goo blog サービス終了のお知らせ 

スピルバーグと映画大好き人間、この指とまれ!

カフェには、映画が抜群に良く似合います。
大好きなスピルバーグとカフェ、アメリカ映画中心の映画エッセイ、
身辺雑記。

「スピルバーグ来日の軌跡」

2008-05-27 05:31:52 | 連載コラム~スピルバーグ~

  番外編として、「A.Ⅰ」で2001年6.19に東京、内幸町の帝国ホテルとアメリカ、バージニア州アービントンを衛星回線で結んで生中継会見を行った。日本のマスコミ向けに会見するのは、製作の「ポルターガイスト」以来19年ぶり。現地「マイノリティ・リポート」の撮影現場からの会見であったために途中でトム・クルーズ乱入するうれしいハプニングあった。しかし、残念ながらこの時は、来日が実現できなかった。

専用ジェット機に乗って、「マイノリティ・リポート」で苦節16年ぶりの来日が実現した。トム・クルーズと日本へやって来た。第15回東京国際映画祭特別招待作品のオープニング作品上映のために来日した。渋谷オーチャードホール2002年10月26日(土)PM3:30会場PM4:30開演。トム・クルーズがサインのファンサービスするとつられてスピルバーグもサインをした。当然この時は、戸田奈津子さんが同行した。その後、舞台挨拶、本編上映となった。日本にいる滞在時間は、20時間だった。

次回へ続く!


「スピルバーグ来日の軌跡」

2008-05-25 05:29:52 | 連載コラム~スピルバーグ~

  先日、スピルバーグは、『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』のワールドプレミアがカンヌ映画際で行われた18日の前日の17日に日本の報道陣向けに6月5日に日本で開催される、『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』のジャパン・プレミアにルーカス、フォードと来日できないと語った。理由は、「娘の卒業式があるんだ。こればかりは延期するわけにも・・・」。 とコメントしていた。ファンとしては、とても残念でしたが、彼が、必ずや来日してくれる願いを込めて来日の軌跡をたどってみよう。

 1980年に日本来日を果たすが、女優エイミー・アービングと極秘に結婚しハネムーンに向かうが、日本の機上で破局を迎えるという悲しい来日となった。

「ポルターガイスト」の公開にあわせてその年の7月にキャンペーンで来日。異常な日本びいきで「僕の祖先は、日本人なんだよ」とジョークをとばしていた。その時に日本の好きなものとして挙げたものが、クロサワ、キョウト、スキヤキだった。

「カラーパープル」のプロモで1986年来日。字幕翻訳家、戸田奈津子さんと同行。この時から以来ずっとスピルバーグは公私にわたって戸田さんと親交を現在に至るまで温めている。

 次回へ続く!


「スピルバーグの人脈」~トム・ハンクス~

2008-05-17 05:38:21 | 連載コラム~スピルバーグ~

 トム・ハンクス

 最後に挙げたいのは、トム・ハンクス。「プライベート・ライアン」「キャッチ・ミー・イフ・ユーキャン」「ターミナル」と3度に渡りスピルバーグの作品に出演している。

 スピルバーグは、昔でいうところの善良な普通の人をやらしたら最高の演技をしたジェームズ・スチュアートの役柄をしてもらいたい時にハンクスを起用している。スピルバーグ言わく「トムのことはいつも尊敬していた。映画に対して適切なアドバイスをくれ、役や演技に対する私の考えに素直に耳を傾けてくれた。一緒に仕事をしたことで彼への尊敬の念は一層高まった」と「プライベート・ライアン」撮影時に語っている。

 また、スピルバーグの妻とトム・ハンクスの妻は親友同士でプライベートでも家族ぐるみのつき合いをしている。

 


「スピルバーグの人脈」~トム・クルーズ~

2008-05-14 06:21:02 | 連載コラム~スピルバーグ~

 トム・クルーズ

 トム・クルーズ。スピルバーグとトム・クルーズが最初に出会ったのは、後にスピルバーグとドリームワークスを創設することになるデイビッド・ゲフィンの紹介で、クルーズの「卒業白書」(1983年、ゴールデン・グローブ主演男優賞に初めてノミネートされる)の撮影現場をスピルバーグが訪ねたときである。

 それ以来一緒にできる企画を探し続けた。その中には、「レインマン」もあった。クルーズ言わく「スティーブンは、偉大なるアメリカのストーリーテラーだ。彼は、映画ならではの楽しみ、映画的快楽の瞬間を何度も僕らに与えてくれる。ずっと彼と一緒に仕事がしたかったんだ。」と「マイノリティ・リポート」で念願が叶った時に語っている。

そして、2回目のコラボレート作品の「宇宙戦争」では、クルーズは「スティーブンとは、波長が合う。キャラクター作りから映画全体に至るまで、僕らの間には共通のリズムが出来上る。とにかく、いろんな意味で彼との仕事は楽しい。次はどんな映画を作ろうか話している。」

一方のスピルバーグは「お互いに長年のつき合いですが、トムはとても知性にあふれた、創造的なパートナーで、現場で素晴らしいアイデアを出すので、私たちはお互いに刺激し合いました。トム・クルーズとの仕事はとても楽しいです。」と絶賛している。

 また、2人とも親日派で2人そろって2度来日しているなど仲の良い関係が覗える。


「スピルバーグの人脈」~ハリソン・フォード~

2008-05-13 05:38:44 | 連載コラム~スピルバーグ~

 ハリソン・フォード

 続いては、ハリソン・フォード。「レイダース/失われたアーク」の主役の考古学者インディアナ・ジョーンズ博士を演じた。この役は当初テレビ俳優のトム・セレックが予定されていたが、スケジュールがつかない状態でいた時、「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」のハン・ソロ役を見たスピルバーグがルーカスに電話を入れハリソン・フォードに決まった。

 「アメリカン・グラフィティ」のボブ・ファルファ役を手に入れてチャンスをつかみ、「スター・ウォーズ」のハン・ソロ役で有名になる。この「スター・ウォーズ」、「インディ・ジョーンズ」のビッグ2シリーズの主役を務めてスーパー・スターとなる。スピルバーグ言わく「ハリソンは、エロール・フリンのカッコ良さと“黄金”のハンフリー・ボガードの暗さの両方を持っている。アクションとラブ・ロマンスを同時に演ずることのできる現在唯一の男優だ」と「レイダース/失われたアーク」公開当時語っている。

 俳優業に徹している役者でマスコミ嫌いで公の場に出ることをあまり好まないが、スピルバーグが「シンドラーのリスト」でアカデミー賞作品賞を受賞したときは、プレゼンターとしてステージに立ちオスカーをスピルバーグに手渡し熱く固く抱きあってうれしそうに笑みを浮かべて祝福したところをみるとスピルバーグとの友情が感じられる。何せハリソンの代表作となったインディ・ジョーズシリーズ3部作を大ヒットさせた監督である。

 また、マスコミ嫌いであると書いたが、きっと仕事とプライベートをしっかり分けているのだろう。たまにインタビューを受けるハリソンを見るが映画の大スターであるのに非常に地味な印象を感じる。そんな彼が映画に出ると別人のようヒーローに変身するそのギャップが魅力だ。

 重ねて彼の趣味のひとつに大工仕事があるが、大スターになる前の下積時代には、大工仕事をして生計をたてていた。今もその大工をプライベートで彼が暮らすユタ州でひっそりしている。最近は、緒形 拳や仲代達矢のような渋さも増してきているそんな彼が私は好きだ。

参考文献:『スティーブン・スピルバーグ・ストーリー』1983年Tony Crawleyの著作の翻訳を中心としたもの(旺文社)


「スピルバーグの人脈」~リチャード・ドレイファス~

2008-05-11 05:35:04 | 連載コラム~スピルバーグ~

 リチャード・ドレイファス

 最後に俳優陣たちを紹介しよう。スピルバーグは、同じ俳優を再度起用することは少ないが、起用されたということは公私共に信頼関係がある。

 まず、リチャード・ドレイファス。親友ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフティ」を見たスピルバーグが気に入り「ジョーズ」の海洋学者フーパーに起用し、「ジョーズ」撮影中にスピルバーグから「未知との遭遇」の話を聞いて自分が演じられるキャラクターでは無かったが、スピルバーグに自分がやりたいと言った。そこで、スピルバーグは主役のロイ・二アリーのキャラクターを郊外に住む“普通の人”として書き直した。そして、「オールウェイズ」でも主役を務めるなどスピルバーグ作品に3作品に出演している。ちなみにこの「オールウェイズ」も「ジョーズ」撮影中にスピルバーグが映画化したいと言い出して実現したものだが、そのアイデアを出したのは、ドレイファスだった。

 1947年ニューヨークのブルクッリンに生まれる。高校の頃からプロの劇団に参加する。ロスでバーナード・ショーの芝居に出演したのをきっかけにルーカスに認められ「アメリカン・グラフィティ」の主役を得る。「グッバイガール」(1977)でアカデミー賞主演男優賞を受賞する。スピルバーグの映画に出るドレイファスは、茶目っ気たっぷりな愛すべき少年になる。同世代ということもあり、うまが合い冗談もお互いによく言う。スピルバーグ言わく「自分の分身を映画の中に登場させたいとき、僕は、ドレィファスをキャスティングする」と言っている。

参考文献:『スティーブン・スピルバーグ・ストーリー』1983年Tony Crawleyの著作の翻訳を中心としたもの(旺文社)

 


「スピルバーグの人脈」~ロバート・ゼメキス~

2008-05-10 06:45:38 | 連載コラム~スピルバーグ~

 ロバート・ゼメキス

 続いて登場するのが、ロバート・ゼメキス。スピルバーグの愛弟子。南カリフォルニア大学の映画学科出身で卒業後、ユニバーサルのテレビ・シリーズ「警部マクロード」と「The Night Stalker」の脚本を書いてユニバーサルに売り込みに行ったが、スピルバーグの有名な侵入記の伝記をそっくり真似をしたエピソードが残っている。

 スピルバーグとの出会いは、彼が「ジョーズ」を観て感動してスピルバーグの所へ行った。その後「1941」の脚本を担当。そして、あの大ヒット作、スピルバーグ製作の元ゼメキス監督・脚本の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズがある。また、「ロジャーラビット」もスピルバーグが製作を担当している。そして、後輩思いのスピルバーグは、ゼメキスが「フォレスト・ガンプ/一期一会」でアカデミー賞監督賞を受賞したときはプレゼンターを努めた。また、最近スピルバーグと共同で製作総指揮を務めたCGアニメ「モンスター・ハウス」がある。

参考文献:『スティーブン・スピルバーグ・ストーリー』1983年Tony Crawleyの著作の翻訳を中心としたもの(旺文社)


「スピルバーグの人脈」~ジョージ・ルーカス~

2008-05-08 05:43:20 | 連載コラム~スピルバーグ~

 ジョージ・ルーカス

 自ら監督である人たち。まず、真っ先に挙げなければいけない人物は、ジョージ・ルーカスである。

 スピルバーグが、ルーカスに初めて会ったのは、1968年頃というからお互い大学時代だ。ルーカスは、1964年南カリフォルニア大学の映画学科に入学。3年生になるまでに6本の映画を撮ったが、その内の1本「THX 1138:4EB」が全米学生映画祭でグランプリを受賞。1973年コッポラ製作のもと「アメリカン・グラフィティ」を監督し注目を集める。そして、永年の夢だったスペース・ファンタジーを自宅にこもり脚本を執筆する。これが「スター・ウォーズ」(1977)である。

 その後、「スター・ウォーズ」公開間際にルーカスは、映画の入りが心配でスピルバーグと一緒にハワイにいて「レイダーズ/失われたアーク」の構想を語りあった。「スター・ウォーズ」が大ヒットしてから製作業に向う。監督スピルバーグ、製作・原案ルーカスの記念すべきインディ・ジョーンズシリーズ第1作「レイダース/失われたアーク」を手掛ける。「レイダース/失われアーク」では、冒頭のジャングルでインディが大空へ脱出する複葉水上飛行機の胴体に文字に「OB-3PO」とあるのはオビワン・ケノービー、C3-POをパロディにしたもの。また、魂の井戸のシーンでアークが安置されている背後の壁にR2-D2とC3-POが刻まれている。「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」では、冒頭の上海クラブの名前がクラブ・オビワンとなっていて自作のキャラクターを再度パロディーにしている。

 ところで、スピルバーグとルーカスは、ライバルであり良き友人である。スピルバーグが外交的であるのに対してルーカスが内向的な性格であるために馬が合うのかもしれない。ジョン・ウィリアムズを紹介したのはスピルバーグ。もし、紹介していなければあの有名な「スター・ウォーズ」の曲は生まれなかった。その一方で、特撮工房I.L.Mを設立したルーカスの恩恵に授かってスピルバーグは、自作の監督、プロデュース作品の特撮の部分をI.L.Mに依頼して話題作、大ヒット作を生み出した。全幅の信頼を寄せている。

 先に触れたようにインディ・ジョーンズシリーズに自作のキャラクターを登場させるなどお遊びをいれているが、実は、スピルバーグは自作にルーカスのキャラクターをルーカスはスピルバーグのキャラクターをお互いに登場させている。映画で友情の証としてキャッチボールをしている。「E.T」では、ハロウィンの日にヨーダを登場させたり、「スター・ウォーズ/ファントム・メナス」のポットレースの観客席の中にE.Tを出している。さらに友情の証ということで言えばその際たる事として「スター・ウォーズ/シスの復讐」でのオビワンとアナキンの最後のムスタファーの溶岩が流れる中での決闘シーンの演出の一部とアドバイスを施したのはスピルバーグであり、「宇宙戦争」では、ルーカスに薦められてストーリーボードのアニメ3Dデジタル化であるプレヴィジュアライゼーションを採用したりしている。

 また、2人とも大の黒澤明監督のファンであり尊敬しているため黒澤明が特別名誉賞でオスカーを獲得した際は、2人でステージに立ちスピーチをするなど大親友ぶりがうかがえる。

参考文献:『スティーブン・スピルバーグ・ストーリー』1983年Tony Crawleyの著作の翻訳を中心としたもの(旺文社)


「スピルバーグの人脈」~アラン・ダビオー、ヤヌス・カミンスキー~

2008-05-03 05:53:53 | 連載コラム~スピルバーグ~

 アラン・ダビオー

 スピルバーグの古くからの友人である。スピルバーグの未完成作品である「Slipstream」のアイデアを通して知り合ったカメラマン。1969年のスピルバーグの記念すべき初36ミリ短編映画である「アンブリン」の撮影を担当する。その後、スピルバーグが商業映画の道を歩んだのに対し、商業映画が嫌いなためフリーでUCLA分校の学生に撮影技術を教えたり、ドキュメントやCMの撮影を数多く手掛ける。

 1981年テレビ映画「The Boy who Drank TOO Much」で認めら、それを観たスピルバーグは、すぐ電話をして「E.T.」の撮影を依頼したとのこと。「E.T.」ではスピルバーグと各シーンの撮影に時間をかけてベルイマンの映画を参考にして霧や湯気などを画面に出した。

 陽と陰がはっきりとわかる映像、太陽の明るい光を思う存分に取り入れるのが彼のスタイルだ。他の作品は、「トワイライトゾーン」(2、4話)「カラーパープル」「太陽の帝国」がある。

 ヤヌス・カミンスキー

 ポーランド生まれで1980年にアメリカに渡り、シカゴのコロンビア大学で芸術と映画で学位を取る。その後、ロスに移りアメリカン・フィルム・インスティテュートの撮影科に入学。

 1987年の「Fallen Angel」でデビュー。スピルバーグが1993年に発見した時は無名であったが、スピルバーグと初めて組んだ「シンドラーのリスト」でアカデミー賞を受賞する。特にこの作品では、真実を伝えるためのドキュメンタリー・タッチの映像やモノクロ撮影の素晴らしさが評価された。そして、「ザ・エージェント」(1996)やスピルバーグ作品「ロスト・ワールド」「アミスタッド」を手掛け、「プライベート・ライアン」では、ハンディ・カメラを多用し当時のニュース映画を思わせる映像が高い評価を受けて再びアカデミー賞を受賞する。

 その後は、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」「マイノリティ・リポート」「A.Ⅰ」「ターミナル」「宇宙戦争」を担当するなど最近のスピルバーグ作品を全部手がけている。スピルバーグから絶大なる信頼を得ている。スピルバーグ言わく「仕事が早いし、すごく芸術的で光を使って絵を描く素晴らし画面を撮る」

 彼の特徴のひとつとして挙げられるのが青っぽい色が多く、冷たさを感じさせる映像が多い点だ。太陽の光を極力抑え、陰影に富んだ撮影をするのが彼のスタイルだ。

 参考文献:『スティーブン・スピルバーグ・ストーリー』1983年Tony Crawleyの著作の翻訳を中心としたもの(旺文社)


「スピルバーグの人脈」~ビルモス・ジグモンド~

2008-05-02 06:01:20 | 連載コラム~スピルバーグ~

 ビルモス・ジグモンド

 スピルバーグの撮影監督たち。まず、ビルモス・ジグモンド。靄や霧のかかったような映像がスピルバーグの作品では特徴として挙げられる。

 スピルバーグとは「続.激突!カージャック」で初めて組み超望遠レンズを多用したショットが印象的。「未知との遭遇」ではアカデミー撮影賞をとる。スピルバーグは、彼のことについて「僕の右目と彼の左目を合わせてはじめてカメラが使えるようになる」と語っておりデビュー当時のスピルバーグにとってジグモンドは頼りになるスタッフであったことがうかがえる。

 ロバート・アルトマン監督に認められ「ギャンブラー」(1972)「ロング・グットバイ」(1973)で一躍有名になる。その後「ディア・ハンター」(1978)でのオーバーラップやスローモーションの手法でジグモンドタッチといわれる撮影法を完成した。その他の作品としては「愛のメモリー」(1976)「天国の門」(1980)がある。

 参考文献:『スティーブン・スピルバーグ・ストーリー』1983年Tony Crawleyの著作の翻訳を中心としたもの(旺文社)