグは写真技能賞を受賞した。彼言わく、「あの時、自分が将来何になりたいかわかったんだ」とのこと。
 学校でユダヤ人というだけでいじめられて辛い思いをし、さりとて成績優秀な生徒でもなく、運動も苦手で容姿も冒頭に触れたように特別かわいかったり格好いいわけでもない彼が映画のおかげで生きがいを感じたのである。
                               次回へ続く!

                               

 
※参考にした文献『地球に落ちてきた男/スティーブン・スピルバーグ伝 ジョン・バクスター著 角川書店』

 


「子供時代」~家族力、古い映画、視覚力~パート2

2008-01-20 06:54:36 | 連載コラム~スピルバーグ~
 スピルバーグの誕生日は、アメリカで初めてUFOが目撃された時期に近い。これは、後の作品「未知との遭遇」を彼がつくることを思うと驚きだ。
 スピルバーグの容姿について『地球に落ちてきた男/スティーブン・スピルバーグ伝 ジョン・バクスター著 角川書店』によると「背が低く、痩せた少年だった。耳が突き出て、細い顔が顎の先へ向けて長く伸びているため、口がV字形にゆがみ、下唇を突き出していつも口が半開きのように見えた。鼻も鉤鼻。声も鳥のように甲高くて抑揚がなく、早口でまくしたてた。」ユダヤ系アメリカン人らしい鼻の形をした、そして、今も早口は変わらない活動的で頭の回転が速くエネルギッシュな彼を語っている。
 さて、タイトルに挙げた家族力とはスピルバーグの両親からの影響・体験のことである。スピルバーグの父アーノルドと母リアは、シンシナティ生まれ。アーノルドは、リアと結婚すると空軍に入隊しビルマ戦線でB25爆撃機の通信技師になり戦争が終わると電子機器を扱う仕事に就いた。その後、事務機器メーカーに就職し、コンピュータの初期製品の設計をした。また、がらくたいじりが好きで家で遊んでいた。スピルバーグのテクニカル面の優れたところは、父親ゆずりだ。
 一方のリアは、クラシックのコンサートピアニスト志望であったが、結婚を機に諦めた。しかし、よく自宅に友達を招き一緒に演奏会を開き彼女が、ピアノを友達らは、ビオラやバイオリン、ハープを演奏した。たえず音楽が、家に流れていた。スピルバーグの音楽の素養、そして、クラシカルな芸術的な面の優れたところは、母親の影響だ。
 そして、1952年スピルバーグが、6歳のときにニュージャージーにいたが、父に連れられて経験した2つの出来事がスピルバーグの人生に大きな影響を与えることになる。
 1つは、流星群を見たこと。この日の事が忘れられない思い出となって、彼の映画には流れ星のシーンが多い。例えば、「ジョーズ」、「未知との遭遇」、「レイダース/失われたアーク」、「E.T」、「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」など。そして、スピルバーグに宇宙への関心を抱かせた。「未知との遭遇」は、まさしく父と見た流星群の体験が色濃く反映されているし、その延長上にある作品は「E.T」だ。
 もう1つは、初めて映画館に行ってセシル・B・デミル監督の「地上最大のショー」を見たこと。この映画は、見世物の代名詞であるサーカスの世界をサーカス団の人物らの人生描写も織り交ぜている作品。特にスピルバーグが、印象に残ったのは、ピエロ役のジェームズ・スチュアートと列車衝突シーンだ。この映画を見た思い出は、「E.T」、「宇宙戦争」の主人公の家のテレビに列車衝突シーンが映っている。また、彼の映画作りの基礎にも影響与えた。『スピルバーグ 筈見有弘著 講談社現代新書』によると「自分でもそんなシーンを撮りたくなったりもした。そこでミニチャーの機関車を実際に衝突させて撮影し、何度かそれをこわしてしまった。すると、父は、『模型の機関車をこわしたりすると、カメラも機関車も取り上げちまうぞ』とおどしたのでスティーブンは工夫した。ことなった方向から走ってくる機関車のショット、それに驚いて反応するかのようなプラスチック製の小さな人形の顔のショットを撮り、それを編集することで、あたかも衝突が起こったかのように見せることを考えだしたのである。」この監督デミルは、サイレント映画のころからスケールの大きな映画を撮る娯楽映画の神様と言われた人で、まさしく将来のスピルバーグ映画そのものだ。
                               次回へ続く!

「子供時代」~家族力、古い映画、視覚力~

2008-01-15 06:26:46 | 連載コラム~スピルバーグ~

 スピルバーグ言わく「芸術、建築、映画、演劇、小説といった創造的な分野で活躍している人々は、すべて子供時代の記憶の中から感動したものを探りあて、それを作品にしていくんだ」(『スティーブン・スピルバーグ・ストーリー』1983年Tony Crawleyの著作の翻訳を中心としたものより)また、『ウディ・アレンのすべて』(1997年井上一馬著河出書房社)のなかで、スピルバーグは、「映画監督は、少年時代に自分が見て楽しかったジャンルの映画を作るものだ」と語っている。

 スピルバーグの子供時代の記憶とは、家族力、古い映画、視覚力である。彼の生い立ちから青年時代に至るまでに触れることで後の作品が生まれる背景がわかる。本名スティーブン・アラン・スピルバーグはロシア系ユダヤ移民アメリカ人の3代目で19461218オハイオ州シンシナティの郊外アボンデールで生まている。ホームページの『ウィキペディア』のサイトによると「スピルバーグというドイツ語の苗字は、直訳すると芝居山という意味で祖先が17世紀に居住していたオーストリアの町の名前が由来。英語訳ではPlaymountとなりスピルバーグが若い頃に映画製作の社名にしていた」とのこと。彼の兄弟は、アン、スー、ナンシーの三人の妹。また、これは偶然だが活動写真の発明家エジソンが同じオハイオ州出身であるがスピルバーグがやがて映画人生を歩むことになることを考えると運命的なものを感じる。その後は、1949年にニュージャージー州ハドソンフィールドに引越し、1954年にアリゾナ州フェニックス近郊のスコッツディルへ行く。

 続きは、次回へ!

 

  

  

 

 

 

 

 


わたしとスピルバーグ

2008-01-14 06:40:34 | 連載コラム~スピルバーグ~

 私の贔屓の映画監督は、スティーブン・スピールバーグである。彼の映画、姿を見るだけでうきうきする。

 長年、彼の映画を見続けていると歳月が経過するなかで、監督も変わるしそれと同じく自分も変わっている。これは、とても楽しいことだ。そして、何よりも彼がつくる映画の人生、スピルバーグの人生を知ることができる。

 スピルバーグは、わたしの人生に大きく影響を与えた人、自分が落ち込んだ時は、人生の師の一人であり心の支えである。生きる希望と勇気を与えてくれるのが彼の映画。彼が好きになったきっかけは、「ジョーズ」。高校時代から彼の作品を全部見ている。もちろん、リアルタイム時、映画館で鑑賞できなかった作品はテレビ等の媒体で見た。なかでもベスト1は、今だに「ジョーズ」である。

 アメリカ映画は、たくさん見ている。好きな作品もたくさんある。好きな監督や俳優もいるがスピルバーグは特別。万年映画青年のようなところがある彼に好感をもった。元来スケールの大きい作品、娯楽に徹したスペクタクル作品が一番好きなジャンル。その演出力のトップは彼。特に語り口のうまさ、サスペンス、ショッカー演出は超一級品。

 彼の作品が、万人受けし魅力あるものとなるのは。そのほとんどがヒッチコック作品のようにわたしたちの等身大であるごく平凡な人間が主人公だからだ。例を挙げれば、「激突」然り「ジョーズ」然りである。これらの作品は、恐怖におののきながらも勇気を失うことなく敵に立ち向かう姿に共感するのだと思う。

 ところで、スピルバーグは、「激突」、「ジョーズ」、「未知との遭遇」、「インディ・ジョーンズシリーズ」、「E.T」、と大ヒット作を連発したが、彼も人間である。その後、話題作はもちろん多数あったが、興業・配収面で彼のつくる映画で世間を大旋風に巻き起こすほどの作品が出来ずに世間からも、業界からもそして、彼のファン達からも飽きられ彼の映画を見なくなった人々もいて、なかには「映画の巨匠」返上だという声もあった。確かにわたしもそう思った時期もあったが、彼の映画から離れることは無かった。今、思うにそのわけは彼の作る映画で、生きて行く元気がもらえた事、映画の面白さを知った事、そして、どんなときでも何より彼のファンでいたい気持ちが強かったからである。事実わたしも含め世界のどんな偉人でも人の子であり、神様ではない。人生がずっと順風満帆なはずがなく日々の生活だって良いときばかりではなく悪いときもある。彼の不遇の時期だった。オスカーからも業界の一部からも無視され長い冬の時代が続いた。作品で言うと「カラー・パープル」、「太陽の帝国」、「オールウェズ」、「フック」の頃だ。この時期は、映画監督として行き詰まっていた時で試行錯誤を繰り返し、もがきながら大人のドラマに挑んでいった。しかし、その努力が実って40代後半にして彼に春が来た。 

 その作品は、「ジュラシック・パーク」と「シンドラーのリスト」である。「ジュラシック・パーク」は、自分の原点である得意分野の映画に帰ってきたことで初心の気持ちを取り戻し「ジョーズ」タッチの作品で見事大ヒット飛ばし「E.T」以来、世界の興業成績を塗り替えた。また、「シンドラーのリスト」は、彼のルーツ、ユダヤ人をめぐる作品。実話を基にモノクロ撮影、移動型カメラを使用しシリアスなテーマだがエンタテイメントに仕上げてしまう事に脱帽。念願のオスカー監督賞受賞。もちろん、作品賞受賞。この時の喜びは、「ジョーズ」をみて彼のファンになった時と同一のものだった。

 それ以後から芸術と娯楽作品を交互に、時には続けて撮れる監督に成長した。彼が尊敬してやまない黒澤監督の域に近くなっている気がする。今のスピルバーグは、本人自身も語っているがいろんなジャンルの映画を撮っていきたいようだ。

 初期の頃は、観客を何より楽しませることを念頭に映画をつくっていた。もちろん、今もその姿勢は基本にあるが、自分が見たい映画、楽しみたい映画、家族に見せたい映画を撮るようになって来ている。

 私の一生の趣味となる映画のきっかけをつくってくれたスピルバーグ、その彼が尊敬する監督を始め歴史的な名作や偉大な監督たちの作品に触れる機会を与えてくれた彼に感謝したい。 

 また、映画監督の仕事は現場監督の部分が多いがそれをサラリーマンの世界に当てはめてみると、チーフやリーダー、管理職に当たる。職場でチーフの立場にいる私は、スピルバーグ監督の作品や彼の言動、行動から「この場合、スピルバーグならどうする?」「いかにしてリーダー・シップを発揮したらよいか?」という問いに常にヒントを与えてくれる。

 その一方で、映画の天才スピルバーグと言えども不遇の時代を経験しそれを見事克服した彼の生き様には勇気ずけられる。

 また、今は、少子化の時代、核家族の時代であるためスピルバーグが憧れている「コミュニティ」の大切さを痛感している。近隣地域と良い関係を作ることは、日ごろの暮らし、防災や防犯などの時に役立つ。それには、近隣地域の人々と交流の場を持ち地域の自治会活動に参加するなど地域との繋がりを深める必要がある。特に私のような40歳台の父親たちは、職場以外の人々と知り合うチヤンスや子育てに関しての情報交換、相談をする場の重要性を実感している中、最近「おやじの会」なるものが全国で5,000件あることを知った。この会は、自分たちの子供を通してお祭りやキャンプ、懇親会などを企画して見知らぬ父親同士が知り合い仲間なり子育てを支援しようというもので参加を目下検討中。

 つまり、私は大いに彼から刺激を受け自分の仕事・家庭生活・人生に生かしている。